纏向遺跡は邪馬台国か?(10)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実③
引き続き、関川氏論文です。次は古墳です。
周知のとおり、奈良盆地東南部には、箸墓(はしはか)古墳をはじめとした大型前方後円墳などの古墳群が広がってます。この大型前方後円墳の登場こそ各地のこれまでの古墳とは画期をなすものであり、古墳時代の始まりとしてます。
そして”考古学における邪馬台国大和説においては、このような古墳出現の歴史的基盤が、すでに大和において存在したであろう、という想定がその根底にある。”
としたうえで、
”邪馬台国と大型古墳の間には、どのようなつながりがあるのかが不明確である。”
と述べてます。
簡単にいうと、大和に大型古墳があるから邪馬台国も大和にあった、とされているが、そこには明確な論拠がなく、何となくそうに違いないという程度のものだ、ということです。
その関係性を明らかにするために、まずは古墳出現時期について論説してます。
”これまでの考古学の立場では、大型前方後円墳の出現は、3世紀中頃の邪馬台国の時代までは遡りえず、4世紀の統一国家ー大和政権の出現に、その契機を求めるというのが、一般的な解釈であった。”
【解説】
つまり、大型前方後円墳の出現と邪馬台国とは関係がない、というのが一般的だった、というのです。それが、古墳の出現を3世紀末から4世紀初め頃とすると、「魏志倭人伝」に記載の卑弥呼の宗女の壹與による西晋への遣使266年との差がきわめて短くなり、邪馬台国は大和となる、というわけです。
最近、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造年代が大幅に遡り、卑弥呼死去と同時期の3世紀中頃との説が出されてます。これで、「邪馬台国=大和」は決定といわんばかりです。
ところがです。
”このように一見すると、古墳出現年代が遡ることは、邪馬台国大和説の要のように思われる。しかし、それは古墳時代の出現が邪馬台国の時代にかかることになり、むしろ多くの矛盾が表出することになろう。”
と述べてます。
どのようなことでしょうか?。
今では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説は、通説のようにされてますが、実は、この説はさほど古来からあった説ではありません。箸墓古墳は、日本書紀の「崇神天皇紀」において、孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫女の墓として、古墳の築造状況のみならず、造営歌まで記されてます。
ところが、大正末頃、笠井新也氏(元徳島大学非常勤講師、考古学・古代史研究者、1884-1956)が、文献史学の年代観から、倭迹迹日百襲姫女(やまとととひももそひめのみこと)の事績が卑弥呼の事績と酷似しているとして、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を初めて唱えました。
笠井説は、その論証の精緻さもあり、「前人未到の大和説」と称されましたが、戦後の考古学界の反応は否定的でした。たとえば森浩一氏(同志社大学名誉教授)は、
”今日の考古学の水準では、箸墓は卑弥呼の時代より約100年はのちの時代に築かれたと考えられるので、邪馬台国大和説の根拠とすることはむつかしい。”
と批判してます。
この問題を掘り下げます。
一つが土器に関する研究です。かつては、古墳時代の土器は、「布留式土器」とされてきましたが、より古い土器「庄内式土器」が発見され、最古級の古墳にともなう土器とされました。
もう一つが「埴輪」に関する研究です。近藤義郎・春成秀璽氏によって、
”近畿地方の埴輪の始まりが明らかでないのに対して、吉備の地域においては、弥生時代後期以来の特殊器台が発達し、それが埴輪の起源であることを初めて示した。埴輪の配列という大型前方後円墳の重要な構成要素の一つの起源が、近畿以外にあることが判明した。”
のです。
なぜ土器と埴輪の研究が貴重かというと、大型古墳の相対年代を決定するのに、重要だからです。というのは、鏡などの副葬品にみでは、すべての大型古墳の時期を決めることはできないからです。なぜなら
”箸墓古墳をはじめ多くの大型古墳の副葬品は不明であり、発掘された古墳であっても、その組合せが完存している例は究めて少ないから。”です。
さて土器の埴輪からみた箸墓古墳をはじめとする初期大型古墳の築造年代についてです。
詳細は専門的になりすぎるので割愛しますが、結論だけいうと、箸墓古墳・桜井茶臼山古墳・葛本弁天塚古墳・ホケノ山古墳は、ほぼ同時期としてます。そしてその時期は、古墳初期の庄内式期ではなく、次の布留式期である、としてます。
なお以上は、あくまで相対年代です。では、絶対年代としては、どうなのでしょうか?。
寺沢薫氏(纏向学研究センター長)の「最新邪馬台国事情」、柳田康雄氏(元国学院大学教授)の「吉野ヶ里遺跡は語る」ともに、布留式期開始を4世紀頃としてますので、初期大型古墳の築造開始時期は、4世紀頃すなわち紀元300年頃となります。
上の図では、これらの古墳の築造時期は、
ホケノ山古墳の240年頃~桜井茶臼山古墳290年頃
と、50年ほどの間に設定してますが、すべてほぼ同じ時期、しかももっと新しい300年頃だ、ということです。
邪馬台国は、少なくとも3世紀頃(200年頃)には存在し、卑弥呼死去が3世紀中頃(250年頃)ですから、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が成立しないばかりか、初期大型古墳群も邪馬台国と無関係ということにならざるをえません。
