宗像神を祭る神社データが語ること(1)~宗像三女神とは?
さて前回まで、纏向遺跡は邪馬台国なのか?、というテーマでお話してきました。
結論は、纏向遺跡は邪馬台国の要件を満たしておらず、むしろ九州北部の福岡平野にあったとされる奴国(通説)が、ほぼ条件を満たしているという話でした。
当時倭国の中枢は九州北部の邪馬台国にあったわけです。それが時代を経て、畿内に中枢が移っていった、ということになります。このブログのテーマでもある、「西→東」への移動の一つです。
こうした流れは、中国史書のほか、考古学をはじめとした科学的データによっても、裏づけられます。
さてこのような動きがわかるものは、他にないでしょうか?
私は、前々から関心をもっていたものがありました。
それは、神社です。
神社には祭神があり、由緒も記録として残ってます。そうしたデータを集めて解析すれば、古代を推測できるのではないか、と考えていました。
ところで神社というと、鳥居や本殿などの形式が、もともと日本にあったものだと考えがちです。ところが遠い縄文時代は、巨石信仰であったり、山や太陽を崇めたりというものであったと考えられます。
”神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。”(Wikipediaより)
神社を特徴づける鳥居の起源については諸説あります。
”現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(ハニ族)の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者(鳥越憲三郎(大阪教育大学名誉教授)他)から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。”(同上)
長江流域に住んでいた百越の人々の文化であったが、戦乱で雲南省あたりまで南下したのがアカ族であり、北上してあるいは海上で直接日本列島にたどり着いたのが、渡来系弥生人であった、と推定されます。そして渡来系弥生人の風習と、もともとの縄文人の風習が習合して、今の神社の形態になったのではないか、と考えられます。
最古の神社が、対馬にある「阿麻氐留(アマテル)神社」といわれるのも、この説を裏付けてます。
そこから日本各地に広がっていったのではないか?、と考えられます。
そのあたりをデータでみていきたいと思います。
神社に祀られる神様を統計データで解析した、たいへん興味深い論文があるので、それを紹介しつつ考えていきましょう。
「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)ー」(矢田浩、静岡理工科大学名誉教授)です。
論文では、宗像神をテーマとしてます。
宗像といえば、2017年7月に、「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、世界遺産登録されましたね。
その古代の宗像と沖ノ島には多くの謎があります。その理由を、
”沖ノ島祭祀の開始が、文献の欠如している「空白の4世紀」の出来事であるためである。「日本書記」にも、宗像三女神誕生の誓約神話以降は、胸形大神または胸神についての五世紀代の二・三の説話が載るのみで、そのあとは天武紀まで登場しない。「古事記」には、上つ巻の神話以降は全く登場しない。”
として、
”文献と考古学との隙間を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか。”
と提起してます。
では内容をみていきましょう。
基礎資料として、神社本庁が、所属の78,960社の祭神、祭礼、由緒などを調査して、「平成「祭」データ」として公表しており、それを使用してます。
論文では、宗像神をテーマとしてますが、宗像神といっても、一種類なのではなく、三女神といって、
・田心姫神(たごりひめのかみ、表中では「タゴリ」と標記)
・湍津姫神(たぎつひめのかみ、表中では「タギツ」と標記)
・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ、表中では「イチキ」と標記)
と種類があることに留意です。
三女神とは、
”宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。”
三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれました。
”伊邪那岐命(イザナギ)が建速須佐之男命(スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命(イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。
スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。”(古事記、概訳はWikipediaによる)
<誓約(うけい)の系図>
(Wikipediaより)
宗像神を本殿に祭る表記別神社数をまとめたのが、下表です。
Aは日本書紀、Bは古事記に拠った表記とみられるものです。
神社により、表記が異なることがわかります。ちなみに、古事記・日本書紀による表記は、下表のとおりです。
古事記・日本書紀で表記に違いがあり、さらに同じ日本書紀の中でさえ、違いがあることがわかります。
以上で、宗像神の概要が把握できました。
