纏向遺跡は邪馬台国か?(13)~奴国(通説)の範囲
前回、邪馬台国当時の大規模集落として九州北部の比恵・那珂遺跡の概要をお話しました。遺跡の規模・内容もさることながら、注目は、遺跡南の須玖岡本遺跡が、クニの首都であり比恵・那珂遺跡が、副首都だったと考えられることです。
そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。
奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今の糸島市とされてますから、その南東7.5kmにあることになります。通説では、福岡平野に面したエリアとされてます。
そのエリアにある福岡県の志賀島にて、江戸時代に「漢委奴国王」と刻印されている金印が発見されました。
中国史書の後漢書倭伝には、
”57年に、後漢の光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に金印を賜った。”
という記載があり、この記事と一致していることから、志賀島の金印は、漢の光武帝が下賜した、とされてます。
このことから通説では、金印の「漢委奴国王」を「漢の委(倭)の奴の国王」と読んでいます。
ようは、「奴(国)の国王がもらった金印」ということです。それだけ奴国は強大な国だったことになります。
一方、この説に対しては異論があります。
漢の皇帝は、服属のしるしとして近隣諸国に印を下賜してますが、あくまで与えた先は国全体を統治している国、すなわち都のある国です。当時の倭国は数十カ国からなるなる連合国家のようなものでした。その一つの国に過ぎなかった「奴国」に、最高の金印を下賜するはずがありません。
古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)は、「漢倭奴国王」を
「漢の委奴(いな、いぬ、いど)国王」
としました。「倭奴」とは、元来の国名は「倭」ですが、卑字である「奴」をつけたものです。北方異民族であった「匈奴(きょうど)」も同じですね。
つまりこの金印は、漢の光武帝が倭国王に下賜した金印だった、ことになります。このほうが、すっきりしますね。そしてこの倭国の王とは、魏志倭人伝に初めて名が出てくるのちの「邪馬台国」の王ということになります。
詳細は
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?”
を参照ください。
前段の整理が長くなりましたが、ようは通説では、奴国とは福岡平野に面したクニということです。
その領域の詳細について、考古学的成果から詳細に分析した論文があるので、紹介します。
「奴国とその周辺」(久住猛雄、福岡市教育会)です。なお論文では通説どおり、「福岡平野のクニ」=「奴国」としてます。
A.西の境界
・奴国の西には伊都国があったので、その間にある早良平野をどうとらえるかが、問題となる。早良平野には、弥生後期までは、吉武遺跡群を中核とする「クニ」が存続した可能性が高いが、それ以降は、奴国に編入された。
・奴国と伊都国との境界の遺跡には「環濠」が存在することから、奴国と伊都国に一定の緊張関係があったことが示唆される。
【解説】
まず西の境界ですが、伊都国との間には、吉武遺跡群があります。紀元前2世紀頃から吉武高木、吉武樋渡遺跡と続く遺跡で、特に吉武高木遺跡の3号木棺墓には、剣・鏡・玉の三種の神器が副葬されており、最古の王墓とされてます。ということは、相当な勢力をもった集団がいた、つまり「クニ」があったことになります。その「クニ」との関係について、奴国に編入された、と推定してます。
また、伊都国との関係も、友好関係ではなく一定の緊張関係があった、という指摘は注目ですね。魏志倭人伝では、”伊都国には特に一大率という長官を置いて国々を検察した。諸国はこれを恐れはばかった。”という記載がありますが、何となくその状況を彷彿とさせますね。
<吉武高木遺跡出土の三種の神器>
(福岡市博物館HPより)
B.北・南・南東端
・奴国の中核領域は、那珂川と御笠川の両領域である。金印出土の志賀島、能古島も含め、博多湾岸の大部分は奴国であろう。
・那珂川・御笠川上流では、弥生時代中期~後期初頭の拠点集落として、安徳遺跡がある。この一角に広形銅矛13本を埋納した安徳原田遺跡がある。これが那珂川上流での奴国南端を示す象徴的埋納であろう。