さらに関川氏は、鋭い指摘をしてます。
”仮に前期初めの古墳が3世紀であれば、まず、古墳にともなう土器や埴輪もその時期となる。さらには、副葬品の中で数の多い石製品や銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類、また鉄製甲冑など、「魏志倭人伝」にも現れないような遺物までもこの時期に上がるということになる。”
【解説】
魏志倭人伝には、
”武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。”
と記載されてますが、指摘のとおり、鉄製の刀剣・槍の武器類、鉄製甲冑を身に着けているとは、書かれてません。つまり中国文献との不整合が出てくるというのです。
実際、このような武器類は、イメージからいっても、もっと新しい時代のものでしょう。
ここで皆さんのなかには、不思議に思われた方も多いのではないでしょうか?。
”では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は、何を科学的根拠としているのか?。”
ここで登場するのが、土器付着物の「炭素14年代測定法」です。簡単にいうと、土器に付着している食材とか木材などに含まれている炭素を、「炭素14年代測定法」という方法で測定して、絶対年代を推定する方法です。
これだけ聞くと科学的であり、何ら問題はないのですが、実はここに大きな落とし穴があるのです。
”年代測定にあたる理化学研究者より、測定試料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出してできたのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。”
【解説】
このブログでも
纏向遺跡は邪馬台国か(7)~広域地域圏という概念
で紹介したように、国立歴史民族博物館をはじめとして、特に弥生時代の絶対年代が遡らせる発表がされています。これに対して、多くの科学者から異論が出されています。
いずれにしろ、箸墓古墳等の「炭素14年代測定法」は正確ではない、ということです。
また、前方後円墳の出現を長らく研究してこられた近藤義郎氏は、
”大和に前方後円墳秩序を創出するほどの勢力の存在を認めることが難しくなったようだ。”
と述べてます。
以上のとおり、大和においては、弥生時代の首長墓の系譜が未だに確認できないわけですが、これに対して、
”北部九州のあり方と対照的である。”
と述べてます。
具体的には、福岡県の三雲南小路・井原鑓溝(やりみぞ)、須玖岡本、平原1号墳など、
”北部九州では、弥生時代中期から後期末に至る王墓級の墳墓の存在が、実に江戸時代以来、長期にわたって連綿と見出されている。”
”今日に至るまで、未だに北部九州と対比できる有力首長墓が不明確な、大和を始めとする近畿中部の状態とは、比較もできないほどの違いである。”
と、その差を指摘してます。
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そして”考古学における邪馬台国大和説においては、このような古墳出現の歴史的基盤が、すでに大和において存在したであろう、という想定がその根底にある。”
としたうえで、
”邪馬台国と大型古墳の間には、どのようなつながりがあるのかが不明確である。”
と述べてます。
簡単にいうと、大和に大型古墳があるから邪馬台国も大和にあった、とされているが、そこには明確な論拠がなく、何となくそうに違いないという程度のものだ、ということです。
その関係性を明らかにするために、まずは古墳出現時期について論説してます。
”これまでの考古学の立場では、大型前方後円墳の出現は、3世紀中頃の邪馬台国の時代までは遡りえず、4世紀の統一国家ー大和政権の出現に、その契機を求めるというのが、一般的な解釈であった。”
【解説】
つまり、大型前方後円墳の出現と邪馬台国とは関係がない、というのが一般的だった、というのです。それが、古墳の出現を3世紀末から4世紀初め頃とすると、「魏志倭人伝」に記載の卑弥呼の宗女の壹與による西晋への遣使266年との差がきわめて短くなり、邪馬台国は大和となる、というわけです。
最近、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造年代が大幅に遡り、卑弥呼死去と同時期の3世紀中頃との説が出されてます。これで、「邪馬台国=大和」は決定といわんばかりです。

ところがです。
”このように一見すると、古墳出現年代が遡ることは、邪馬台国大和説の要のように思われる。しかし、それは古墳時代の出現が邪馬台国の時代にかかることになり、むしろ多くの矛盾が表出することになろう。”
と述べてます。
どのようなことでしょうか?。
今では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説は、通説のようにされてますが、実は、この説はさほど古来からあった説ではありません。箸墓古墳は、日本書紀の「崇神天皇紀」において、孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫女の墓として、古墳の築造状況のみならず、造営歌まで記されてます。
ところが、大正末頃、笠井新也氏(元徳島大学非常勤講師、考古学・古代史研究者、1884-1956)が、文献史学の年代観から、倭迹迹日百襲姫女(やまとととひももそひめのみこと)の事績が卑弥呼の事績と酷似しているとして、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を初めて唱えました。
