宗像神を祭る神社データは語る(5)~現代で最も多い神社の神様は?
ここまで宗像神をみてきましたが、ここで一度、全国の神社に目を向けましょう。
ここで皆さんに質問です。
「日本全体で、最も信仰されている神様は何でしょうか?」
すぐに思いつくのは、天照大神でしょうか。あるいは天神さまやお稲荷さん?
実は信仰されている神様で最も多いのは、神社の系統でいうと八幡信仰で7817社もあります。
次が、伊勢信仰の神社で、4425社です。
三位が、天神信仰で、3953社、以下、稲荷信仰、熊野信仰と続きます。
ここで、主な信仰について、整理しておきましょう。少し長くなりますが、興味深い点もいくつかありますので、読んでみてください。
■1位の八幡信仰
”八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くある。
八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。”(Wikipediaより)
【解説】
八幡信仰というと宇佐神宮、そして応神天皇とつながるのですが、もともとは八幡神と応神天皇は別神だったのです。それが奈良時代ころから次第に習合された、ということです。
■2位の伊勢信仰
伊勢の神宮に対する、主として庶民の信仰をいう。『太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)』に、934年(承平4)神嘗祭(かんなめさい)の日に「参宮人千万貴賤(きせん)を論ぜず」と記され、また1031年(長元4)6月の月次(つきなみ)祭にも多くの参宮人のあったことが記されるが、当時はまだ私幣禁断(しへいきんだん)、すなわち天皇のほかは私的な幣帛(へいはく)を捧(ささ)げ祈祷(きとう)することが禁じられており、本格的な庶民の参宮といえない。庶民一般が親しんで信仰し参宮したのは、中世に入ってからといえよう。古代末、院政時代に熊野(くまの)三山に対する朝野の厚い信仰が出たあとを受けて、中世初頭、源頼朝(よりとも)が神宮に神馬(しんめ)、幣帛を奉り、御厨(みくりや)・御園(みその)を寄進して以後、東国のみならず諸国の武士がこれに倣った。また僧侶(そうりょ)の参宮も増加するとともに、伊勢の神宮における権禰宜(ごんねぎ)層が御師(おし)として各地を回るようになって、熊野信仰に増して伊勢信仰が発達、私祈祷をするようになった。(日本大百科全書(ニッポニカ)より)
【解説】
伊勢信仰とは伊勢神宮に対する信仰です。伊勢神宮の内宮には、天照大神をお祭りしてるので、天照大神に対する信仰となります。一方、伊勢神宮には、天照大神〔内宮〕、豊受大神(外宮)のほかに123の宮社があります。ここから、125の神社を総称した「神宮」を詣でることを伊勢信仰ということもでます。
いずれにしても庶民に広まったのは、中世以降です。
■3位の天神信仰
”平安時代の公卿(くぎょう)・政治家・学者であった菅原道真(すがわらのみちざね)の死後、その霊は天満(てんまん)天神として崇(あが)められて信仰が広まり、現在に至るまで全国で1万数千社の天満宮を中心に、「天神さま」として親しまれてきた。903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫(つくし)国大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また藤原氏一族の変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと畏怖(いふ)した。当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊(ごりょう)信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神(えきしん)、そして天満天神と観念された。”(日本大百科全書(ニッポニカ))
【解説】
学問の神様として有名な天神さまです。菅原道真を祭りますが、もともとの怨霊・御霊信仰と結びついたようです。
■4位の稲荷信仰
”京都市の伏見稲荷大社を中心とした信仰。本来は倉稲魂(うかのみたま)神を主祭神とし,農耕の神で,里と山を往来していると信じられていた。平安奠都(てんと)の前後から東寺の守護神として,仏教の枳尼(だきに)天と習合し,諸願祈請の神と仰がれ,キツネをその霊獣とする信仰が生まれた。分社は全国に分布し,江戸時代には商売繁盛の神として庶民の信仰を集めた。”(百科事典マイペディア)
【解説】
皆さんおなじみの「お稲荷さん」です。キツネを想起しますが、平安時代に、仏教の枳尼(だきに)天と習合したものです。
■5位の熊野信仰
”熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰。古く三熊野(みくまの)と呼ばれ霊山視されていたが,平安後期に至り,密教呪術(じゅじゅつ)と修験(しゅげん)道の隆盛に伴い,熊野三山の本地(ほんじ)が阿弥陀仏とされ,神宮寺の建立,修行場としての清水,長谷,金峰山の確立があった。907年宇多(うだ)法皇の熊野御幸(ごこう)以来次第に民間にも広まり,鎌倉時代には,現世安穏,来世善所を願う廷臣・武士・庶民で〈蟻(あり)の熊野詣(もうで)〉と呼ばれるほどにぎわった。”(百科事典マイペディア)
【解説】
