宗像神を祭る神社データは語る(9)~印旛沼周辺の宗像神社群
次に千葉県です。引き続き矢田氏論文からです。長くなりますが、たいへん興味深くかつまた参考になるので、引用させていただきます。
3.印旛沼周辺の宗像神社群
”千葉県の13社の宗像神社は、すべて旧印旛沼の北岸に沿って丘陵上に分布する。印旛沼は、現在ではいくつかの小さい湖沼に分かれているが、かつては利根川に繋がる長大な河跡湖であった。図6に郷土史家の小倉博氏による分布略図を示した。この図に示すように、この宗像神社群と接して、19社の鳥見神社群(かつては21社)がある。またさらに、印旛沼を挟んで15社(かつては18社)の麻賀多(まかた)神社がまとまって分布する。”
”この分布が、宗像神を祭る氏族(宗像族)の役割を示していると思われる。小倉氏によると、麻賀多神社は全国でもここだけに分布する神社で、応神天皇の時代に印波国造(いにはのくにみやつこ)となったという伊都許利(いつくり)命を祭る。すなわち地元のローカルな祖先神である。”
”一方鳥見神社群は、全て物部族の祖先神ニギハヤヒを主神として祭っている。鳥見の名のある神社は全国でここだけであり、ニギハヤヒを祭る神社の135社のうちでもここが最も多い。この社名は現在殆どトリミと読まれるが、2社はトミと読む。地名もかつてはトミといったようである。”
【解説】
印旛沼を取り囲むようにして、宗像神社群、鳥見神社群、麻賀多神社群があります。さらに埴生(ハニヤス)神社群があります。ハニヤスもキーとなる神様であり、回を改めてお話します。
”社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。”(Wikipediaより)
【解説】
鳥見神社の起源を、日本建尊(やまとタケルノミコト)に結びつけてます。神八井耳命(かんやいみみのみこと)とは、初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされてます。その8世子孫の印旛国造・伊都許利命も関係しているとしてます。
「真賀多真」が、三種の神器の「勾玉(まがたま)」と同名として、「真賀多神社」、さらに「麻賀多神社」に変わったというのも、興味深いですね。
"これらの組み合わせは、大和の櫻井市に見られる。大和の聖山三輪山の南に向かい合うのが鳥見山である。これはトミヤマとも読まれるが、すぐ下に鳥見(とりみ)という字名があるので、トリミがトミとも呼ばれたことは間違いない。そしてこの一帯の大字は、外山(とび)である。この地名は、もちろんトミから来たものと思われる。この外山の鳥見山北麓に、前述の式内の宗像神社がある。そして鳥見山の西麓桜井には、古社の等彌(とみ)神社がある。この神社の祭神は現在大日孁貴(おおひるめのむち)命(天照大神の別神)を祭神としているが、本来の祭神がニギハヤヒとする説も根強い。外山に対して大和盆地の反対側の奈良県石木町に同じ発音の登彌神社があってニギハヤヒ他四神を本殿に祭るが、神社の由緒には本来の祭神をニギハヤヒとしている。神武紀にニギハヤヒが大和に入り土地の豪族長髄彦(ナガスネヒコ)(「古事記」に登美(とみ)の那賀須泥毘古(ナガスヌビコ))の娘三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)(亦の名鳥見屋媛(トミヤヒメ)、「古事記」に登美夜毘売(トミヤビメ))を娶って可美真手(ウマシマデ)命(「古事記」に宇摩志麻遅(うましまじ)命)を生んだとある。このようにトミがニギハヤヒと特別な縁のある地名であるので、等彌神社の祭神もニギハヤヒであった可能性が高い。これらから、上記印旛沼周辺の鳥見神社の社名と祭神の由来が理解できる。そして、宗像神社の鳥見神社群とのつながりも、大和以来であることがわかる。”
【解説】
この組合せが、大和の桜井、つまり纏向遺跡周辺にあることに注目です。ここでウマシマジとは、物部氏の祖とされる人物です。
