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纏向遺跡は邪馬台国か?(17)~残された謎。纏向遺跡はどの天皇の宮か?

ここまで纏向遺跡について、概要、広域地域圏の考え方についてみてきました。魏志倭人伝の倭国や邪馬台国に関する記載内容との照合もしましたが、合致している項目の割合は、12項目中の4項目、33%とかなり低いことがわかりました。

一方、私が邪馬台国と考えている福岡平野の比恵・那珂周辺遺跡群(通説の「奴国」含む)についてもみてきました。その結果、奴国(通説)は魏志倭人伝の記載内容と合致している項目の割合は、ほとんど100%といっていいことが確認できました。

ということは、邪馬台国は、纏向遺跡ではなく、比恵・那珂周辺遺跡群を中枢とする福岡平野にあったと考えるのが合理的ということになります。

さてここでひとつ疑問が浮かびます。

「纏向遺跡が邪馬台国でなかったなら、あの広大な遺跡群は何だったのか?」
という疑問です。

今回はそれを考えてみましょう。

まず纏向遺跡の特徴のおさらいです。

”纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多 い。”(Wikipediaより)

なんといっても、人が生活していたという「生活臭」が感じられません。大きな建物については、三輪山信仰に関わる施設だった可能性があります。

あるいは、周辺の大型古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」である、という説(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授)もあるようです。長年発掘調査にあたってこられた関川尚功氏(元橿原考古学研究所)は、
”纏向遺跡を含む遺跡群と大型古墳群の位置関係と時期の近接性は充分根拠になり得るであろう。”
として、肯定的な見解を示してます。

確かにそのように考えると、纏向遺跡がなぜ2世紀末頃に出現して4世紀中頃には消滅したのか、という疑問に対する答えにはなりえます。

とはいえ、これでは纏向遺跡に対する夢が無くなってしまします。

纏向遺跡が初期大和王権の宮とする論者は多いです(たとえば「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」(寺沢薫)など)。
下図のようなイメージ図も描かれてます。
纏向遺跡復元イメージ

この図をみると、壮大な宮殿のある都市、といった印象です。
では、纏向遺跡が初期大和王権の宮だったと仮定して、話を進めましょう。

まずはじめに考えるべきは、ではどの天皇の宮だったのか、です。

一般的には、第10代崇神天皇ともいわれてます。

ここで疑問が浮かびます。
時代は合っているのか?、です。

ここで歴代の天皇と宮、その推定所在地をまとめたものが下表です。皇暦(紀元暦)からみた没年と二倍年暦からみた没年も入れてます。

皇暦とは、初代神武天皇即位を紀元前660年として、その年をゼロ年としてそこからカウントする方法です。ちなみに今年西暦2018年は、紀元2678年となります。

それに対して二倍年暦とは、古代は1年で二回年を数えていたとする説です。いつから一倍年暦になったのかによりますが、24代の仁賢天皇あたりからとして、そこから単純に逆算した数字が、表の二倍年暦です。ちなみに神武天皇没年は、紀元前581年となります。
詳細は
一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(1) ~ 古代天皇が超長寿な理由
を参照ください。

古代天皇宮

皇暦からみると、崇神天皇の没年は、紀元前29年です。纏向遺跡の出現時期3世紀とは、全く合いませんね。

古事記には、没年を干支(えと)で、戊寅(つちのえとら)と記してます。戊寅は、60年に一度回ってきますが、258年,318年とする説があります。これですと、何とか遺跡の年代と合ってきそうですが、皇暦とは無関係です。

一方、二倍年暦ではどうでしょうか?。
崇神天皇の没年は、紀元後211年で、遺跡出現時期とほぼほぼ合ってきます。戊寅の198年と258年の間ですね。

皇暦を認める、という立場であれば、遺跡出現とと皇暦が一致しません。その一方、二倍年暦では合ってくるわけで、結果として、二倍年暦を認めていることになります。
纏向遺跡が崇神天皇の宮と考える論者は、このあたりどのような立場に立っているのでしょうか?

さてこの表をよくみると、興味深いことがわかります。

9代開化天皇(没年177年)の宮は、春日率川宮 (春日之伊邪河宮)、推定地は奈良県奈良市本子守町
10代崇神天皇(没年211年)の宮は、磯城瑞籬宮 (師木水垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字金屋
11代垂仁天皇(没年261年)の宮は、纒向珠城宮 (師木玉垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字穴師
12代景行天皇(没年291年)の宮は、纒向日代宮、推定地は奈良県桜井市大字穴師
13代成務天皇(没年321年)の宮は、志賀高穴穂宮、推定地は滋賀県大津市穴太1丁目
です。
つまり10代崇神天皇から12代景行天皇の3世紀代のみ纏向遺跡内と考えられるわけです。この期間を、図の赤矢印で示しました。

