纏向遺跡は邪馬台国か?(11)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実④
3回にわたり、実際に纏向遺跡を発掘調査された、関川氏(元橿原考古学研究所)の論文を、紹介してきました。その内容は、地元畿内の邪馬台国畿内説ではなく、逆にそれは成り立たない、という刺激的な内容でした。
最後に、纏向遺跡に対して興味深い指摘をしてます。
”纏向遺跡は庄内式から布留式にかけての時代であるが、この時期も、中国王朝と直接交渉の無かった時代とみることができ、卑弥呼の時代よりは後の遺跡とみることができる。”
【解説】
これはどういうことかというと、中国史書には、卑弥呼~壹與のあとの時代の話が全く出てこない、つまりその時代は倭国と中国で交流がなかった時代といえるわけです。一方、纏向遺跡には対外交流の痕跡がないので、纏向遺跡や初期大型古墳は、卑弥呼~ 壹與の時代のあと、すなわち3世紀終わりから4世紀頃のものだろう、という話です。一考に値する指摘です。
そしてさらに、邪馬台国問題の本質に切り込みます。
”邪馬台国問題は、歴代の中国王朝や中国文化というものに対し、どのように対応してきたのか、という日本古代史の根本にかかわることであるといってよい。邪馬台国問題の本質は、日本の古代史に通底している中国との関係史ということにあろう。”
”中国との通交形態からみると、すでに紀元前108年に、漢の武帝による朝鮮四郡の設置を契機として、楽浪郡を通じて漢王朝との通交が開始されている。、考古学資料では、これ以降、北部九州の首長墓では朝鮮半島遺物に代わり、中国・前漢時代の副葬品が現れる。このように、列島内の倭人の小国家においては、中国王朝の郡県が約400年もの間、朝鮮半島中部付近にまで及んだことの影響は、きわめて大きかった。”
【解説】
当然、邪馬台国卑弥呼の時代の中国王朝との通交も、この流れの中にあるわけです。それが、その後の古墳時代に、全く異なったものになります。
”古墳時代中期、5世紀のいわゆる「倭の五王」時代の段階では、すでに楽浪・帯方郡は消滅しており、朝鮮半島における対中国外交の基点が失われている。このため、これに代わるものとして、おそらく百済を介したであろう中国南朝との限定的な通交に変化している。
このように邪馬台国の外交方式で重要なことは、楽浪郡を介して中国王朝との直接交流を行うという、弥生時代を通じた北部九州の小国家による通交形態の延長上にあることである。
このことは邪馬台国の性格ばかりでなく、その所在地自体においても、これまでの弥生時代北部九州の小国家と基本的に大きく変わるものではない、ということを示しているのではなかろうか。”
【解説】
つまり、弥生時代を通じた中国との通交は北部九州が担っていたのであるから、邪馬台国の時代になっても同様のはずであり、そう考えると、邪馬台国の位置は北部九州となる、ということです。
ここで関川氏は、伊都国との関係にも触れ、
”邪馬台国の位置は、伊都国と大きく離れない位置にあると思われ、地理的関係を考えても、北部九州に求めるのが妥当であろう。”
【解説】
伊都国は現在の福岡県糸島市付近にあったとされてますので、邪馬台国もその近く、つまり九州北部にあったと考えるべきである、ということです。
このように関川氏は、邪馬台国は北部九州にあったとしてます。
そして「邪馬台国九州」説の最大の難点についても言及してます。
その最大の難点とは、「魏志倭人伝」にある邪馬台国の戸数「七万余戸」です。
”邪馬台国九州説の遺跡に対する異論の主な理由は、邪馬台国の時代の北部九州においては、奴国や伊都国をはるかに超える遺跡は認めがたい、ということである。”
【解説】
ここでいう奴国とは、福岡平野に広がる遺跡群のことです。「魏志倭人伝」で、「二万余戸」と記載されてます。伊都国は、糸島市付近で、「千余戸」と記載されてます。邪馬台国は、「七万余戸」ですから、奴国の3倍を超える人口であり、そんな巨大な遺跡は九州にないではないか、というのが異論の根拠です。
これに対して、関川氏は、至極単純明快な反論をしてます。
”北部九州に奴国をはるかに上回る遺跡が見られない、というのであれば、それは、北部九州のみならず、近畿・大和でも同じことであろう。”
【解説】
つまり邪馬台国大和説の人は、人口を論拠に邪馬台国北部九州説を否定するが、大和についても同じことが言えるわけで、まさに「自分のことを棚にあげて」という論法になっているではないか、という反論です。まったくそのとおりですね。
そして最後に、極めて重要な指摘をしてます。それは、
”北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性という考古学的事実”
です。
具体的にいうと、
”大和の前期大型古墳では、鏡の多量副葬や平原1号墳でみるような特大鏡の出土、また古墳の石室では朱が多用され、腕輪形石製品が多量出土するなど、中山(平次郎)が指摘した事実が今日に至ってもさらに事例を加えており、その関連性はもはや疑いえない。”
