纏向遺跡は邪馬台国か?(9)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実②

前回、纏向遺跡を長年にわたり発掘してきた関川尚功氏の論文を紹介しました。論文によれば、大和地域全体としてみれば、弥生時代後期までは、畿内の他地域と比べても特徴的・先進的な面があるとはいえず、九州北部と比べれば明らかに後進地域であったことが、わかります。

関川氏も、”こうした事実は、邪馬台国論争においても、肯定的な材料にはなりえない。”と述べてます。

これに対して、皆さんのなかにはこのように考える方がいるのではないでしょうか?。
”確かに、弥生時代後期までは後進的だったかもしれない。しかし、だからこそ、その後に出現した纏向遺跡が際立つのであり、それこそ邪馬台国の証明だ。”

では関川氏は、纏向遺跡をどのようにとらえているでしょうか?。

まず同時期の周辺遺跡全体のとらえかたですが、
”纏向遺跡の北には柳本遺跡が接しており、その北方には成願寺遺跡が、さらに北方には乙木・佐保庄遺跡が位置する。庄内期を中心とする遺跡が、纏向遺跡を含めて南北5kmに連なっており、一大遺跡群を形成している。
このような遺跡の分布は、ほぼ初期大型古墳群の位置と対応しており、相互の関連性がうかがわれえる。

【解説】
纏向遺跡というと纏向遺跡だけの話になりがちです。しかしながら考えてみれば当然の話ですが、当時から周辺にも集落が広がっていたのであり、それらを一体としてとらえないと、全体像がみえてきません。そうした点でもこの指摘は真っ当であり、特に初期大型古墳群との対応という点は、キーワードですね。

1.纏向遺跡の出現
”縄文時代の石器が出土し、弥生中・後期の遺構もある。弥生末期になって全くあらたに出現した遺跡ととらえるより、むしろこれまでの弥生遺跡との連続性も考える必要があろう。”

【解説】
纏向遺跡の特徴として、弥生時代末期になり突然出現した、そこに画期性があるのだ、という論調があります。しかしながら関川氏によれば、以前から存在した周辺遺跡との関連性を考えるべき、という指摘です。

2.纏向遺跡の立地
”他の弥生遺跡と大きく異なるところは、遺構が旧河川に挟まれた微高地上に分立し、環濠をめぐらせる遺跡ではないことである。このため、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められず、むしろ開放的な立地形態となる。
”纏向遺跡は地形的に河川域により分断された遺跡群である。大規模な水路遺構はあっても、環濠がないことは遺跡内外との区画が明確ではなく、本来的に計画的な集落とはいいがたいことがある。”

【解説】
これも意外なポイントです。弥生時代というと環濠集落が有名ですが、そのような形態ではない、つまり防御を想定していない、というのです。さらに、計画的な集落とはいいがたい、とまで述べてます。


纏向遺跡 

3.纏向遺跡大型建物の評価
”遺跡内で検出された大型建物群・柵について、その評価はむずかしい。太田北微高地上の河川に挟まれた南北約100mという、かなり狭いところにある。
建物A~Dのうち、Aはその後の調査では存在しなかったといい、最も大きいとされる建物Dについても主柱の半数以上が失われている。推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある。
はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえる地点であったのかは疑問であろう。
さらにこれらの建物を囲むとされる柵については柱痕とされる小穴は不揃いなところが多い。これらを明確・かつ整然とした柵と比較することは困難であろう。
”いずれにしろ纏向遺跡の全体像がまだ不完全な段階では、この建物群・柵をただちに庄内期頃の王宮クラスの遺構とするには、さらなる検証が必要なようである。

【解説】
大型建物跡については、以前「卑弥呼の宮殿か」として、マスコミ報道され話題になりました。報道だけ読むと、そのまま信じてしまいますが、そこまで断定するには、まだまだデータ不足といったところです。

4.纏向遺跡出土物の傾向と性格
(1)搬入土器の東方志向
”纏向遺跡の他地域からの搬入土器は、東海地方がその半数を占めている。北部九州の土器は微量で、その傾向は唐古・鍵遺跡と変わることはない。弥生時代と異なるところは、山陰系の土器が多いことであろう。”
として、
”主たる交流地域は、西方も重視されながらも、その重心はむしろ東方地域にあった、と言えるのではないだろうか。隣接する河内とは相違がある。”
”弥生・庄内期においては、同じ近畿地域において、生駒山を挟んで河内が西方に、大和が東方に志向するという対照的なありかたを示しており、古墳時代の一体化現象とは異なるようである。”
【解説】
これも興味深い指摘です。搬入土器の多さが特徴ですが、その搬入元は東海地方など東方であり、九州は微量だというのです。つまり九州の人は、ほとんど来ていないということになります。同じ畿内でも、河内は西方を志向しており、その対照性は際立ちますね。

(2)少ない金属製品と大陸系遺物
”青銅器の出土が非常に少ない。総量は唐古・鍵遺跡をかなり下回っている。特に漢式鏡など大陸系青銅器は出土していない。そして鉄製品も鍛冶関連遺物を除くと微量である。
大陸系遺物もきわめて少ない。”
【解説】
当時の先端技術であった青銅器・鉄製品が非常に少ない、大陸系遺物も少ない、ということは、後進文化圏だったこと、大陸との交流はほとんどなかったことを示してます。