このことは、纏向遺跡が3世紀初めに突然出現して、4世紀半ばには消滅した、という考古学的事実と一致してます。
これが果たして偶然の一致なのか、それとも必然なのかは、これだけでは判断しかねるところです。

以上のとおり、纏向遺跡が何だったのか、については諸説あります。仮に天皇の宮とすると、崇神天皇のころ、ということになりますが、今のところ、これ以上いいようがありません。

また仮に崇神天皇の宮であったとしても、邪馬台国との関係については、懐疑的にならざるをえません。
というより、邪馬台国とは無関係の宮だった可能性が極めて高い、ということです。

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No title

百歳以上の寿命の天皇は干支一回り分60歳差っ引くやり方もあると思う。干支だけ合わせる感じ
北イスラエルの滅亡に建国時期を合わせたんじゃないかという気がしないでもない。
そのやり方でもだいたい崇神天皇あたりが卑弥呼になる。

Re: No title

dedsさんへ

> 百歳以上の寿命の天皇は干支一回り分60歳差っ引くやり方もあると思う。干支だけ合わせる感じ
> 北イスラエルの滅亡に建国時期を合わせたんじゃないかという気がしないでもない。
> そのやり方でもだいたい崇神天皇あたりが卑弥呼になる。

60歳引く、というのは面白いアイデアですが、根拠は何でしょうか?。
なぜ100歳以上の天皇のみ60歳引くのか、というのもよくわかりません。


No title

根拠はないですが、干支が日本書紀に書かれているのでそれは変えたくないということで、そうすると長すぎる寿命の天皇の寿命を60年差っ引くしかないというだけです。

纒向遺跡はかつての奈良湖跡の南東に位置し、残り三方は山に囲まれ、奈良湖の水は4世紀には大部分干上がってます。遺跡には農工具が殆ど含まれず、土木工具が数多く発掘され、しかも九州・東北以外の各地から土器が集合。
要するに纒向遺跡は奈良湖の大規模な干拓工事の為、各地から土木作業員や技術者を大量に受け入れる検問所みたいなモノだったと考えられます。
それと箸墓古墳には吉備地方特有の土器が葬送儀礼用として総社盆地から船でわざわざ持ち込まれており、岡山県は桃の産地ですから埋葬者は吉備地方出身の有力豪族だったのかもしれません。
三王朝交代説をこのケースに当て嵌めてみると、応神天皇の系列と取れなくもないですが、先進的な土木技術管理者として招かれた可能性もあります。鉄製農具抜きで森林を切り開くのは4倍作業効率が悪く、奈良・京都盆地(巨椋池を除く)は扇状地のため水田耕作には不適格。畑作の場合、単位面積当たり収穫量は水稲の2/3しかなく、しかも連作障害や病害虫発生リスクが付きまとう。
という訳でこの時代は淡水湖跡の沖積層が手っ取り早く穀倉地帯に発展。結局、九州北部が日本の中心にはなれなかったのは、倭国大乱や地理的なハンディキャップではなく、農業生産高で畿内に追い付かれたからです。
神武天皇&欠史8代が仮に実在したとしても、河内湖の水が大部分干上がり、大規模な水田開発に着手し始めた2世紀以降の話しでは無いかと。天皇(大王)の在位期間は時代を遡るごとに短くなる傾向にあったので、初期の天皇の在位期間はせいぜい1人当たり10数年程度でしょう。

Re: タイトルなし

> 要するに纒向遺跡は奈良湖の大規模な干拓工事の為、各地から土木作業員や技術者を大量に受け入れる検問所みたいなモノだったと考えられます。

それもあったかもしれません。あるいは紹介したように、古墳造営キャンプのようなものだったかもしれません。

> それと箸墓古墳には吉備地方特有の土器が葬送儀礼用として総社盆地から船でわざわざ持ち込まれており、岡山県は桃の産地ですから埋葬者は吉備地方出身の有力豪族だったのかもしれません。

私も箸墓古墳は、吉備地方勢力が関与したとみてます。

>九州北部が日本の中心にはなれなかったのは、倭国大乱や地理的なハンディキャップではなく、農業生産高で畿内に追い付かれたからです。

九州北部勢力は、紀元前後からある一定時期まで、倭国として西日本を支配したと推測してます。

>天皇(大王)の在位期間は時代を遡るごとに短くなる傾向にあったので、初期の天皇の在位期間はせいぜい1人当たり10数年程度でしょう。

安本美典氏などが提唱してる説ですね。安本氏は統計的手法を用いているといいますが、はたしてこのようなケースに適用しうるのか、はなはだ疑問です。統計的手法を適用するには、相当数(少なくとも数百)のサンプルがあり、しかもそれらが同じ条件のものでなければ、信頼性がはなはだしく落ちます。
時代が大きくかけ離れており、文化風習も大きく異なる時代のサンプルに適用することは、かなり慎重にならざるをえないと考えます。

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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