纏向遺跡は邪馬台国か(18)~まとめ、纏向遺跡と神話の関係とは?
さてここまで17回にわたり、纏向遺跡についてみてきました。ここでまとめをします。
■纏向遺跡は3世紀始め頃に出現し、3世紀半ばには消滅するという、わずか100年余の期間に存続した遺跡である。
■周辺の弥生時代遺跡と同様の特徴をもつことなどから、異文化の人々がやってきて征服して造られたものではない。
■造った人々は、周辺に住んでいた人々だったと推定される。ただし、吉備や九州北部の影響を受けており、出自として注目される。
■三国志魏志倭人伝の描く「倭国」や「邪馬台国」の様子とは異なる部分が多い。項目で検討すると、12 項目中4項目(33%)しか合致していない。
■畿内全域を広域地域圏として「邪馬台国」を捉える考え方もあるが、銅鐸祭祀との関連などからみて、同一文化圏として成立するかは疑問である。
■一方、同時代の遺跡として最大級である九州北部の「比恵・那珂周辺遺跡群」は、魏志倭人伝からみると、100%合致している。
■九州北部の広域地域圏としては、福岡平野から筑紫平野にまでわたる地域が想定され、一つの文化圏として想定しうる。
■客観的データからみると、「纏向遺跡=邪馬台国」は成立し難い。「比恵・那珂周辺遺跡群」のほうが、可能性が高いといえる。
■纏向遺跡には、人が居住していた臭いが感じられないという特異性がある。造られた目的として、「三輪山信仰の施設ではないか」、あるいは「古墳造営キャンプではないか」という説がある。
■天皇の宮と仮定すると、第10代の崇神天皇のころに造られた可能性がある。ただしそれには、「二倍年暦」説を採用する必要がある。
以上です。
最後に、大胆な仮説をお話したいと思います。
古事記・日本書紀によれば、神武天皇が九州日向から大和にやってきて、大和地方を支配下に置くようになったわけです。
その話と、纏向遺跡とはどのような関係になるのでしょうか?。
神武天皇が大和にやってきたのは紀元前1世紀前半と推定してることは、すでにお話しました。
” 一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか”
古事記・日本書紀によれば、すぐに大和一帯を支配したかの如き描写です。しかし実態は、そのようなものではなかったのではないか?、と考えられます。
史実としては、大和に入ったものの、実権を握るというにはほど遠く、地元有力豪族の娘と結婚することにより、姻戚関係を築きながら、次第に力を蓄えていったと考えます。実際、初代神武天皇から第4代の懿徳(いとく)天皇の皇后は、すべて地元有力者である事代主、磯城県主、物部系です。
そのようにして地盤を固めながら、最終的に大和地方を支配するようになったのであり、纏向遺跡はその拠点であった、と捉えられます。
ちなみに第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化(かいか)天皇までは、欠史八代といわれ、架空の人物とされてます。古事記・日本書紀の事績がないからですが、上の仮説であれば、いうなれば彼らは有力豪族の婿養子のようなもので、力もなかったから事績に残るようなこともできなかった、という解釈もできますね。
さてこの仮説は立証できるでしょうか。
まとめで記したように、纏向遺跡はもともと周辺に住んでいた人々が造ったわけです。
また吉備や九州との係わりが深いことがわかってます。
私の仮説からみれば、もともと周辺に住んでいた人々とは、神武天皇の末裔です。
神武天皇は吉備・九州北部と関わりが深いわけですから、これとも合致してます。
遺跡と上のストーリーが一致しているといえそうです。
もうひとつ、この説を補強する資料を紹介します。
下の図は、5世紀から7世紀にかけての、大和盆地の勢力分布図です。
この図をみると、大王(天皇)家は確かに纏向遺跡周辺に基盤をもってますね。一方、そのすぐ北に物部氏、南に大伴氏、北方離れた春日地域に和邇(わに)氏、西方に葛城氏等が勢力をもっていたことを示しています。
よくみると、奈良盆地の中央が空白地帯になっていますね。これは前にお話したように、この地帯は網状流路であり、川が幾筋にも流れていて氾濫が頻繁に起こるので、人が常住するのに適していない土地でした。そのため各氏族も支配が及んでいなかった、という解釈ができます。
さて、この図をみて、あれ?、と思いませんでしょうか?