(3)大和弥生遺跡との連続性
”青銅器・鉄器・土器の傾向は、唐古・鍵遺跡と全く同じ傾向である。纏向遺跡が大和の弥生遺跡との継続性を示していることは、この遺跡の性格を考えるうえで重要である。”
【解説】
このことは、纏向遺跡を造った人々は遠い地域の人々ではない、つまり異なった文化をもった人々がやってきて征服したのではない、ということになります。

(4)鉄器生産技術の外来性
鍛冶関連遺物が出土しているが、庄内期から古墳時代の初めであり、かなり新しい。鉄製品の多くは鉄の鏃など小型品に限られたようである。”
”鍛冶で使用された鞴(ふいご)の中には、福岡県博多遺跡出土の鞴と共通するものがある。”
朝鮮半島南部の陶質土器をともなっていることは注目される。纏向遺跡の鉄器生産が北部九州からの影響のもとで行われ、さらに半島南部の工人も加わっていていたことすら思わせる。
”纏向遺跡では新たな技術導入は北部九州から始まったこと、また対外交流の実態も、わずかに庄内末期の鉄器生産に関わるものが主体であったことを示している。”
【解説】
北部九州や半島南部の影響があると述べてます。(3)で纏向遺跡を造った人々は、遠い地域からやってきた人々ではない、としましたが、北部九州との関連が深い人々である可能性が高いです。

(5)古墳造営集落としての性格
”纏向遺跡は周辺の大型古墳造営のための「古墳造営キャンプ」である、という酒井龍一の見解がある。”
としてその根拠として、
”初期古墳に関わる特殊埴輪片の出土、鉄器生産・玉生産も古墳との関連性を想定させること、玉類の未成品や古墳の石室材と思しき板石の発掘など、遺跡と大型古墳群造営との関係は密接である。”
”纏向遺跡を含む盆地東南部の遺跡群が、大和政権の成立基盤であることは疑いないが、その要因に大古墳群の造営という大事業が大きく関わっているとみることができる。”

【解説】
ここから、纏向遺跡の性格について、大胆な仮説を紹介してます。それは「古墳造営キャンプ」ではないか、というものです。確かに纏向遺跡は、水田遺構もなく竪穴式住居も少ないなど、特殊であるだけに、興味深い仮説です。

5.大和地域の遺跡状況と邪馬台国
以上をまとめて、以下のように述べてます。
”以上のように、これまでの纏向遺跡の内容をみると、そこに邪馬台国として想定した場合、比較ができるような遺構・遺物というものが、全くといってよいほど見当たらないことに気づかされる。つまり、纏向遺跡の実態からは、邪馬台国との関連性を見出すことができない。”
”そして鉄器生産が端的に示しているように、庄内期後半に至るまで、一大遺跡群としての纏向遺跡自体には、北部九州を越える明確な先進性はうかがえない。”
”このような事実から、纏向遺跡は邪馬台国とは地域・性格、そして時代も異にする遺跡であるといえるのではないだろうか。”
”直接的な対外交流の痕跡というものが、決定的に欠けている。”
「魏志倭人伝」にみえる交流実態とは、およそかけ離れたものであるといえよう。”
【解説】
私はここまで、纏向遺跡は「魏志倭人伝」の邪馬台国の記載と一致しない、とお話してきましたが、それを補強する内容となってます。

”古墳時代中期・5世紀になると、状況は一変する。
倭の五王の時代であり、巨大古墳が大阪平野や奈良盆地に群在し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明瞭である。”
【解説】
この考古学上の根拠として、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器・馬の歯・骨などの出土を挙げています。

”このような古墳時代中期の状況と対比すれば、弥生時代後期・庄内期の奈良盆地において、北部九州の諸国を統率し、魏王朝と頻繁な交流を行ったという邪馬台国の存在は想定することもできない。”
”以上のように、大和地域の遺跡や墳墓にかかわる幾多の考古学的事実の示すところは、明確に邪馬台国大和説を否定している、といわざるをえない。”
【解説】
そして最後に改めて、「邪馬台国=纏向遺跡(大和)」説を強く否定してます。
これが実際に、纏向遺跡を発掘された方の論説であるだけに、驚きです。関川氏は、奈良県橿原考古学研究所の所属でした。ここまで「邪馬台国=大和」説を否定して、組織の中でうまくいっていたのだろうか?、などと、ついつい余計なことを考えてしまいます。

それはさておき、ここまでの中に、纏向遺跡(都市)出現の謎を解くヒントがあります。
列挙しますと、
a.纏向遺跡は、突然出現したのではなく、弥生時代の延長にある都市である。
b.唐古・鍵遺跡など周辺の遺跡に住んでいた人々と共通する文化をもっていた。
c.異文化をもった人々がやってきて征服してできた都市ではない。
d.鉄器生産など新たな技術導入は、九州北部の影響を受けている。
e.搬入土器の交流地域は東方に重心。河内は西方を志向しており、対照的である。
f.埴輪や祭祀は、吉備の影響も受けている。
 

これらを基に、結局纏向遺跡とは何なのか、天皇の宮なのか?、それとも「古墳造営キャンプ」なのか?、のちほど改めて考えていきます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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