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纏向遺跡は邪馬台国か?(16)~比恵・那珂遺跡周辺遺跡群と魏志倭人伝との関係は?

前回は、北部九州の博多湾岸にあった「クニ」についてみました。「クニ」は、通説では「奴国」とされてます。

その中枢は、須玖岡本遺跡周辺であり、その後比恵・那珂遺跡に移ったと考えられます。ということは、当然のことながら、比恵・那珂遺跡と須玖岡本遺跡は一体とみなしてよいでしょうし、博多湾岸の「クニ」-通説の「奴国」も同じ文化圏ということです。

ではこの前提で、魏志倭人伝の描く「倭国」「邪馬台国」とどのくらい一致しているでしょうか?。検証してみましょう。

魏志倭人伝の記載を再掲します。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、少なく見積もっても33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、
槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。


では一つずつみていきましょう。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
遅くとも弥生時代前期から中期にかけて、人々が住み始めた集落であり、以降連綿と続いてますから、合致してます。

2.周辺含めた全体領域は、少なく見積もっても33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
「クニ」としては、福岡平野全体ですから、面積的には満たしてますね。なお畿内同様、「邪馬台国広域地域圏」という捉え方もあることは、前回お話しました。これだけの範囲であれば、人口の要件は満たせそうです。

3.海辺にあり、漁業を中心としている。
博多湾に面してますので、当然漁業が盛んだったことでしょうから、合致してます。

4.稲・麻を栽培している。

水田遺構が多くみつかってます。当時の庶民は麻の服をきていたと推定されてますから、麻も栽培してたでしょう。以上より、合致してます。

5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
福岡平野の遺跡からは、弥生時代の絹が出土してます。なかでも須玖岡本遺跡から出土した絹は、中国製ではないかともされており、大変貴重です。以上より、合致してます。

絹出土地 

絹製品出土地(弥生時代)
No時代(弥生)遺跡名所在
 ①前期末有田福岡市早良区
 ②中期初頭吉武高木福岡市西区
 ③中期前半比恵福岡市博多区
 ④中期前半および後半栗山福岡県甘木市
 ⑤中期中葉朝日北佐賀県神埼郡神埼町
 ⑥中期後半立岩福岡県飯塚市
 ⑦中期後半門田福岡県春日市
 ⑧中期後半須玖岡本福岡県春日市
 ⑨中期後半吉ケ浦福岡県太宰府市
 ⑩中期後半三会村長崎県島原市
 ⑪中期後半樋渡福岡市西区
 ⑫後期初頭栗山福岡県甘木市
 ⑬後期終末宮の前福岡市西区
  ⑭後期終末~古墳前期唐の原福岡市東区


6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
須玖岡本遺跡からは、大量の武器が出土してます。矛も数多く出土しており、合致してます。
参考までに、広形銅矛の全国的な分布は、下図のとおりです。
青銅器分布図 


上の図で、△は広形銅矛です。九州北部、対馬に集中しているのがわかります。ちなみに○は、突線紐式銅鐸です。畿内から三河地方にかけて分布してますね。

弥生時代の鉄出土状況を、県別にまとめたのが、下の図です。いずれも福岡県に集中してます。

以上から、明らかに合致してます。


弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別) 
順位弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄 
鉄の刀鉄剣鉄矛
都道府県個数都道府県個数都道府県個数都道府県個数
   1福岡県17福岡県46福岡県7福岡県70
   2鳥取県16京都府44佐賀・山口2京都府48
   3福井県6長崎県23  佐賀県25
   4佐賀県5兵庫県21長崎・長野1長崎県29
   5長崎県5佐賀県18  鳥取県16
   6京都府4群馬県16  兵庫県21
   7山口・広島3千葉県14  群馬県16
         
 奈良県0奈良県1奈良県0奈良県1
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。

弥生時代の鉄出土状況表②(都道府県別)
順位鉄の鏃
都道府県個数
   1福岡県398
   2熊本県339
   3大分県241
   4京都府112
   5岡山県104
   6宮崎県100
   7山口県97
   
 奈良県4
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。


7.南方・海洋系の風習である。
海に近接しており、
”現代の倭人は、潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”

という記載は現代でも通用しますから、合致してるとみていいでしょう。

8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
弥生時代の北部九州の墓には、槨がないのが一般的ですから、これも合致してます。

9.真珠・青玉が採れる。
青玉は諸説ありますが「碧(へき)玉」ではないか、ともいわれてます(寺村光晴氏、和洋女子大学名誉教授)。
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。硬さは石英よりやや低い。比重は 2.6~2.9で不純物が多いほど重い。色やつやにより次の種類がある。赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。緑・青色碧玉島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石とも呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

それはそれとして、玉の県別産地は下表のとおりです。
真珠もとれたでしょうから、合致してるとみていいでしょう。

<弥生時代勾玉都府県別出土数>

硬玉製勾玉ガラス製勾玉
都府県個数都府県個数
  1佐賀6福岡18
  2福岡4佐賀1
  3島根・長野1  
(水野祐著「評釈魏志倭人伝」より)




