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纏向遺跡は邪馬台国か?(8)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実①

前回は、邪馬台国の広域地域圏という概念について、考察しました。結論としては、そうした概念はありうるものの、それが即「邪馬台国畿内説」とは、結びつかないことをお話しました。

そのポイントの一つとして、銅鐸祭祀をどのように考えるのか、があります。具体的には、纏向遺跡が銅鐸祭祀を行っていたのか、それならなぜ遺跡出現の3世紀頃に突然、中止したのかを明確にする必要があります。

なぜここにこだわるのかというと、大和王権の歴史書である古事記・日本書記に銅鐸に関する記載が一切無く、伝承されていた形跡もない、という文献上の事実があるからです。そうなると、纏向遺跡が大和王権とどのような関係になるのかを明確にする必要がある、ということです。

私はそもそも纏向遺跡で銅鐸祭祀を行っていたことに懐疑的です。したがって「邪馬台国=畿内広域地域圏」という考え方にも、「?」です。

これは非常に大きなテーマですが、長くなりますので、ここではこれ以上踏み込みません。

ところで、実際に、纏向遺跡を発掘していた現場担当者は、どのような考えをもっているのでしょうか?。どの世界においても、現場担当者の肌感覚というのは大いに参考になるものです。現場担当者にとって、自分たちの発掘しているものが邪馬台国の遺跡であれば、こんなにうれしいことはないでしょう。となると、全員が全員、「邪馬台国=畿内説」のような気もしますね。皆さんも興味がありませんか?。

今回は、そのあたりをみてみましょう。

論文を紹介します。
「考古学から観た邪馬台国大和説への疑問(1)(2)(3)(関川尚功(ひさよし)、季刊邪馬台国)」です。

関川氏は、橿原考古学研究所の所員として長年にわたり纒向遺跡の発掘調査に携わり、石野博信氏とともに報告書『纒向』を著した方です。現場を知り尽くしている人の一人といっていいでしょう。当然、「邪馬台国=畿内」説かと思ってしまいます。

ところがです。題名のとおり、「邪馬台国=畿内」説を、痛烈に批判しているのです。はたしてその根拠は何でしょうか?。早速内容をみていきましょう。

冒頭、邪馬台国候補地は九州北部と近畿・大和に大別されている、としたうえ、
”両地域はかなり隔たりがあり文化にもかなりの違いがあるので、比較ということであれば、むしろ考古学的な遺跡や古墳の検討が有効性を発揮しよう。”と述べてます。

そして、”邪馬台国大和説は歴史が長く、かなり根強いものがある。考古学の立場から大和説を主唱した小林行雄が活躍した1965年頃も、依然として前期古墳より出土した銅鏡が検討の対象だった。
これは当時、大和地域の弥生時代遺跡の内容や大型前方後円墳の出現時期などについて、未だ不明なところが多かったことが、その要因の一つであろう。”
と述べてます。

つまり、考古学的に昔から、「邪馬台国=畿内」説が唱えらえてきたが、それはまだ調査も不充分で科学的データも揃わなかった時代の話である、ということです。

そして、”今日では、これらの問題について、基本的な事実が明らかになってきたことも多い。”として、”弥生時代後期から庄内期にかけて、この地域における遺跡や墳墓・古墳の実態が、はたして邪馬台国の所在地としてふさわしいものか”、という観点から、論を進めてます。

初めに大和地域の弥生遺跡と墳墓の実態です。

1.大和地域の大型集落
”「拠点集落」とも呼ばれる大型集落遺跡の多くは、盆地東南部に偏在しており、河内に接する西部や山城にいたる北部地域には、大型集落はみられない。”

大和盆地内弥生遺跡
これは邪馬台国の面積検証の際にも出てきましたが、大和盆地内の平地面積は、全体では、約34千haほどあるものの、実際には盆地中央から北西部にかけては網状流路という低湿地で、常に河川の氾濫の脅威にさらされ、人が定常的に住めない地域であるというお話をしました。
それはこの図からもよくわかり、網状流路を避けるように、弥生時代遺跡があります。さらにその分布は盆地南西部に偏在しており、北部や南西部には、遺跡がないに等しいです。つまりそうした地域には大きな集落はなかった、ということです。

そうなると、実際の盆地内で定常的に人が住める土地は、見たところ全体面積約34千haの4分の1ほどですから、8千ha強ほどになり、邪馬台国の面積要件(最低33千ha)を満たさないことが、わかります。

”地域を代表する大型集落である唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期から始まり、中期には環濠が成立する。巨大な柱を使用した大型建物が現れ、銅鐸を始めとする青銅器の生産も行われる。ところが弥生時代後期に入ると集落は継続する一方、特色ある遺構や青銅器生産は確認されず、その終わり頃には大規模環濠もなくなる。
これらの大型集落は、古墳時代前期まで長期にわたって継続している。纏向遺跡成立後も、規模は縮小しても集落機能が続く遺跡が多いことは、注意される。”

以上のように、大和の集落について概括的に特徴を挙げてます。弥生時代後期になると、集落としての活動が低下していることは、注目です。その時期に、纏向遺跡が出現しているからです。
そして最後に、
”大和の弥生大型集落は集約的な立地で規模も大きく継続性があることが特徴であるが、隣接地域の大型集落と比較しても、その内容に大きな差はみられない。
と述べてます。

