纏向遺跡は邪馬台国か?(15)~比恵・那珂周辺遺跡群の果たした役割
さて比恵・那珂周辺遺跡群の概要、さらには奴国(通説)において、須玖岡本遺跡が首都、比恵・那珂遺跡が副首都であり、それが弥生後期になり、比恵・那珂遺跡が首都になっていったことを、お話しました。そして広域地域圏という概念でいえば、福岡平野~筑後川流域にかけて、連合国というとらえかたもできる、ということにも触れました。
ここで一つ興味深いテーマを取り上げます。
それは、「比恵・那珂遺跡群、広い範囲でいえば奴国(通説)の機能は何か?」というテーマです。
久住氏の同論文からの概略です。
”もとは白井哲也氏の発想であるが、弥生時代後期の段階には、原の辻と三雲という所が二つ拠点になってそれを一つのエリアとして、朝鮮半島と日本海地区の貿易が行われていた。この段階で、三雲井原とか須玖岡本の最盛期であった。そういった意味で、列島内の貿易を管理するシステムがあった。その交易を実際管理しているのが、三雲とか須玖岡本だったであろう。”
【解説】
弥生時代後期の、朝鮮半島との貿易ルートについてです。壱岐島の原の辻と、福岡県糸島市の三雲が中心拠点だった、という指摘です。
これは魏志倭人伝の、
”女王国より北は、一大率(いちだいそつ)という役人をおいて、諸国を監視させている。そのため諸国は、この人をたいへん恐れ、煙たがっている。一大率は、いつも伊都国にいる。国中に監察官のような者を置いている。
邪馬台国の王は、魏の都洛陽や、帯方郡や、韓国などに、使いを送っている。また、郡の使節が、倭国へ行くときは、寄港する港をよく調査してから、持ってきた文書、贈り物などを、女王のもとへ運ばせるのだが、いかなる手違いもゆるされない。”
という記載に合致してます。
久住氏は、このことを出土土器を分析して、このような結論を導きました。史書と、考古学とが一致してますね。
そして、この二つの地域は、日本各地の貿易の拠点となっていた、ということです。こうした貿易は、バラバラにやっていたのではなく、管理するシステムがあった、その中心が三雲と須玖岡本だった、ということです。確かにこの時期、三雲と須玖岡本遺跡には、豪華な副葬品をもった王墓が出土してます。その王が、管轄していたということです。
”次に、博多湾貿易へ変化する。この変化する頃に比恵・那珂が形成される。政治的な拠点にもなっていく。”
【解説】
やがて弥生時代終末期後半に、拠点が、三雲・原の辻から、博多湾へと移っていった、としてます。この頃、奴国(通説)の首都も、須玖岡本から比恵・那珂へと移動したわけです。
移動した理由について、久住氏は言及してません。航海技術の進歩により、直接奴国(通説)に運搬することができるようになったからでしょうか?。
あるいは、勢力争いの末、奴国(通説)が勝利したからでしょうか?
”博多湾貿易関係だと、西新町という遺跡に集約される。そこには西日本の色んなところから土器が来ている。この辺でいろんな連中が西新町まで来て貿易をすると、その後ろにはそれを支える、特に比恵の勢力がこっちの勢力と協力して貿易しているという状況が窺える。
博多湾貿易段階の「博多湾岸経済」では、比恵に中心があるが、沿岸に貿易を支えるために、製塩がここらへんで行われたり、博多遺跡にかなり大規模な鍛冶遺構ー纏向の鍛冶工事もおそらく博多の人間がやっている可能性が高いがーがあり、特に鞴(ふいご)の羽口がより質がよい。鉄滓の量も莫大なものがあり、博多でたくさん作っている。
あるいは今山・今宿五郎江、潤地頭領とか、糸島の東半分で玉作りを盛んに行っていて、各拠点で全体として分業している、その背後に比恵という巨大な中枢がある。そしてここに西日本各地の人がやってきて、朝鮮半島の人たちと交易をする、という状況。”
”西日本各地にひょっとしたらこれ(鉄滓)がいっているのではないかというくらい鍛冶遺物が出ている。
古墳の副葬品にあるような有稜系鉄鏃、有稜系定角鉄鏃の未成品が少なくとも3点存在する。王権が配ったという説があるが、少なくとも未成品とかそういった非常に質が良くて、量がものすごい鍛冶遺構が博多遺跡にあって、そこから未成品が出ている以上、ひょっとしたら前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。その未成品によく似たものは金海大成洞にも存在する。”
【解説】
久住氏のいう「博多湾岸経済」の詳細です。エリアで分業体制となっていた様子がわかります。
西新町が中心の港、志賀島が製塩、博多遺跡が鍛冶、糸島の東半分で玉作り、そして比恵が中枢であったと推定してます。
興味深いのは、鍛冶です。
”前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。”
と指摘してます。
畿内の古墳から出土している有稜系鉄鏃は、畿内の王権が配布したという説もありますが、それを否定する説です。むしろ博多から持ち込んだ可能性もある、ということです。
考えてみれば、鉄器については少なくとも前期古墳までは、畿内より九州北部のほうが圧倒的に多く出土しており、ということは技術も九州北部のほうが進んでいた、ということです。であれば、鉄鏃についても、九州北部から持ち込んだとしても、何ら不思議はありませんね。
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それは、「比恵・那珂遺跡群、広い範囲でいえば奴国(通説)の機能は何か?」というテーマです。
久住氏の同論文からの概略です。
”もとは白井哲也氏の発想であるが、弥生時代後期の段階には、原の辻と三雲という所が二つ拠点になってそれを一つのエリアとして、朝鮮半島と日本海地区の貿易が行われていた。この段階で、三雲井原とか須玖岡本の最盛期であった。そういった意味で、列島内の貿易を管理するシステムがあった。その交易を実際管理しているのが、三雲とか須玖岡本だったであろう。”
【解説】
弥生時代後期の、朝鮮半島との貿易ルートについてです。壱岐島の原の辻と、福岡県糸島市の三雲が中心拠点だった、という指摘です。
これは魏志倭人伝の、
”女王国より北は、一大率(いちだいそつ)という役人をおいて、諸国を監視させている。そのため諸国は、この人をたいへん恐れ、煙たがっている。一大率は、いつも伊都国にいる。国中に監察官のような者を置いている。
邪馬台国の王は、魏の都洛陽や、帯方郡や、韓国などに、使いを送っている。また、郡の使節が、倭国へ行くときは、寄港する港をよく調査してから、持ってきた文書、贈り物などを、女王のもとへ運ばせるのだが、いかなる手違いもゆるされない。”
という記載に合致してます。
久住氏は、このことを出土土器を分析して、このような結論を導きました。史書と、考古学とが一致してますね。
そして、この二つの地域は、日本各地の貿易の拠点となっていた、ということです。こうした貿易は、バラバラにやっていたのではなく、管理するシステムがあった、その中心が三雲と須玖岡本だった、ということです。確かにこの時期、三雲と須玖岡本遺跡には、豪華な副葬品をもった王墓が出土してます。その王が、管轄していたということです。