10.丹(硫化水銀)が採れる。
墳墓の内部を赤く塗るのにも使われました。魔よけの意味もあったとされます。
流化水銀は、国内に多くの産地がありますので、合致としていいでしょう。

11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
比恵・那珂遺跡で、建物跡と推定される遺構が発掘されてます。柵列も検出されてますので、合致してます。
吉野ヶ里遺跡でも同様の建物跡が発掘されてますね。

<吉野ヶ里遺跡、北内郭の大型建物 >

吉野ヶ里遺跡
(Wikipediaより)

<吉野ヶ里遺跡の柵>
吉野ヶ里、柵 
(筆者撮影)


12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。

防衛機能があった集落ですから、戦いがあったことを推定させます。また近隣にある「隈・西小田(くま・にしおだ)遺跡」(福岡県筑紫野市)からは、殺傷跡のある人骨が多数出土しており、大きな戦いがあったことを示してます(「弥生時代の戦闘戦術」(藤原哲)より)。
吉野ヶ里遺跡の甕棺には、頭骨のない人骨が埋葬されてます。首は切断されてもっていかれたとみられます。
以上から、合致とみていいでしょう。

<吉野ヶ里遺跡、頭骨のない人骨>
吉野ヶ里人骨 

(「Archeologyue 創刊号」(2004年7月28日発行、三重大学人文学部考古学研究室・山中章研究室)より)

以上より、比恵・那珂遺跡周辺遺跡群(奴国(通説)含む)の場合は、魏志倭人伝の記載に、何と100%合致していることが確認できました。


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奴国は邪馬台国か

>以上より、比恵・那珂遺跡周辺遺跡群(奴国(通説)含む)の場合は、魏志倭人伝の記載に、何と100%合致していることが確認できました。

〇なるほど、説得力がありますね。
 奴国は邪馬台国、問題点は水行10日、陸行30日でしょうか。
 草々

Re: 奴国は邪馬台国か

レインボーさんへ
コメントありがとうございます。

>  奴国は邪馬台国、問題点は水行10日、陸行30日でしょうか。

この点に関しては、かなり前にお話してますので、参照ください。

「邪馬台国までの道程をたどる(9)~「水行10日、陸行1月」の中身はこれだ!!」
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

同じ九州説でも、筑後地方と考える論者も多いです。
広域地域圏という考え方をとれば筑後地方も入るので、包含されますね。


魏志倭人伝を字義通りに解釈すれば、邪馬台国は徳島県にあった事に成ります。
①九州説は距離的に合わない。
②畿内(大和)説では方向性が違う。
この2つの矛盾を整合性のあるものにするのが阿波(四国)説です。魏志倭人伝には水銀鉱山の存在の記述があり、この時代の水銀朱生産の拠点は徳島県の若杉山遺跡でしか見つかってない。
但し、徳島の弱点は人口が少な過ぎ
倭国15万戸だと60〜70万人となるが、四国全体でも10万人ぐらいしか住んで無かった。
この問題を解決するのが、三国志魏書国淵伝です。古代中国では、敵軍を打ち破った時、自らの業績を誇大宣伝するため、相手方の勢力を10倍に粉飾して軍事報告するのが常でした。
この手法が魏志倭人伝にも使われたなら、倭国の実際の人口は1.5万戸の6〜7万人だった事になり、高知県(南の対立する狗奴国)を除いた当時の四国の人口と大体一致します。

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます。

> 魏志倭人伝を字義通りに解釈すれば、邪馬台国は徳島県にあった事に成ります。
> ①九州説は距離的に合わない。
> ②畿内(大和)説では方向性が違う。

魏志倭人伝の解釈についての私の考えは、すでに書いてます。
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-category-38.html
を参照ください。

Re:

徳島県の萩原墳墓郡は前方後円墳の原型とも見られ、同時代の徳島県産の水銀朱が畿内各地で使われてます。瀬戸内海航路が未発達な弥生時代に神武天皇東征は不自然。日本書紀は数百年にわたって12回も書き直されており信憑性低い。明治時代初頭に起きた阿波国風土記消失事件のキナ臭さなんかは邪馬台国四国説プンプン。

Re: Re:

> 徳島県の萩原墳墓郡は前方後円墳の原型とも見られ、同時代の徳島県産の水銀朱が畿内各地で使われてます。瀬戸内海航路が未発達な弥生時代に神武天皇東征は不自然。日本書紀は数百年にわたって12回も書き直されており信憑性低い。明治時代初頭に起きた阿波国風土記消失事件のキナ臭さなんかは邪馬台国四国説プンプン。

鳴瀬さんはどのような古代史観をおもちでしょうか?。
日本書紀の記述の信憑性は低い、という立場でしょうか?
また邪馬台国はどこにあるとお考えですか?。
根拠とともに教示ください。
鳴瀬さんの立場に合せた答え方をしたいと思います。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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