修験道、山伏(やまぶし)で知られてますね。古くからの霊山であったことから、山岳信仰としての歴史はかなり古いと推測されますが、民間に広まったのは10世紀以降です。
■6位の諏訪信仰
”長野県諏訪市にある諏訪大社を尊崇する全国的信仰。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)とされるが、この神は『古事記』の国譲りの段によると、国譲りを不服として高天原(たかまがはら)の使者と闘争して敗れ、科野国(しなののくに)洲羽海(すわのうみ)に逃れて、その地に封ぜられたと伝えられる。すなわち、神代以来の古社であり、全国に勧請(かんじょう)された分社は約1万を数えるともいう。この信仰は、かつては諏訪神人(じにん)とよぶ遊行者(ゆぎょうしゃ)によって流布されたもので、その分布状態からみると、北陸から信濃(しなの)にかけて居住していた出雲(いずも)系族類による信仰に起源するが、時代によって変遷がある。大昔は狩猟神として尊敬されたが、農耕時代には農耕神として、また武家時代になると武神として全盛を極めた。”(日本百科事典ニッポニカ)
【解説】
祭神の建御名方神(たてみなかたのかみ)は、出雲の大国主命の息子です。諏訪に逃れて、先住民の守矢一族と戦い、和睦したともいわれてます。ちなみに諏訪大社というと、奇祭「御柱(おんばしら)祭」で有名ですが、あの柱は、守矢(もりや)一族が祀るの古代自然神「ミシャグチ」の依り代(よりしろ、「神霊が依り つくもの」の意)とも伝えられます。
■7位の祇園信仰
”牛頭天王に対する信仰で,天王信仰の一つ。牛頭天王は,仏教上では八部衆の一つ天部の神で,武塔天神あるいはスサノオノミコト(素戔嗚尊)とされることもあり,疫病をはらう威力をもつと信じられた。平安時代の初期,伝染病が流行したとき,その病をもたらした怨霊をしずめるための御霊会(ごりょうえ)が,牛頭天王を合祀した京都府の八坂神社において執行されたが,これがのちになって祇園祭として知られるようになった。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
【解説】
牛頭天王(ごずてんのう)とはあまり聞きなれませんが、仏教の神です。のちにスサノオと習合されました。なお牛頭天王には八人の王子がおり、そこから八王子権現・八王子神社という名前が生まれました。
概略は以上です。
信仰の対象が、必ずしも始まった当初と同じではなく、のちに習合したものが多いことに気づきます(八幡信仰の応神天皇など)。また全国に広まったのは、古代というより中世以降のものがほとんどですね。
これで現代の主な信仰神について、データがそろいました。
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ここで皆さんに質問です。
「日本全体で、最も信仰されている神様は何でしょうか?」
すぐに思いつくのは、天照大神でしょうか。あるいは天神さまやお稲荷さん?
実は信仰されている神様で最も多いのは、神社の系統でいうと八幡信仰で7817社もあります。
次が、伊勢信仰の神社で、4425社です。
三位が、天神信仰で、3953社、以下、稲荷信仰、熊野信仰と続きます。

ここで、主な信仰について、整理しておきましょう。少し長くなりますが、興味深い点もいくつかありますので、読んでみてください。
■1位の八幡信仰
”八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くある。
八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。”(Wikipediaより)
【解説】
八幡信仰というと宇佐神宮、そして応神天皇とつながるのですが、もともとは八幡神と応神天皇は別神だったのです。それが奈良時代ころから次第に習合された、ということです。
■2位の伊勢信仰
伊勢の神宮に対する、主として庶民の信仰をいう。『太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)』に、934年(承平4)神嘗祭(かんなめさい)の日に「参宮人千万貴賤(きせん)を論ぜず」と記され、また1031年(長元4)6月の月次(つきなみ)祭にも多くの参宮人のあったことが記されるが、当時はまだ私幣禁断(しへいきんだん)、すなわち天皇のほかは私的な幣帛(へいはく)を捧(ささ)げ祈祷(きとう)することが禁じられており、本格的な庶民の参宮といえない。庶民一般が親しんで信仰し参宮したのは、中世に入ってからといえよう。古代末、院政時代に熊野(くまの)三山に対する朝野の厚い信仰が出たあとを受けて、中世初頭、源頼朝(よりとも)が神宮に神馬(しんめ)、幣帛を奉り、御厨(みくりや)・御園(みその)を寄進して以後、東国のみならず諸国の武士がこれに倣った。また僧侶(そうりょ)の参宮も増加するとともに、伊勢の神宮における権禰宜(ごんねぎ)層が御師(おし)として各地を回るようになって、熊野信仰に増して伊勢信仰が発達、私祈祷をするようになった。(日本大百科全書(ニッポニカ)より)
【解説】
伊勢信仰とは伊勢神宮に対する信仰です。伊勢神宮の内宮には、天照大神をお祭りしてるので、天照大神に対する信仰となります。一方、伊勢神宮には、天照大神〔内宮〕、豊受大神(外宮)のほかに123の宮社があります。ここから、125の神社を総称した「神宮」を詣でることを伊勢信仰ということもでます。