”次に、博多湾貿易へ変化する。この変化する頃に比恵・那珂が形成される。政治的な拠点にもなっていく。”
【解説】
やがて弥生時代終末期後半に、拠点が、三雲・原の辻から、博多湾へと移っていった、としてます。この頃、奴国(通説)の首都も、須玖岡本から比恵・那珂へと移動したわけです。
移動した理由について、久住氏は言及してません。航海技術の進歩により、直接奴国(通説)に運搬することができるようになったからでしょうか?。
あるいは、勢力争いの末、奴国(通説)が勝利したからでしょうか?

”博多湾貿易関係だと、西新町という遺跡に集約される。そこには西日本の色んなところから土器が来ている。この辺でいろんな連中が西新町まで来て貿易をすると、その後ろにはそれを支える、特に比恵の勢力がこっちの勢力と協力して貿易しているという状況が窺える。
博多湾貿易段階の「博多湾岸経済」では、比恵に中心があるが、沿岸に貿易を支えるために、製塩がここらへんで行われたり、博多遺跡にかなり大規模な鍛冶遺構ー纏向の鍛冶工事もおそらく博多の人間がやっている可能性が高いがーがあり、特に鞴(ふいご)の羽口がより質がよい。鉄滓の量も莫大なものがあり、博多でたくさん作っている。
あるいは今山・今宿五郎江、潤地頭領とか、糸島の東半分で玉作りを盛んに行っていて、各拠点で全体として分業している、その背後に比恵という巨大な中枢がある。そしてここに西日本各地の人がやってきて、朝鮮半島の人たちと交易をする、という状況。”
”西日本各地にひょっとしたらこれ(鉄滓)がいっているのではないかというくらい鍛冶遺物が出ている。
古墳の副葬品にあるような有稜系鉄鏃、有稜系定角鉄鏃の未成品が少なくとも3点存在する。王権が配ったという説があるが、少なくとも未成品とかそういった非常に質が良くて、量がものすごい鍛冶遺構が博多遺跡にあって、そこから未成品が出ている以上、ひょっとしたら前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。その未成品によく似たものは金海大成洞にも存在する。”
【解説】
久住氏のいう「博多湾岸経済」の詳細です。エリアで分業体制となっていた様子がわかります。
西新町が中心の港、志賀島が製塩、博多遺跡が鍛冶、糸島の東半分で玉作り、そして比恵が中枢であったと推定してます。
興味深いのは、鍛冶です。
”前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。”
と指摘してます。
畿内の古墳から出土している有稜系鉄鏃は、畿内の王権が配布したという説もありますが、それを否定する説です。むしろ博多から持ち込んだ可能性もある、ということです。
考えてみれば、鉄器については少なくとも前期古墳までは、畿内より九州北部のほうが圧倒的に多く出土しており、ということは技術も九州北部のほうが進んでいた、ということです。であれば、鉄鏃についても、九州北部から持ち込んだとしても、何ら不思議はありませんね。

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