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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(5)~航海神としての宗像神

次に、航海神としての宗像神の分布を見ていきます。
図13は、島嶼部を含む北部九州沿岸のおもな宗像系神社です。

北部九州宗像系神社分布



”『書紀』の「海北道中」に対応して、対馬北部東岸に宗像神を祭る神社が多い。宗像を名乗る神社は 大増の宗像神社だけであるが、この宗像神はより南の佐賀(さか)から勧請されたと言い伝えている。佐賀の和多都美(わたつみ)神社は、旧名を佐賀宗形宮と言ったという。佐賀には有名な縄文貝塚があり、宗像海人族との繋がりが縄文以来である可能性を示す。なお大増の宗像神社を支えている神主や氏子の殆どが比田勝氏であるので、この神社もしくはその元社がかつて良港の比田勝にあった可能性が高い。実際に、比田勝港近くの倉庫で「宗像神社」の扁額を実見した。比田勝は「日高津」のことで、に漕ぎ出す港の意味と考えられる。これらは沖ノ島経由で直接宗像やその他の響灘沿岸地方に向かう航路に対応 すると考えられ(これをムナカタルート1とする)、まさに『書紀』の「海北道中」に位置する神社群である。
一方対馬南部にも三女神を祭る2社があり、壱岐の西海岸に対している。前述のように壱岐には南部に宗像神が多いが、郷ノ浦港の湾口にある渡良(わたら)三島(みしま)と呼ばれる大島、長島、原島(はるしま)に、それぞれ島の名を社名とし、宗像三神のみを祭る三社がある。”

【解説】
対馬北部東岸にある「佐賀」「和多都美(わたつみ)神社」に注目です。
綿津見神社は海の守護神である綿津見三神を多くは祭神として祀るが、娘である豊玉姫玉依姫や、豊玉姫の子の阿曇磯良を祀る神社もある。
福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い。”(Wikipediaより)

ここから対馬北部でも、阿曇族が活動していたことがうかがえます。
前に対馬北部は宗像神が多く祭られるのに対して、南部は玉依姫が多く祭られている、とお話しました。また魏志倭人伝の「対海国」は対馬南部と考えられる、とお話しました。
とはいえ対馬南部にも宗像神を祭る神社がありますから、対馬の中で宗像族と阿曇族は活動地域が明確に区分されていたのではなく、入り混じって活動していたことが推測されます。
また「佐賀」は、位置関係からいっても、佐賀県の「佐賀」と何らかの関係があるかと思われます。

壱岐東南部にも、原の辻遺跡に近い石田町池田西触に宗像三神を祭る田嶋神社がある。この神社は、 呼子の加部島にある式内の名神大社の田島神社の系列社と見られる。ここからは、東行宗像へ向かうルートが考えられる(ムナカタルート2)。この経路にも、要所に宗像系神社がある。唐津湾口の姫島にイチキシマが祭られており、博多湾口唐泊崎に護られた宮浦港には三女神を祭る古社三所神社がある。玄界灘に浮かぶ小呂島には、三女神を筆頭祭神とする七所神社がある。
この社は、かつて宗像神のみを祭っていたことが『付録』に記されている。福岡市香椎の名島神社(江戸時代は弁才天社)も、古くから宗像神を祭ってきたことが『付録』に記される。”

【解説】
壱岐は、魏志倭人伝の「一大国」です。原の辻遺跡は、弥生時代の大型環濠集落遺跡が出土して、クニの都と推定されてます。魏志倭人伝では、壱岐から本土の唐津に渡海したと考えられますが、本土にも宗像神を祭る神社が分布してますね。

田島(田嶋・多島)神社は、東・西松浦郡に12社(『調』には13社)あり、いずれも三女神を祭る。伊万里湾内に多く、ここから内陸に入るルートに関与した人々が祭った神社と見られる。図5で見たように、ここから有明海沿岸までは濃厚な宗像神分布地帯となっている。
一方西海地方にも宗像神が多く分布する。前報で見たように、長崎県は千葉県と青森県に次ぎムナカタ神社が多い。そのうち対馬以外の五社は本島部西海岸にある。平戸市田平(たびら)の宗像神社は、『日本三代実録』の貞観一三年(871)と同一五年(873)に見える「宗形天神」とされている。この神社は、平戸島と九州本土を隔てる平戸瀬戸の本島側に約2km入ったところにある。この神社は、著名な里田原(さとたばる)遺跡の範囲内に ある。この遺跡は縄文晩期に始まるが、最盛期は弥生時代前期から中期までで、後期までも続いていることが最近確認された。遺物も豊富で、朝鮮半島製の初期青銅鏡多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)が甕棺墓から出土している。そのほかにも小型板状鉄斧、無文土器、天河石や瑪瑙の丸玉など、朝鮮半島からの直輸入と思われる遺物が多い。海人族の交易中心地であったことが分かる。
ここから約3 kmに、平戸瀬戸に面した縄文時代のツグメノハナ遺跡がある。ここからは、100点以上の石銛とともに多量のクジラ、イルカ、サメの骨が出土し、縄文海人の根拠地があったと見られる。この石銛は沖ノ島でも多く出土しており、宗像海人族との繋がりが縄文時代に始まることを支持する。
さらに南下すると、西彼杵半島の北部、西海市中浦に宗像神社がある。さらに南下して長崎市の展望台稲佐山に登る長崎ロープウェイの乗り場のところに淵神社があるが、この主祭神が宗像三女神である。”

【解説】
魏志倭人伝の「末盧國(まつら・まつろ)国」にあたると考えられる東・西松浦郡ですが、特に西側の伊万里湾に多いですね。
里田原(さとたばる)遺跡は、弥生時代の水田稲作遺構や夜臼式土器、支石墓も出土するなど、当時最先端の文化が開いていました。
ツグノハナ遺跡から出た多量のクジラ・イルカの骨からわかるとおり、当時から捕鯨をやっていたことがわかります。貴重な動物性たんぱく質だったことでしょう。

さらに長崎を回り雲仙諸峯の麓の橘湾に臨む海岸沿いに、三社の宗像神社があります。また五島列島にもいくつかの純宗像系社があり、西海にもうひとつの古い海の道があった、と推測してます。
そして
”福江島の岐宿(きしく)には三女神を祭る古社巖立(いわたて)神社がある。この神社はかつて岐宿湾中の宮の小島にあったのを移したものというが、由緒記によればこの島に祭られたのは桓武天皇の時代で、空海が入唐の 際立ち寄ったとき島民から神のお告げを聞き、この島に社を建てることを勧め三女神を勧請したという。このころの遣唐使は岐宿の西約10 kmの三井楽から出発していたが、岐宿はこの島北岸最大の 集落であり、名も唐船の浦という深い湾があるので、空海らもここに停泊して風待ちをしたのではないか。そして三井楽にも三女神のみを祭る柏神社がある。『調』は、そのほか三井楽にイチキシマを祭る 市杵島神社を載せている。”

【解説】
巖立(いわたて)神社ですが、空海が三女神を勧請したと伝えられている、とのことです。ということはのちの空海の時代にも、この周辺において三女神信仰が盛んだったことが推定されます。

以上のとおり、多くの宗像系神社がありますが、多くは海岸沿いに立地してます。こうしたことからも、海人族の信仰だったことがうかがえます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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