”物部系を名乗る古代の氏族はきわめて多かった。京および畿内の古代日本の氏族を分類した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)(平安時代初期編纂)によると、「神別」(神代の神々の末裔)の404氏のうち、ニギハヤヒの末と名乗る物部系は107氏で、最多である。しかし前述のように、ニギハヤヒを祭る神社は少なく、畿内には16社しかない。大和にも物部系氏族7氏が記録されているが、ニギハヤヒを祭る神社は前記2社のみである。物部系氏族でも、おそらく本宗家に属する人々だけがニギハヤヒを祭っていたのではないか。これは本宗家の根拠地のあった大阪府に、ニギハヤヒを祭る神社が11社集中することからもわかる。”
”その畿内の物部本宗家は、587年の「蘇我・物部戦争」で滅びた。本宗家ゆかりの人々はおそらく土地を取り上げられ、各地に四散したであろう。その人々が落ち着いた土地の一つが、印旛だったのではないか。”
【解説】
ニギハヤヒの末裔と名乗る物部系の数は多いにもかかわらず、ニギハヤヒを祭る神社が少ない理由を、”本宗家のみがニギハヤヒを祭っていたのではないか?。”としてます。
その本宗家が「蘇我・物部戦争」で滅びたのち、各地に四散し、その一つが印旛だった、と推測してます。
この説が正しいとなると、物部氏が印旛に住むようになったのは、6世紀後半となります。
一方、大森・小林の鳥見神社には崇神天皇五年との伝承もあります(千葉県神社名鑑)。さらに平岡の鳥見神社の伝承には、”饒速日命の部下が東征して、印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着し、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。”とあります(全国神社名鑑)。
これらの伝承が史実ならば、ずっと古くなり、紀元前まで遡る可能性もあると考えます。
では宗像族は、なぜ物部族の隣に住んだのでしょうか?。
矢田氏が推測をしています。
”宗像の周囲の筑豊地方には物部系の神社が多く、宗像市の東隣岡垣町の古社高倉神社は、物部系を祭る神社と考えられる。そのほかにも筑豊地方には物部神を祭る神社が多く、宗像市の南隣宮若市の天照(てんしょう)神社とその他三社が、ニギハヤヒを祭る。「旧事紀」のニギハヤヒ東征説話に出てくる地名ゆかりの氏族名からも、物部族の故地が筑豊であったとする考えが強い。”
”以上のように、津軽でも、印旛でも、ムナカタと同様、物部系氏族が宗像族の近くに住むが、決して混在はしないという現象が認められる。これが両者の関係を表しているのであろう。このことは、両者はおそらく出自がかなり異なり、相互の利益供与のため近接して住んでいることを示すと思われる。そして、居住地の状況を見ると、いずれも宗像族が先に到着し、その後物部系氏族が入植したように見られる。これをはっきり示しているのが、印旛の例である。図6の各神の配置から、麻賀多神を祭る地元の氏族の隣にまず宗像族が入植し、続いて物部系氏族が到着した状況が明らかである。”
”宗像族は、宗像神の広い全国分布が示すように、おそらく通商のために、日本全国に足跡を印し、各所に拠点を作っていた。しかしおそらく縄文以来の海人としての性格上、武力による土地の占拠とは無縁であった。しかしその宗像族が、弥生文化の伝達を始め、各所に弥生集落が成立すると、土地占拠の争いが生ずるようになる。そうすると武力を持つ氏族の後ろ盾が必要になってくる。”
”印旛の場合、宗像族が入植した理由は、その配置から見て、印旛沼の干拓であったと思われる。これは後世のことになfるが、「宗像市史」によると、「続日本紀」解工(げこう)の宗像朝臣(あそん)赤麻呂が褒章を受けた記事が載るという。解工とは、土木工事の技術者と考えられている。正史に載るということは、その背後に大きな技術集団が居たことを意味しよう。印旛沼でも、麻賀多神社を祭る地元の豪族が、干拓のために宗像系の技術者を呼んだのではないか。干拓には長い時間がかかるので、宗像族の人が定住することになったのであろう。”