いずれにしても庶民に広まったのは、中世以降です。
■3位の天神信仰
”平安時代の公卿(くぎょう)・政治家・学者であった菅原道真(すがわらのみちざね)の死後、その霊は天満(てんまん)天神として崇(あが)められて信仰が広まり、現在に至るまで全国で1万数千社の天満宮を中心に、「天神さま」として親しまれてきた。903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫(つくし)国大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また藤原氏一族の変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと畏怖(いふ)した。当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊(ごりょう)信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神(えきしん)、そして天満天神と観念された。”(日本大百科全書(ニッポニカ))
【解説】
学問の神様として有名な天神さまです。菅原道真を祭りますが、もともとの怨霊・御霊信仰と結びついたようです。
■4位の稲荷信仰
”京都市の伏見稲荷大社を中心とした信仰。本来は倉稲魂(うかのみたま)神を主祭神とし,農耕の神で,里と山を往来していると信じられていた。平安奠都(てんと)の前後から東寺の守護神として,仏教の枳尼(だきに)天と習合し,諸願祈請の神と仰がれ,キツネをその霊獣とする信仰が生まれた。分社は全国に分布し,江戸時代には商売繁盛の神として庶民の信仰を集めた。”(百科事典マイペディア)
【解説】
皆さんおなじみの「お稲荷さん」です。キツネを想起しますが、平安時代に、仏教の枳尼(だきに)天と習合したものです。
■5位の熊野信仰
”熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰。古く三熊野(みくまの)と呼ばれ霊山視されていたが,平安後期に至り,密教呪術(じゅじゅつ)と修験(しゅげん)道の隆盛に伴い,熊野三山の本地(ほんじ)が阿弥陀仏とされ,神宮寺の建立,修行場としての清水,長谷,金峰山の確立があった。907年宇多(うだ)法皇の熊野御幸(ごこう)以来次第に民間にも広まり,鎌倉時代には,現世安穏,来世善所を願う廷臣・武士・庶民で〈蟻(あり)の熊野詣(もうで)〉と呼ばれるほどにぎわった。”(百科事典マイペディア)
【解説】
修験道、山伏(やまぶし)で知られてますね。古くからの霊山であったことから、山岳信仰としての歴史はかなり古いと推測されますが、民間に広まったのは10世紀以降です。
■6位の諏訪信仰
”長野県諏訪市にある諏訪大社を尊崇する全国的信仰。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)とされるが、この神は『古事記』の国譲りの段によると、国譲りを不服として高天原(たかまがはら)の使者と闘争して敗れ、科野国(しなののくに)洲羽海(すわのうみ)に逃れて、その地に封ぜられたと伝えられる。すなわち、神代以来の古社であり、全国に勧請(かんじょう)された分社は約1万を数えるともいう。この信仰は、かつては諏訪神人(じにん)とよぶ遊行者(ゆぎょうしゃ)によって流布されたもので、その分布状態からみると、北陸から信濃(しなの)にかけて居住していた出雲(いずも)系族類による信仰に起源するが、時代によって変遷がある。大昔は狩猟神として尊敬されたが、農耕時代には農耕神として、また武家時代になると武神として全盛を極めた。”(日本百科事典ニッポニカ)
【解説】
祭神の建御名方神(たてみなかたのかみ)は、出雲の大国主命の息子です。諏訪に逃れて、先住民の守矢一族と戦い、和睦したともいわれてます。ちなみに諏訪大社というと、奇祭「御柱(おんばしら)祭」で有名ですが、あの柱は、守矢(もりや)一族が祀るの古代自然神「ミシャグチ」の依り代(よりしろ、「神霊が依り つくもの」の意)とも伝えられます。
■7位の祇園信仰
”牛頭天王に対する信仰で,天王信仰の一つ。牛頭天王は,仏教上では八部衆の一つ天部の神で,武塔天神あるいはスサノオノミコト(素戔嗚尊)とされることもあり,疫病をはらう威力をもつと信じられた。平安時代の初期,伝染病が流行したとき,その病をもたらした怨霊をしずめるための御霊会(ごりょうえ)が,牛頭天王を合祀した京都府の八坂神社において執行されたが,これがのちになって祇園祭として知られるようになった。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
【解説】
牛頭天王(ごずてんのう)とはあまり聞きなれませんが、仏教の神です。のちにスサノオと習合されました。なお牛頭天王には八人の王子がおり、そこから八王子権現・八王子神社という名前が生まれました。
概略は以上です。
信仰の対象が、必ずしも始まった当初と同じではなく、のちに習合したものが多いことに気づきます(八幡信仰の応神天皇など)。また全国に広まったのは、古代というより中世以降のものがほとんどですね。
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