笠井説は、その論証の精緻さもあり、「前人未到の大和説」と称されましたが、戦後の考古学界の反応は否定的でした。たとえば森浩一氏(同志社大学名誉教授)は、
”今日の考古学の水準では、箸墓は卑弥呼の時代より約100年はのちの時代に築かれたと考えられるので、邪馬台国大和説の根拠とすることはむつかしい。”
と批判してます。
この問題を掘り下げます。
一つが土器に関する研究です。かつては、古墳時代の土器は、「布留式土器」とされてきましたが、より古い土器「庄内式土器」が発見され、最古級の古墳にともなう土器とされました。
もう一つが「埴輪」に関する研究です。近藤義郎・春成秀璽氏によって、
”近畿地方の埴輪の始まりが明らかでないのに対して、吉備の地域においては、弥生時代後期以来の特殊器台が発達し、それが埴輪の起源であることを初めて示した。埴輪の配列という大型前方後円墳の重要な構成要素の一つの起源が、近畿以外にあることが判明した。”
のです。
なぜ土器と埴輪の研究が貴重かというと、大型古墳の相対年代を決定するのに、重要だからです。というのは、鏡などの副葬品にみでは、すべての大型古墳の時期を決めることはできないからです。なぜなら
”箸墓古墳をはじめ多くの大型古墳の副葬品は不明であり、発掘された古墳であっても、その組合せが完存している例は究めて少ないから。”です。
さて土器の埴輪からみた箸墓古墳をはじめとする初期大型古墳の築造年代についてです。
詳細は専門的になりすぎるので割愛しますが、結論だけいうと、箸墓古墳・桜井茶臼山古墳・葛本弁天塚古墳・ホケノ山古墳は、ほぼ同時期としてます。そしてその時期は、古墳初期の庄内式期ではなく、次の布留式期である、としてます。
なお以上は、あくまで相対年代です。では、絶対年代としては、どうなのでしょうか?。
寺沢薫氏(纏向学研究センター長)の「最新邪馬台国事情」、柳田康雄氏(元国学院大学教授)の「吉野ヶ里遺跡は語る」ともに、布留式期開始を4世紀頃としてますので、初期大型古墳の築造開始時期は、4世紀頃すなわち紀元300年頃となります。
上の図では、これらの古墳の築造時期は、
ホケノ山古墳の240年頃~桜井茶臼山古墳290年頃
と、50年ほどの間に設定してますが、すべてほぼ同じ時期、しかももっと新しい300年頃だ、ということです。
邪馬台国は、少なくとも3世紀頃(200年頃)には存在し、卑弥呼死去が3世紀中頃(250年頃)ですから、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が成立しないばかりか、初期大型古墳群も邪馬台国と無関係ということにならざるをえません。
さらに関川氏は、鋭い指摘をしてます。
”仮に前期初めの古墳が3世紀であれば、まず、古墳にともなう土器や埴輪もその時期となる。さらには、副葬品の中で数の多い石製品や銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類、また鉄製甲冑など、「魏志倭人伝」にも現れないような遺物までもこの時期に上がるということになる。”
【解説】
魏志倭人伝には、
”武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。”
と記載されてますが、指摘のとおり、鉄製の刀剣・槍の武器類、鉄製甲冑を身に着けているとは、書かれてません。つまり中国文献との不整合が出てくるというのです。
実際、このような武器類は、イメージからいっても、もっと新しい時代のものでしょう。
ここで皆さんのなかには、不思議に思われた方も多いのではないでしょうか?。
”では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は、何を科学的根拠としているのか?。”
ここで登場するのが、土器付着物の「炭素14年代測定法」です。簡単にいうと、土器に付着している食材とか木材などに含まれている炭素を、「炭素14年代測定法」という方法で測定して、絶対年代を推定する方法です。
これだけ聞くと科学的であり、何ら問題はないのですが、実はここに大きな落とし穴があるのです。
”年代測定にあたる理化学研究者より、測定試料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出してできたのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。”
【解説】
このブログでも
纏向遺跡は邪馬台国か(7)~広域地域圏という概念
で紹介したように、国立歴史民族博物館をはじめとして、特に弥生時代の絶対年代が遡らせる発表がされています。これに対して、多くの科学者から異論が出されています。
いずれにしろ、箸墓古墳等の「炭素14年代測定法」は正確ではない、ということです。
また、前方後円墳の出現を長らく研究してこられた近藤義郎氏は、
”大和に前方後円墳秩序を創出するほどの勢力の存在を認めることが難しくなったようだ。”
と述べてます。
以上のとおり、大和においては、弥生時代の首長墓の系譜が未だに確認できないわけですが、これに対して、
”北部九州のあり方と対照的である。”
と述べてます。
具体的には、福岡県の三雲南小路・井原鑓溝(やりみぞ)、須玖岡本、平原1号墳など、
”北部九州では、弥生時代中期から後期末に至る王墓級の墳墓の存在が、実に江戸時代以来、長期にわたって連綿と見出されている。”
”今日に至るまで、未だに北部九州と対比できる有力首長墓が不明確な、大和を始めとする近畿中部の状態とは、比較もできないほどの違いである。”
と、その差を指摘してます。
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