”北部九州の弥生文化が、このような近畿の前期古墳文化の中にみられるとなれば、当然、北部九州を代表する邪馬台国の文化も継続しているものとみなくてはならないであろう。”
”しかし、このような問題について、これまでに考古学、特に邪馬台国大和説の立場からは、明確な見解はみることはできない。”
”今後は、邪馬台国の地域内の位置問題と共に、邪馬台国からいわゆる大和政権への確立過程が、どのように検証できるのか、ということにかかってこよう。”
【解説】
大和の古墳というと、三角縁神獣鏡をはじめとする大型鏡の副葬が特徴とされ、それらがあたかも大和の専売特許のような捉えられです。ところがその風習は、大和で始まったのではなく、もともとは北部九州の風習だったわけです。そうなると、大和の文化は、北部九州の文化が継承されているとみるべきだ、ということです。
<平原1号墳>

(Wikipediaより)
(伊都国歴史博物館「常設展示展図録より)
文化が継承されている、ということは、北部九州が大和に比べて先進的な文化であったことを示してますし、人の移動もあったことになります。
ここで、私のブログや著書を読まれている方の中には、ピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか?。
私はここまで、中国史書や古事記・日本書紀等を読む限り、少なくとも元前後より倭国の中枢は北部九州にあったと考えられると、お話してきました。そして、その権力の中枢は、7世紀終わりから8世紀にかけて、近畿の大和地方へと移動していったと推定しました。これらは、鉄器・銅矛・絹・玉・三種の神器・土器・銅鐸・イネ等、当時の文明といえるもののほとんどが、「西→東」へと移動していることなどからも推定できる、とお話してきました。
関川氏は、「西→東」への権力移動に関して、そこまで具体的には述べてませんが、方向性は一致してるといえましょう。
なお、移動時期については、関川氏の論文中には具体的には記載されてませんが、「倭の五王」の時代、すなわち5世紀から6世紀にかけての時期を示唆してます。
私の推定時期より2世紀ほど遡っており、諸々検証が必要ではありますが、大きな流れとしては同じと考えていいでしょう。
関川氏の名前は以前から聞いていましたが、論文を詳細に読み込んだのは、今回が初めてです。あらためて、奈良の「橿原考古学研究所」にて長年発掘調査に携わってこられた方の考えと、私の考え方が、同じ方向性を向いているとは、大きな驚きであったとともに、心強く思えた次第です。
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最後に、纏向遺跡に対して興味深い指摘をしてます。
”纏向遺跡は庄内式から布留式にかけての時代であるが、この時期も、中国王朝と直接交渉の無かった時代とみることができ、卑弥呼の時代よりは後の遺跡とみることができる。”
【解説】
これはどういうことかというと、中国史書には、卑弥呼~壹與のあとの時代の話が全く出てこない、つまりその時代は倭国と中国で交流がなかった時代といえるわけです。一方、纏向遺跡には対外交流の痕跡がないので、纏向遺跡や初期大型古墳は、卑弥呼~ 壹與の時代のあと、すなわち3世紀終わりから4世紀頃のものだろう、という話です。一考に値する指摘です。
そしてさらに、邪馬台国問題の本質に切り込みます。
”邪馬台国問題は、歴代の中国王朝や中国文化というものに対し、どのように対応してきたのか、という日本古代史の根本にかかわることであるといってよい。邪馬台国問題の本質は、日本の古代史に通底している中国との関係史ということにあろう。”
”中国との通交形態からみると、すでに紀元前108年に、漢の武帝による朝鮮四郡の設置を契機として、楽浪郡を通じて漢王朝との通交が開始されている。、考古学資料では、これ以降、北部九州の首長墓では朝鮮半島遺物に代わり、中国・前漢時代の副葬品が現れる。このように、列島内の倭人の小国家においては、中国王朝の郡県が約400年もの間、朝鮮半島中部付近にまで及んだことの影響は、きわめて大きかった。”
【解説】
当然、邪馬台国卑弥呼の時代の中国王朝との通交も、この流れの中にあるわけです。それが、その後の古墳時代に、全く異なったものになります。
”古墳時代中期、5世紀のいわゆる「倭の五王」時代の段階では、すでに楽浪・帯方郡は消滅しており、朝鮮半島における対中国外交の基点が失われている。このため、これに代わるものとして、おそらく百済を介したであろう中国南朝との限定的な通交に変化している。
このように邪馬台国の外交方式で重要なことは、楽浪郡を介して中国王朝との直接交流を行うという、弥生時代を通じた北部九州の小国家による通交形態の延長上にあることである。
このことは邪馬台国の性格ばかりでなく、その所在地自体においても、これまでの弥生時代北部九州の小国家と基本的に大きく変わるものではない、ということを示しているのではなかろうか。”
【解説】