・御笠川上流域は、二日市地峡帯が南端、北方の高雄山付近が、南東境界であろう。
【解説】
博多湾岸の大部分は奴国の領域ですが、注目は、広形銅矛が埋納されている安徳原田遺跡を南端としていることです。
埋納というと、銅鐸の埋納が知られてます。なぜ埋納したのか、その理由はよくわかってませんが、一つの説として、他の「クニ」や集落との境界に、辟邪(へきじゃ)の意味を込めて埋めた、といわれてます。銅矛も同じように辟、邪の意味を込めて埋納したのでしょうか?。
銅鐸埋納については、
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎
を参照ください。
C.東側
福岡平野東部を画する月隈丘陵までであろう。丘陵の東側は、別の政治領域であり、推定「不弥(ふみ)国」であろう。
【解説】
月隈丘陵を東の境界として、その東を「不弥国」と推定してます。ちなみに、これについて私の見解は、?です・・・。
以上、細かくなってわかりずらくなりましたが、奴国の領域を示すと、下図のとおりです。
さて、この図をみて、どこかで見た図と似ているな、と思われた方もいるかもしれません。
以前、邪馬壹(台)国の領域を推定したものです。
久住氏は、考古学的」成果から、私は主として魏志倭人伝から推定したのですが、久住氏の推定する「奴国」と、私の推定した「邪馬壹(台)国」が、ほぼ同じ領域です。
これは偶然の一致でしょうか?。
ちなみに論文のなかで、久住氏は、邪馬台国の位置について言及していません。しかしながら、別論文において、”弥生時代後期の北部九州で、日本列島における最初の都市が成立していた可能性”を発表してます(「弥生時代における<都市>の可能性ー北部九州、特に比恵・那珂遺跡群を例としてー」)。
「都市」として成立していたかどうかは別として、少なくとも弥生時代後期において、博多湾岸に日本最大級の「クニ」があったことは間違いありません。
となると、その領域こそ「邪馬壹(台)国」の可能性が最も高い、と考えますが、いかがでしょうか?。
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そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。
奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今の糸島市とされてますから、その南東7.5kmにあることになります。通説では、福岡平野に面したエリアとされてます。
そのエリアにある福岡県の志賀島にて、江戸時代に「漢委奴国王」と刻印されている金印が発見されました。
中国史書の後漢書倭伝には、
”57年に、後漢の光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に金印を賜った。”
という記載があり、この記事と一致していることから、志賀島の金印は、漢の光武帝が下賜した、とされてます。
このことから通説では、金印の「漢委奴国王」を「漢の委(倭)の奴の国王」と読んでいます。
ようは、「奴(国)の国王がもらった金印」ということです。それだけ奴国は強大な国だったことになります。
一方、この説に対しては異論があります。
漢の皇帝は、服属のしるしとして近隣諸国に印を下賜してますが、あくまで与えた先は国全体を統治している国、すなわち都のある国です。当時の倭国は数十カ国からなるなる連合国家のようなものでした。その一つの国に過ぎなかった「奴国」に、最高の金印を下賜するはずがありません。
古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)は、「漢倭奴国王」を
「漢の委奴(いな、いぬ、いど)国王」
としました。「倭奴」とは、元来の国名は「倭」ですが、卑字である「奴」をつけたものです。北方異民族であった「匈奴(きょうど)」も同じですね。
つまりこの金印は、漢の光武帝が倭国王に下賜した金印だった、ことになります。このほうが、すっきりしますね。そしてこの倭国の王とは、魏志倭人伝に初めて名が出てくるのちの「邪馬台国」の王ということになります。
詳細は
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?”