他の氏族たとえば和邇氏や葛城市氏が広大な面積を支配しているのに比べて、天皇家の支配領域がずいぶんと狭くないでしょうか?。
しかもこの図は、纏向遺跡のあった3世紀頃より200年以上のちの勢力図です。纏向遺跡のあった時代は、その範囲はもっとずっと小さかったでしょう。とても大和盆地全体を支配していたとはいえません。
位置も大和盆地の南東部です。必ずしも条件のいい土地とは思えません。条件のよくない土地だったからこそ、それまであまり利用されてなかったわけです。
その後の宮である藤原宮や平城京は、遠く離れた場所です。裏を返せば、その時代すなわち7世紀後半まで、そのような場所に進出できなかったのだ、という見解も成り立ちます。
このことからも、大和王権は神武天皇がやってきた当初から大和盆地全体を支配してきたのではなく、はじめは小さな地域から何代もかけて次第に勢力を拡大してきた、ということが窺えます。
あくまで現時点での仮説であり、可能性はあると考えますが、皆さんはどのように考えられるでしょうか?。
さて長きにわたり纏向遺跡についてみてきましたが、以上でこの章は終わりにしたいと思います。
ここまでみてきたとおり、「纏向遺跡=邪馬台国」という説に対しては多くの疑問が出されているところです。したがって安易に結論づけることなく、まずは調査研究を粛々と進めることが大切でしょう。
纏向遺跡の発掘調査はまだ全体の数パーセントしか行われていせん。もしかしたらこれからあっと驚くものが出土する可能性もあります。今後の調査状況を見据えつつ、いずれまた取り上げたいと考えてます。
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■纏向遺跡は3世紀始め頃に出現し、3世紀半ばには消滅するという、わずか100年余の期間に存続した遺跡である。
■周辺の弥生時代遺跡と同様の特徴をもつことなどから、異文化の人々がやってきて征服して造られたものではない。
■造った人々は、周辺に住んでいた人々だったと推定される。ただし、吉備や九州北部の影響を受けており、出自として注目される。
■三国志魏志倭人伝の描く「倭国」や「邪馬台国」の様子とは異なる部分が多い。項目で検討すると、12 項目中4項目(33%)しか合致していない。
■畿内全域を広域地域圏として「邪馬台国」を捉える考え方もあるが、銅鐸祭祀との関連などからみて、同一文化圏として成立するかは疑問である。
■一方、同時代の遺跡として最大級である九州北部の「比恵・那珂周辺遺跡群」は、魏志倭人伝からみると、100%合致している。
■九州北部の広域地域圏としては、福岡平野から筑紫平野にまでわたる地域が想定され、一つの文化圏として想定しうる。
■客観的データからみると、「纏向遺跡=邪馬台国」は成立し難い。「比恵・那珂周辺遺跡群」のほうが、可能性が高いといえる。
■纏向遺跡には、人が居住していた臭いが感じられないという特異性がある。造られた目的として、「三輪山信仰の施設ではないか」、あるいは「古墳造営キャンプではないか」という説がある。
■天皇の宮と仮定すると、第10代の崇神天皇のころに造られた可能性がある。ただしそれには、「二倍年暦」説を採用する必要がある。
以上です。
最後に、大胆な仮説をお話したいと思います。
古事記・日本書紀によれば、神武天皇が九州日向から大和にやってきて、大和地方を支配下に置くようになったわけです。
その話と、纏向遺跡とはどのような関係になるのでしょうか?。
神武天皇が大和にやってきたのは紀元前1世紀前半と推定してることは、すでにお話しました。
” 一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか”
古事記・日本書紀によれば、すぐに大和一帯を支配したかの如き描写です。しかし実態は、そのようなものではなかったのではないか?、と考えられます。