”物部本宗家ゆかりの人々は、かつての両者の故地でのつながりから宗像族の住む土地を追って入植したのではないか。武力をもつ物部系の人々は、宗像族を護る役割も持っていたであろう。また宗像族は、武力を持つ両氏族の間で、緩衝の役割を持っていたとも考えられる。”
”以上三カ所の例から、宗像神の広い分布から推測される古代宗像族の広域活動には、有力な友好族、特に出雲族と物部族の関わりが強かったことがわかる。”
【解説】
まず物部族の故地を、筑豊としたうえ、そこで宗像族の近くに住んでいるものの明確な棲み分けがあった、としてます。その構図が、津軽、印旛でもみられる、としてます。
ここから、両族は、出自がもともと異なっているのではないか、そしてお互い持ちつ持たれつの関係だったのではないか、という推測です。実に興味深い推測です。
具体的には、宗像族は縄文海人族として、全国ネットワークをもっていた。そのなかで干拓などの土木工事を行っていた。麻賀多神を祭る氏族は、もともと印旛沼周辺に住んでいた人々だった、物部族は、武力を持って彼らを守った、ということです。
入植は先に宗像族が入り、あとから物部族が追ってきた、としてます。宗像族の入植の時期は、相当古い時代で紀元前だったと推定されます。そうなると、宗像族を追って物部族がやってきたのも、やや遅れてだったのではないでしょうか?。
となると、その時期は「蘇我・物部戦争」(587年)の後というより、神社伝承にあるような古い時代としたほうが、つじつまが合ってくると思われます。
ここで、前回掲載した、宗像神の推定伝播ルート図に、印旛沼を落とした図を示します。
この図をみますと、宗像族や物部族が太平洋側からやってきた可能性も、感じさせますね。
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3.印旛沼周辺の宗像神社群
”千葉県の13社の宗像神社は、すべて旧印旛沼の北岸に沿って丘陵上に分布する。印旛沼は、現在ではいくつかの小さい湖沼に分かれているが、かつては利根川に繋がる長大な河跡湖であった。図6に郷土史家の小倉博氏による分布略図を示した。この図に示すように、この宗像神社群と接して、19社の鳥見神社群(かつては21社)がある。またさらに、印旛沼を挟んで15社(かつては18社)の麻賀多(まかた)神社がまとまって分布する。”

”この分布が、宗像神を祭る氏族(宗像族)の役割を示していると思われる。小倉氏によると、麻賀多神社は全国でもここだけに分布する神社で、応神天皇の時代に印波国造(いにはのくにみやつこ)となったという伊都許利(いつくり)命を祭る。すなわち地元のローカルな祖先神である。”
”一方鳥見神社群は、全て物部族の祖先神ニギハヤヒを主神として祭っている。鳥見の名のある神社は全国でここだけであり、ニギハヤヒを祭る神社の135社のうちでもここが最も多い。この社名は現在殆どトリミと読まれるが、2社はトミと読む。地名もかつてはトミといったようである。”
【解説】
印旛沼を取り囲むようにして、宗像神社群、鳥見神社群、麻賀多神社群があります。さらに埴生(ハニヤス)神社群があります。ハニヤスもキーとなる神様であり、回を改めてお話します。
”社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。”(Wikipediaより)
【解説】
鳥見神社の起源を、日本建尊(やまとタケルノミコト)に結びつけてます。神八井耳命(かんやいみみのみこと)とは、初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされてます。その8世子孫の印旛国造・伊都許利命も関係しているとしてます。