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結論は、纏向遺跡は邪馬台国の要件を満たしておらず、むしろ九州北部の福岡平野にあったとされる奴国(通説)が、ほぼ条件を満たしているという話でした。
当時倭国の中枢は九州北部の邪馬台国にあったわけです。それが時代を経て、畿内に中枢が移っていった、ということになります。このブログのテーマでもある、「西→東」への移動の一つです。
こうした流れは、中国史書のほか、考古学をはじめとした科学的データによっても、裏づけられます。
さてこのような動きがわかるものは、他にないでしょうか?
私は、前々から関心をもっていたものがありました。
それは、神社です。
神社には祭神があり、由緒も記録として残ってます。そうしたデータを集めて解析すれば、古代を推測できるのではないか、と考えていました。
ところで神社というと、鳥居や本殿などの形式が、もともと日本にあったものだと考えがちです。ところが遠い縄文時代は、巨石信仰であったり、山や太陽を崇めたりというものであったと考えられます。
”神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。”(Wikipediaより)
神社を特徴づける鳥居の起源については諸説あります。
”現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(ハニ族)の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者(鳥越憲三郎(大阪教育大学名誉教授)他)から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。”(同上)
長江流域に住んでいた百越の人々の文化であったが、戦乱で雲南省あたりまで南下したのがアカ族であり、北上してあるいは海上で直接日本列島にたどり着いたのが、渡来系弥生人であった、と推定されます。そして渡来系弥生人の風習と、もともとの縄文人の風習が習合して、今の神社の形態になったのではないか、と考えられます。
最古の神社が、対馬にある「阿麻氐留(アマテル)神社」といわれるのも、この説を裏付けてます。
そこから日本各地に広がっていったのではないか?、と考えられます。
そのあたりをデータでみていきたいと思います。
神社に祀られる神様を統計データで解析した、たいへん興味深い論文があるので、それを紹介しつつ考えていきましょう。
「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)ー」(矢田浩、静岡理工科大学名誉教授)です。
論文では、宗像神をテーマとしてます。
宗像といえば、2017年7月に、「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、世界遺産登録されましたね。
その古代の宗像と沖ノ島には多くの謎があります。その理由を、
”沖ノ島祭祀の開始が、文献の欠如している「空白の4世紀」の出来事であるためである。「日本書記」にも、宗像三女神誕生の誓約神話以降は、胸形大神または胸神についての五世紀代の二・三の説話が載るのみで、そのあとは天武紀まで登場しない。「古事記」には、上つ巻の神話以降は全く登場しない。”
として、
”文献と考古学との隙間を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか。”
と提起してます。
では内容をみていきましょう。
基礎資料として、神社本庁が、所属の78,960社の祭神、祭礼、由緒などを調査して、「平成「祭」データ」として公表しており、それを使用してます。
論文では、宗像神をテーマとしてますが、宗像神といっても、一種類なのではなく、三女神といって、
・田心姫神(たごりひめのかみ、表中では「タゴリ」と標記)
・湍津姫神(たぎつひめのかみ、表中では「タギツ」と標記)
・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ、表中では「イチキ」と標記)
と種類があることに留意です。
三女神とは、
”宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。”
三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれました。
”伊邪那岐命(イザナギ)が建速須佐之男命(スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命(イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。
スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。”(古事記、概訳はWikipediaによる)
<誓約(うけい)の系図>

(Wikipediaより)
宗像神を本殿に祭る表記別神社数をまとめたのが、下表です。
Aは日本書紀、Bは古事記に拠った表記とみられるものです。

神社により、表記が異なることがわかります。ちなみに、古事記・日本書紀による表記は、下表のとおりです。

古事記・日本書紀で表記に違いがあり、さらに同じ日本書紀の中でさえ、違いがあることがわかります。
以上で、宗像神の概要が把握できました。
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