後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?
前回は、倭の風俗について、お話ししました。
今回は、風俗に続いて、政治の話に入ります。ここで、あの有名な「志賀島の金印」の話が出てきます。
人が死んだときは、遺骸を家のそばに十数日留めておき、家族は哭泣(こくきゅう)の礼を行って酒や食物をとらないが、同族は遺骸の傍らで歌舞し、音楽を演奏する。
動物の骨を焼いて占い、物事の吉凶を決める。
往来に海を渡るときは、一行の中の一人に髪をすいたり身体を洗ったりさせず、肉を食べず、婦人を近づけたりしないようにさせる。これを「持衰(じさい)」という。もし、その航海がうまくいけば、褒美として財物を与える。もし、一行の中に病人が出たり、事故に遭ったりすれば、持衰のしかたがたりなかったためだとして、すぐにみなでその者を殺してしまう。
【解説】
ここも魏志倭人伝の記載とほぼ同じです。続いて政治の話になります。
建武中元二年(57年)、倭奴国(いどこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫(だいふ)と自称した。倭奴国は、倭国の南界を極めたので、倭奴国の王に印章と下げ綬を賜った。
安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升(すいしょう)らは、奴隷百六十人を献上して、皇帝の謁見を願ってきた。
【解説】
江戸時代に福岡市の志賀島から出土した金印をもらった話です。ここまで史書と出土物が一致しているのは、気持ちいいですね。もっとも、逆に偽物説を唱える方もいますが。
問題は、刻印されている文字の読み方です。歴史の教科書では「漢倭奴国王」と刻印されており、それを「漢の倭の奴の国王」つまり「かんのわのなのこくおう」と読むと習いましたよね。だからこの金印は、奴国王が漢の皇帝からもらった、と習いました。
ところが、金印をよく見てください。わかりにくいですが、刻印されているのは、「漢委奴国王」です。つまり倭ではなく、委となってます。
ここから、委奴(いと)国王すなわち伊都国王がもらったという説があるわけです。
2説の間では長年論争となっており、いまだに結論が出でいません。
ではどっちなのかですが、結論から先にお話しすると、どちらでもないでしょう。
私は、ここでも古田武彦氏の説に合理性があると考えます。
古田氏の説は、古代中国の印章をすべて調べたところの結論として、そもそもの読み方がおかしい、正しくは「漢の委奴国王」と読むべきというものです。そして委奴国とは「いどこく」あるいは「いぬこく」と読み、委国(いこく)の卑字表現だ、というものです。中国を長年苦しめた北方民族の匈奴(きょうど)と同じです。そしてこの委奴国こそ倭国を統治する宗主国、のちの邪馬壹国だ、としています。
詳しい話は、回を改めてお話ししますが、ここまでの話しのなかで、
委国(いこく)→邪馬壹国(やまいこく)
という流れが見えてくるのではないでしょうか?。
なお、委の字の読みは、正確には、「ゐ」なので、邪馬壹国の読みは正確に表すと、「やまゐこく」となります。
金印
続いて、使者が大夫と名乗った、とあります。単に、自己紹介で自分の官職を名乗った程度の話に聞こえますが、そうではありません。大夫とは、
中国の周代から春秋戦国にかけての身分を表わす言葉で、領地をもった貴族のこと(WIKIPEDIAより)
です。
これだけだと、それで終わる話ですが、実はいずれお話しする中国史書「翰苑(かんえん)」のなかに、「呉太伯の苗(びょう)」との記載がでてきます。太伯とは、紀元前11~12世紀頃の人で、周王朝の王子であり、呉王朝の始祖といわれています。つまり「自分たちは周王朝および呉王朝の末裔だ。」と言っているわけです。これは倭人がどこからきたのか?ということを考える重要な手がかりになります。(なおこの呉は、三国志の呉ではなく、春秋戦国時代の呉(BC585-473)です。あの有名な、呉越同舟の呉です。)
そしてもうひとつ、大きな論点があります。それは、「倭国之極南界也。光武賜以印綬」の読みです。通常は、「倭国の極南界 なり。光武は賜うに印綬を以てす。」と読み、倭国の一番南である、となります。ところが、そうなると、奴国、伊都国とも、一番南ではなく、邪馬壹国も同様です。ここで、多くの論者は、納得しうる説明ができなくなったわけです。
ここで、また古田氏が、あっと驚く説を唱えます。「ここには、なぜ光武帝が金印を与えるのかの理由が書かれておらず、おかしい。一方、也は、「なり」の他、「や」と読む用法があることから、「倭国の南界を極むるや、光武賜うるに印綬を以てす。」と読める。」というのです。すると「倭国は、南の果てを極めたから、光武帝は、それを称えて金印をさしあげたのだ。」となり、光武帝が金印を授与した理由がはっきりとします。果たして当時そのように読まれたのかは、これだけでは断定できませんが、確かにこの解釈なら、流れがすっきりします。
南界となると太平洋方面になりますが、ではそこを極めるとは、何を意味するのか、なんとも壮大な話になってくるのですが、詳しい内容は、いずれということに・・・・・。
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今回は、風俗に続いて、政治の話に入ります。ここで、あの有名な「志賀島の金印」の話が出てきます。