を参照ください。
前段の整理が長くなりましたが、ようは通説では、奴国とは福岡平野に面したクニということです。
その領域の詳細について、考古学的成果から詳細に分析した論文があるので、紹介します。
「奴国とその周辺」(久住猛雄、福岡市教育会)です。なお論文では通説どおり、「福岡平野のクニ」=「奴国」としてます。
A.西の境界
・奴国の西には伊都国があったので、その間にある早良平野をどうとらえるかが、問題となる。早良平野には、弥生後期までは、吉武遺跡群を中核とする「クニ」が存続した可能性が高いが、それ以降は、奴国に編入された。
・奴国と伊都国との境界の遺跡には「環濠」が存在することから、奴国と伊都国に一定の緊張関係があったことが示唆される。
【解説】
まず西の境界ですが、伊都国との間には、吉武遺跡群があります。紀元前2世紀頃から吉武高木、吉武樋渡遺跡と続く遺跡で、特に吉武高木遺跡の3号木棺墓には、剣・鏡・玉の三種の神器が副葬されており、最古の王墓とされてます。ということは、相当な勢力をもった集団がいた、つまり「クニ」があったことになります。その「クニ」との関係について、奴国に編入された、と推定してます。
また、伊都国との関係も、友好関係ではなく一定の緊張関係があった、という指摘は注目ですね。魏志倭人伝では、”伊都国には特に一大率という長官を置いて国々を検察した。諸国はこれを恐れはばかった。”という記載がありますが、何となくその状況を彷彿とさせますね。
<吉武高木遺跡出土の三種の神器>

(福岡市博物館HPより)
B.北・南・南東端
・奴国の中核領域は、那珂川と御笠川の両領域である。金印出土の志賀島、能古島も含め、博多湾岸の大部分は奴国であろう。
・那珂川・御笠川上流では、弥生時代中期~後期初頭の拠点集落として、安徳遺跡がある。この一角に広形銅矛13本を埋納した安徳原田遺跡がある。これが那珂川上流での奴国南端を示す象徴的埋納であろう。
・御笠川上流域は、二日市地峡帯が南端、北方の高雄山付近が、南東境界であろう。
【解説】
博多湾岸の大部分は奴国の領域ですが、注目は、広形銅矛が埋納されている安徳原田遺跡を南端としていることです。
埋納というと、銅鐸の埋納が知られてます。なぜ埋納したのか、その理由はよくわかってませんが、一つの説として、他の「クニ」や集落との境界に、辟邪(へきじゃ)の意味を込めて埋めた、といわれてます。銅矛も同じように辟、邪の意味を込めて埋納したのでしょうか?。
銅鐸埋納については、
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎
を参照ください。
C.東側
福岡平野東部を画する月隈丘陵までであろう。丘陵の東側は、別の政治領域であり、推定「不弥(ふみ)国」であろう。
【解説】
月隈丘陵を東の境界として、その東を「不弥国」と推定してます。ちなみに、これについて私の見解は、?です・・・。
以上、細かくなってわかりずらくなりましたが、奴国の領域を示すと、下図のとおりです。

さて、この図をみて、どこかで見た図と似ているな、と思われた方もいるかもしれません。
以前、邪馬壹(台)国の領域を推定したものです。

久住氏は、考古学的」成果から、私は主として魏志倭人伝から推定したのですが、久住氏の推定する「奴国」と、私の推定した「邪馬壹(台)国」が、ほぼ同じ領域です。
これは偶然の一致でしょうか?。
ちなみに論文のなかで、久住氏は、邪馬台国の位置について言及していません。しかしながら、別論文において、”弥生時代後期の北部九州で、日本列島における最初の都市が成立していた可能性”を発表してます(「弥生時代における<都市>の可能性ー北部九州、特に比恵・那珂遺跡群を例としてー」)。
「都市」として成立していたかどうかは別として、少なくとも弥生時代後期において、博多湾岸に日本最大級の「クニ」があったことは間違いありません。
となると、その領域こそ「邪馬壹(台)国」の可能性が最も高い、と考えますが、いかがでしょうか?。
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