あれ?、と思われた方も多いのではないでしょうか?。
大和の遺跡というと、最近では盛んに纏向遺跡が取り上げられます。特にその規模が強調されますが、内容について少なくともそれ以前については、大和隣接の大型集落と大きな差はない、というのです。

2.大和地域の墳墓
”唐古・鍵遺跡では、木棺墓・方形周溝墓・土器棺墓がみられるが、弥生時代を通じて副葬品を有するものはない。また後期に入って丘陵上に出現する墳丘墓は、大和地域ではきわめて少ない。
一方、奈良盆地東方の宇陀市域では、弥生時代後期から古墳時代初めまで小規模ながら、多くの墳丘墓が築かれた。奈良盆地を南西に離れた五條市域でも、墳丘墓がみられるなど、弥生墳丘墓は、盆地内外で大きな違いがある。”
"弥生時代後期に瀬戸内・山陰・北陸など主に西日本各地で各種大型墳丘墓が発達するのに対して、大和地域では墳丘墓自体がほとんどみられず。さらに首長墓とされる大型墳丘墓については、むしろ空白地帯といえる。
”また方形周溝墓など弥生墳墓全体における副葬品もほぼ皆無の状態で、他地域とは著しい違いがみられる。”
このような実態は、少なくとも邪馬台国問題においては、肯定的な材料にはなりえないであろう。”

弥生時代の大和地域に大型墳丘墓がなかった、また副葬品もなかったとなると、果たして大和地域に、首長といえる人々がいたのか?、という疑問が沸きます。もちろん墓の様式は地域によってさまざまなので、そこまではいえないとしても、少なくとものちの古墳につながる文化はもっていなかったことは、確実です。
となると、古墳は大和地域のなかから自立的に生まれたのでない、という可能性が高まりますね。

3.大和地域の遺物
では遺物は、どうでしょうか?。特徴として、3つ挙げてます。

(1)目立つ東方系の土器

”唐古・鍵遺跡の他地域からの搬入土器は、西は吉備、北は近江、東は伊勢湾地域が主な交流範囲であり、邪馬台国と関係の深い北部九州との関係は全くといってよいほど認められない。全体的な傾向としては、むしろ東方との交流が多いことがうかがえる。”

纏向遺跡も同様ですが、搬入土器が多いことが特徴とされてます。ところがその搬入元は、東方が多く、土器の先進地域であった北部九州のものは全くみられないのです。つまり弥生時代後期の大和は、土器の先進地域ではなかった、ということになります。

(2)金属器の少なさ
当時の先端的武器といえば、金属器です。金属器の量は、文明の先進度を表すといってもいいでしょう。
では大和地域で、その金属器は大量に出土しているでしょうか?。

”弥生遺跡より出土した鉄器は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、その他の遺跡では、鉄斧・鉄鏃などで、総数10点ほどである。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を越えており、それと比較してもかなり少ない。”
青銅器については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点、小形の銅鏃が24点と最も多い。青銅器生産では、唐古・鍵遺跡他であるが生産遺跡数では河内のほうがやや多く、
大和地域が近畿の中でも特に突出していることはない。”

鉄器・青銅器とも、大和地域は少なく、むしろ大阪のほうが多いという結果です。当然、九州北部とは比較にもならない状況です。

(3)微々たる大陸系青銅器
最後に、邪馬台国を考える上で最も重要な大陸系遺物ですが、

”特徴的な大陸系青銅器の出土は、近畿地方の中でも特に少ない。大阪府下では、漢式鏡の破片や貨泉がすでに約20点出土しているが、大和地域では、その数ははるかに下回る。”
”大陸系青銅品の代表格である中国の銭貨・貨泉に至っては、東日本でも出土するところがあるにもかかわらず、奈良県内では未だに皆無の状態である。”
”大和弥生文化の特質を一書にまとめた川部浩司も、韓半島との直接的な交渉は期待できない、と述べている。”
と厳しい状況を指摘してます。
そして
”大和の弥生遺跡においては、国内の交流範囲の主体は、北部九州より、むしろ東方地域である。そして最も重視されるべき直接的な対外交流のあとは、全くといってよいほどうかがうことはできないまた、弥生時代を通じて、その伝統もみられないのである。”
と述べてます。

以上を読むと、何だか弥生時代の大和地方は、九州北部と比較する以前に、近畿の中においてでさえ文化の遅れた地域であったことが強く推定されます。そのような地域に、本当に邪馬台国があったのだろうか?、という疑問が強く沸き起こるのは、ごくごく自然なことではないでしょうか?。


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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m(__)m

\(^o^)/ こんばんは。いつも拝見させて頂いております。

7日、歴史を楽しもうかい7月定例会に参加してきました。

講師は関川尚功先生でした。

誠に勝手ですが、この記事を拙ブログで紹介・リンクしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

Re: m(__)m

minekazeyaさん
コメントありがとうございます。
関川氏の話、私も是非直接お聞きしたいところです。

> 誠に勝手ですが、この記事を拙ブログで紹介・リンクしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

リンクの件、了解です。
今後ともよろしくお願いいたします!
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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