史実としては、大和に入ったものの、実権を握るというにはほど遠く、地元有力豪族の娘と結婚することにより、姻戚関係を築きながら、次第に力を蓄えていったと考えます。実際、初代神武天皇から第4代の懿徳(いとく)天皇の皇后は、すべて地元有力者である事代主、磯城県主、物部系です。
そのようにして地盤を固めながら、最終的に大和地方を支配するようになったのであり、纏向遺跡はその拠点であった、と捉えられます。
ちなみに第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化(かいか)天皇までは、欠史八代といわれ、架空の人物とされてます。古事記・日本書紀の事績がないからですが、上の仮説であれば、いうなれば彼らは有力豪族の婿養子のようなもので、力もなかったから事績に残るようなこともできなかった、という解釈もできますね。
さてこの仮説は立証できるでしょうか。
まとめで記したように、纏向遺跡はもともと周辺に住んでいた人々が造ったわけです。
また吉備や九州との係わりが深いことがわかってます。
私の仮説からみれば、もともと周辺に住んでいた人々とは、神武天皇の末裔です。
神武天皇は吉備・九州北部と関わりが深いわけですから、これとも合致してます。
遺跡と上のストーリーが一致しているといえそうです。
もうひとつ、この説を補強する資料を紹介します。
下の図は、5世紀から7世紀にかけての、大和盆地の勢力分布図です。
この図をみると、大王(天皇)家は確かに纏向遺跡周辺に基盤をもってますね。一方、そのすぐ北に物部氏、南に大伴氏、北方離れた春日地域に和邇(わに)氏、西方に葛城氏等が勢力をもっていたことを示しています。

よくみると、奈良盆地の中央が空白地帯になっていますね。これは前にお話したように、この地帯は網状流路であり、川が幾筋にも流れていて氾濫が頻繁に起こるので、人が常住するのに適していない土地でした。そのため各氏族も支配が及んでいなかった、という解釈ができます。
さて、この図をみて、あれ?、と思いませんでしょうか?
他の氏族たとえば和邇氏や葛城市氏が広大な面積を支配しているのに比べて、天皇家の支配領域がずいぶんと狭くないでしょうか?。
しかもこの図は、纏向遺跡のあった3世紀頃より200年以上のちの勢力図です。纏向遺跡のあった時代は、その範囲はもっとずっと小さかったでしょう。とても大和盆地全体を支配していたとはいえません。
位置も大和盆地の南東部です。必ずしも条件のいい土地とは思えません。条件のよくない土地だったからこそ、それまであまり利用されてなかったわけです。
その後の宮である藤原宮や平城京は、遠く離れた場所です。裏を返せば、その時代すなわち7世紀後半まで、そのような場所に進出できなかったのだ、という見解も成り立ちます。
このことからも、大和王権は神武天皇がやってきた当初から大和盆地全体を支配してきたのではなく、はじめは小さな地域から何代もかけて次第に勢力を拡大してきた、ということが窺えます。
あくまで現時点での仮説であり、可能性はあると考えますが、皆さんはどのように考えられるでしょうか?。
さて長きにわたり纏向遺跡についてみてきましたが、以上でこの章は終わりにしたいと思います。
ここまでみてきたとおり、「纏向遺跡=邪馬台国」という説に対しては多くの疑問が出されているところです。したがって安易に結論づけることなく、まずは調査研究を粛々と進めることが大切でしょう。
纏向遺跡の発掘調査はまだ全体の数パーセントしか行われていせん。もしかしたらこれからあっと驚くものが出土する可能性もあります。今後の調査状況を見据えつつ、いずれまた取り上げたいと考えてます。
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