「真賀多真」が、三種の神器の「勾玉(まがたま)」と同名として、「真賀多神社」、さらに「麻賀多神社」に変わったというのも、興味深いですね。
"これらの組み合わせは、大和の櫻井市に見られる。大和の聖山三輪山の南に向かい合うのが鳥見山である。これはトミヤマとも読まれるが、すぐ下に鳥見(とりみ)という字名があるので、トリミがトミとも呼ばれたことは間違いない。そしてこの一帯の大字は、外山(とび)である。この地名は、もちろんトミから来たものと思われる。この外山の鳥見山北麓に、前述の式内の宗像神社がある。そして鳥見山の西麓桜井には、古社の等彌(とみ)神社がある。この神社の祭神は現在大日孁貴(おおひるめのむち)命(天照大神の別神)を祭神としているが、本来の祭神がニギハヤヒとする説も根強い。外山に対して大和盆地の反対側の奈良県石木町に同じ発音の登彌神社があってニギハヤヒ他四神を本殿に祭るが、神社の由緒には本来の祭神をニギハヤヒとしている。神武紀にニギハヤヒが大和に入り土地の豪族長髄彦(ナガスネヒコ)(「古事記」に登美(とみ)の那賀須泥毘古(ナガスヌビコ))の娘三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)(亦の名鳥見屋媛(トミヤヒメ)、「古事記」に登美夜毘売(トミヤビメ))を娶って可美真手(ウマシマデ)命(「古事記」に宇摩志麻遅(うましまじ)命)を生んだとある。このようにトミがニギハヤヒと特別な縁のある地名であるので、等彌神社の祭神もニギハヤヒであった可能性が高い。これらから、上記印旛沼周辺の鳥見神社の社名と祭神の由来が理解できる。そして、宗像神社の鳥見神社群とのつながりも、大和以来であることがわかる。”
【解説】
この組合せが、大和の桜井、つまり纏向遺跡周辺にあることに注目です。ここでウマシマジとは、物部氏の祖とされる人物です。
”物部系を名乗る古代の氏族はきわめて多かった。京および畿内の古代日本の氏族を分類した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)(平安時代初期編纂)によると、「神別」(神代の神々の末裔)の404氏のうち、ニギハヤヒの末と名乗る物部系は107氏で、最多である。しかし前述のように、ニギハヤヒを祭る神社は少なく、畿内には16社しかない。大和にも物部系氏族7氏が記録されているが、ニギハヤヒを祭る神社は前記2社のみである。物部系氏族でも、おそらく本宗家に属する人々だけがニギハヤヒを祭っていたのではないか。これは本宗家の根拠地のあった大阪府に、ニギハヤヒを祭る神社が11社集中することからもわかる。”
”その畿内の物部本宗家は、587年の「蘇我・物部戦争」で滅びた。本宗家ゆかりの人々はおそらく土地を取り上げられ、各地に四散したであろう。その人々が落ち着いた土地の一つが、印旛だったのではないか。”
【解説】
ニギハヤヒの末裔と名乗る物部系の数は多いにもかかわらず、ニギハヤヒを祭る神社が少ない理由を、”本宗家のみがニギハヤヒを祭っていたのではないか?。”としてます。
その本宗家が「蘇我・物部戦争」で滅びたのち、各地に四散し、その一つが印旛だった、と推測してます。
この説が正しいとなると、物部氏が印旛に住むようになったのは、6世紀後半となります。
一方、大森・小林の鳥見神社には崇神天皇五年との伝承もあります(千葉県神社名鑑)。さらに平岡の鳥見神社の伝承には、”饒速日命の部下が東征して、印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着し、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。”とあります(全国神社名鑑)。
これらの伝承が史実ならば、ずっと古くなり、紀元前まで遡る可能性もあると考えます。
では宗像族は、なぜ物部族の隣に住んだのでしょうか?。