人が死んだときは、遺骸を家のそばに十数日留めておき、家族は哭泣(こくきゅう)の礼を行って酒や食物をとらないが、同族は遺骸の傍らで歌舞し、音楽を演奏する。
動物の骨を焼いて占い、物事の吉凶を決める。
往来に海を渡るときは、一行の中の一人に髪をすいたり身体を洗ったりさせず、肉を食べず、婦人を近づけたりしないようにさせる。これを「持衰(じさい)」という。もし、その航海がうまくいけば、褒美として財物を与える。もし、一行の中に病人が出たり、事故に遭ったりすれば、持衰のしかたがたりなかったためだとして、すぐにみなでその者を殺してしまう。
【解説】
ここも魏志倭人伝の記載とほぼ同じです。続いて政治の話になります。
建武中元二年(57年)、倭奴国(いどこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫(だいふ)と自称した。倭奴国は、倭国の南界を極めたので、倭奴国の王に印章と下げ綬を賜った。
安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升(すいしょう)らは、奴隷百六十人を献上して、皇帝の謁見を願ってきた。
【解説】
江戸時代に福岡市の志賀島から出土した金印をもらった話です。ここまで史書と出土物が一致しているのは、気持ちいいですね。もっとも、逆に偽物説を唱える方もいますが。
問題は、刻印されている文字の読み方です。歴史の教科書では「漢倭奴国王」と刻印されており、それを「漢の倭の奴の国王」つまり「かんのわのなのこくおう」と読むと習いましたよね。だからこの金印は、奴国王が漢の皇帝からもらった、と習いました。
ところが、金印をよく見てください。わかりにくいですが、刻印されているのは、「漢委奴国王」です。つまり倭ではなく、委となってます。
ここから、委奴(いと)国王すなわち伊都国王がもらったという説があるわけです。
2説の間では長年論争となっており、いまだに結論が出でいません。
ではどっちなのかですが、結論から先にお話しすると、どちらでもないでしょう。
私は、ここでも古田武彦氏の説に合理性があると考えます。
古田氏の説は、古代中国の印章をすべて調べたところの結論として、そもそもの読み方がおかしい、正しくは「漢の委奴国王」と読むべきというものです。そして委奴国とは「いどこく」あるいは「いぬこく」と読み、委国(いこく)の卑字表現だ、というものです。中国を長年苦しめた北方民族の匈奴(きょうど)と同じです。そしてこの委奴国こそ倭国を統治する宗主国、のちの邪馬壹国だ、としています。
詳しい話は、回を改めてお話ししますが、ここまでの話しのなかで、
委国(いこく)→邪馬壹国(やまいこく)
という流れが見えてくるのではないでしょうか?。
なお、委の字の読みは、正確には、「ゐ」なので、邪馬壹国の読みは正確に表すと、「やまゐこく」となります。
金印


続いて、使者が大夫と名乗った、とあります。単に、自己紹介で自分の官職を名乗った程度の話に聞こえますが、そうではありません。大夫とは、
中国の周代から春秋戦国にかけての身分を表わす言葉で、領地をもった貴族のこと(WIKIPEDIAより)
です。
これだけだと、それで終わる話ですが、実はいずれお話しする中国史書「翰苑(かんえん)」のなかに、「呉太伯の苗(びょう)」との記載がでてきます。太伯とは、紀元前11~12世紀頃の人で、周王朝の王子であり、呉王朝の始祖といわれています。つまり「自分たちは周王朝および呉王朝の末裔だ。」と言っているわけです。これは倭人がどこからきたのか?ということを考える重要な手がかりになります。(なおこの呉は、三国志の呉ではなく、春秋戦国時代の呉(BC585-473)です。あの有名な、呉越同舟の呉です。)
そしてもうひとつ、大きな論点があります。それは、「倭国之極南界也。光武賜以印綬」の読みです。通常は、「倭国の極南界 なり。光武は賜うに印綬を以てす。」と読み、倭国の一番南である、となります。ところが、そうなると、奴国、伊都国とも、一番南ではなく、邪馬壹国も同様です。ここで、多くの論者は、納得しうる説明ができなくなったわけです。
ここで、また古田氏が、あっと驚く説を唱えます。「ここには、なぜ光武帝が金印を与えるのかの理由が書かれておらず、おかしい。一方、也は、「なり」の他、「や」と読む用法があることから、「倭国の南界を極むるや、光武賜うるに印綬を以てす。」と読める。」というのです。すると「倭国は、南の果てを極めたから、光武帝は、それを称えて金印をさしあげたのだ。」となり、光武帝が金印を授与した理由がはっきりとします。果たして当時そのように読まれたのかは、これだけでは断定できませんが、確かにこの解釈なら、流れがすっきりします。
南界となると太平洋方面になりますが、ではそこを極めるとは、何を意味するのか、なんとも壮大な話になってくるのですが、詳しい内容は、いずれということに・・・・・。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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前回は、倭の風俗について、魏志倭人伝との比較もしながら、お話ししました。
今回は、風俗に続いて、政治の話に入っていきます。あの有名な「志賀島の金印」の話が出てきます。
今回は、風俗に続いて、政治の話に入っていきます。あの有名な「志賀島の金印」の話が出てきます。
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