つまり、弥生時代を通じた中国との通交は北部九州が担っていたのであるから、邪馬台国の時代になっても同様のはずであり、そう考えると、邪馬台国の位置は北部九州となる、ということです。
ここで関川氏は、伊都国との関係にも触れ、
”邪馬台国の位置は、伊都国と大きく離れない位置にあると思われ、地理的関係を考えても、北部九州に求めるのが妥当であろう。”
【解説】
伊都国は現在の福岡県糸島市付近にあったとされてますので、邪馬台国もその近く、つまり九州北部にあったと考えるべきである、ということです。
このように関川氏は、邪馬台国は北部九州にあったとしてます。
そして「邪馬台国九州」説の最大の難点についても言及してます。
その最大の難点とは、「魏志倭人伝」にある邪馬台国の戸数「七万余戸」です。
”邪馬台国九州説の遺跡に対する異論の主な理由は、邪馬台国の時代の北部九州においては、奴国や伊都国をはるかに超える遺跡は認めがたい、ということである。”
【解説】
ここでいう奴国とは、福岡平野に広がる遺跡群のことです。「魏志倭人伝」で、「二万余戸」と記載されてます。伊都国は、糸島市付近で、「千余戸」と記載されてます。邪馬台国は、「七万余戸」ですから、奴国の3倍を超える人口であり、そんな巨大な遺跡は九州にないではないか、というのが異論の根拠です。
これに対して、関川氏は、至極単純明快な反論をしてます。
”北部九州に奴国をはるかに上回る遺跡が見られない、というのであれば、それは、北部九州のみならず、近畿・大和でも同じことであろう。”
【解説】
つまり邪馬台国大和説の人は、人口を論拠に邪馬台国北部九州説を否定するが、大和についても同じことが言えるわけで、まさに「自分のことを棚にあげて」という論法になっているではないか、という反論です。まったくそのとおりですね。
そして最後に、極めて重要な指摘をしてます。それは、
”北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性という考古学的事実”
です。
具体的にいうと、
”大和の前期大型古墳では、鏡の多量副葬や平原1号墳でみるような特大鏡の出土、また古墳の石室では朱が多用され、腕輪形石製品が多量出土するなど、中山(平次郎)が指摘した事実が今日に至ってもさらに事例を加えており、その関連性はもはや疑いえない。”
”北部九州の弥生文化が、このような近畿の前期古墳文化の中にみられるとなれば、当然、北部九州を代表する邪馬台国の文化も継続しているものとみなくてはならないであろう。”
”しかし、このような問題について、これまでに考古学、特に邪馬台国大和説の立場からは、明確な見解はみることはできない。”
”今後は、邪馬台国の地域内の位置問題と共に、邪馬台国からいわゆる大和政権への確立過程が、どのように検証できるのか、ということにかかってこよう。”
【解説】
大和の古墳というと、三角縁神獣鏡をはじめとする大型鏡の副葬が特徴とされ、それらがあたかも大和の専売特許のような捉えられです。ところがその風習は、大和で始まったのではなく、もともとは北部九州の風習だったわけです。そうなると、大和の文化は、北部九州の文化が継承されているとみるべきだ、ということです。
<平原1号墳>

(Wikipediaより)

(伊都国歴史博物館「常設展示展図録より)
文化が継承されている、ということは、北部九州が大和に比べて先進的な文化であったことを示してますし、人の移動もあったことになります。
ここで、私のブログや著書を読まれている方の中には、ピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか?。
私はここまで、中国史書や古事記・日本書紀等を読む限り、少なくとも元前後より倭国の中枢は北部九州にあったと考えられると、お話してきました。そして、その権力の中枢は、7世紀終わりから8世紀にかけて、近畿の大和地方へと移動していったと推定しました。これらは、鉄器・銅矛・絹・玉・三種の神器・土器・銅鐸・イネ等、当時の文明といえるもののほとんどが、「西→東」へと移動していることなどからも推定できる、とお話してきました。
関川氏は、「西→東」への権力移動に関して、そこまで具体的には述べてませんが、方向性は一致してるといえましょう。
なお、移動時期については、関川氏の論文中には具体的には記載されてませんが、「倭の五王」の時代、すなわち5世紀から6世紀にかけての時期を示唆してます。
私の推定時期より2世紀ほど遡っており、諸々検証が必要ではありますが、大きな流れとしては同じと考えていいでしょう。
関川氏の名前は以前から聞いていましたが、論文を詳細に読み込んだのは、今回が初めてです。あらためて、奈良の「橿原考古学研究所」にて長年発掘調査に携わってこられた方の考えと、私の考え方が、同じ方向性を向いているとは、大きな驚きであったとともに、心強く思えた次第です。

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