矢田氏が推測をしています。
”宗像の周囲の筑豊地方には物部系の神社が多く、宗像市の東隣岡垣町の古社高倉神社は、物部系を祭る神社と考えられる。そのほかにも筑豊地方には物部神を祭る神社が多く、宗像市の南隣宮若市の天照(てんしょう)神社とその他三社が、ニギハヤヒを祭る。「旧事紀」のニギハヤヒ東征説話に出てくる地名ゆかりの氏族名からも、物部族の故地が筑豊であったとする考えが強い。”
”以上のように、津軽でも、印旛でも、ムナカタと同様、物部系氏族が宗像族の近くに住むが、決して混在はしないという現象が認められる。これが両者の関係を表しているのであろう。このことは、両者はおそらく出自がかなり異なり、相互の利益供与のため近接して住んでいることを示すと思われる。そして、居住地の状況を見ると、いずれも宗像族が先に到着し、その後物部系氏族が入植したように見られる。これをはっきり示しているのが、印旛の例である。図6の各神の配置から、麻賀多神を祭る地元の氏族の隣にまず宗像族が入植し、続いて物部系氏族が到着した状況が明らかである。”
”宗像族は、宗像神の広い全国分布が示すように、おそらく通商のために、日本全国に足跡を印し、各所に拠点を作っていた。しかしおそらく縄文以来の海人としての性格上、武力による土地の占拠とは無縁であった。しかしその宗像族が、弥生文化の伝達を始め、各所に弥生集落が成立すると、土地占拠の争いが生ずるようになる。そうすると武力を持つ氏族の後ろ盾が必要になってくる。”
”印旛の場合、宗像族が入植した理由は、その配置から見て、印旛沼の干拓であったと思われる。これは後世のことになfるが、「宗像市史」によると、「続日本紀」解工(げこう)の宗像朝臣(あそん)赤麻呂が褒章を受けた記事が載るという。解工とは、土木工事の技術者と考えられている。正史に載るということは、その背後に大きな技術集団が居たことを意味しよう。印旛沼でも、麻賀多神社を祭る地元の豪族が、干拓のために宗像系の技術者を呼んだのではないか。干拓には長い時間がかかるので、宗像族の人が定住することになったのであろう。”
”物部本宗家ゆかりの人々は、かつての両者の故地でのつながりから宗像族の住む土地を追って入植したのではないか。武力をもつ物部系の人々は、宗像族を護る役割も持っていたであろう。また宗像族は、武力を持つ両氏族の間で、緩衝の役割を持っていたとも考えられる。”
”以上三カ所の例から、宗像神の広い分布から推測される古代宗像族の広域活動には、有力な友好族、特に出雲族と物部族の関わりが強かったことがわかる。”
【解説】
まず物部族の故地を、筑豊としたうえ、そこで宗像族の近くに住んでいるものの明確な棲み分けがあった、としてます。その構図が、津軽、印旛でもみられる、としてます。
ここから、両族は、出自がもともと異なっているのではないか、そしてお互い持ちつ持たれつの関係だったのではないか、という推測です。実に興味深い推測です。
具体的には、宗像族は縄文海人族として、全国ネットワークをもっていた。そのなかで干拓などの土木工事を行っていた。麻賀多神を祭る氏族は、もともと印旛沼周辺に住んでいた人々だった、物部族は、武力を持って彼らを守った、ということです。
入植は先に宗像族が入り、あとから物部族が追ってきた、としてます。宗像族の入植の時期は、相当古い時代で紀元前だったと推定されます。そうなると、宗像族を追って物部族がやってきたのも、やや遅れてだったのではないでしょうか?。
となると、その時期は「蘇我・物部戦争」(587年)の後というより、神社伝承にあるような古い時代としたほうが、つじつまが合ってくると思われます。
ここで、前回掲載した、宗像神の推定伝播ルート図に、印旛沼を落とした図を示します。

この図をみますと、宗像族や物部族が太平洋側からやってきた可能性も、感じさせますね。
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