北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(9)~宗像神信仰中心地域の検討,ムナカタ~遠賀地域
今回から、宗像神信仰の成立過程を探るため、その発祥の地域と考えられている東部地域について、祭神内容の詳細を検討します。
”図 15 はムナカタ―遠賀地域について宗像神を祭る神社の分布を、祭神別にみたものである。宗像郡では、沿岸部よりも釣川の中流域からその支流域に多く分布する。これは多くの古社の起源が入り海の発達していた上古代に遡ることを示唆している。
【解説】
釣川は、遠い昔は入り江のように、海が川の上流部にまで入いり込み、入り海であったことがわかってます。その入り海沿いに分布していることから、古社の起源も遠い昔に遡る、と推測してます。
”これまで見たように宗像郡では三女神を祭る神社が多いが、タゴリのみを祭る神社が 2 社ある。沖ノ島祭祀開始との係わりが議論される 4 世紀後半の東郷高塚前方後円墳のすぐそばに、オオナムチとタゴリを祭る古社矢房神社がある。この神社は田熊石畑遺跡とも至近距離にあるが、その遺跡内にかつてオオナムチを祭る示現神社があった(現在は約 500 m 西に移動)。これら遺跡がある八並川(釣川の支流)の谷には、オオナムチと共にタゴリとの間の子神味耜(あじすき)高彦根(たかひこねの)命および下照(したてる)姫命が 3 社の的原神社で祭られる。タゴリとオオナムチは、かつての桂潟に面した福津市奴山の生家大塚前方後円墳のすぐそば大都加(おおつか)神社にも、宗像君徳善など古代宗像を支配した宗像君一族と共に祭られている。沖ノ島祭祀に参画し、後にはその祭祀を中心となって継承したと考えられている宗像君は、出雲系の血を引く氏族であったらしい。出雲大社瑞垣内の筑紫社の祭神タゴリが、宗像大社でも祭られるのは当然である。”
【解説】
沖ノ島は、タゴリ信仰です。そのタゴリ信仰の神社が宗像郡にも2社あるので、沖ノ島祭祀との係わりが指摘されてるわけです。さらに下記の4社は、オオナムチ(大国主)・スサノオ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメが祭られていることから、出雲との関連を指摘してます。
各社の祭神
・矢房神社
オオナムチ・天照大神・タゴリ
「伊久志神社」(合祀)
イザナギ・イザナミ
「貴船神社」(合祀)
高轗(タカオカミ)神・保食神
・示現神社
スサノオ・オオナムチ
・的原神社
オオナムチ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメ
・大都加神社
大国主・タゴリ・阿田賀多
宗像君阿鳥・宗像君徳善・宗像朝臣秋足主神
難波安良女神・宗像君烏丸主神
ここまではいいのですが、実はここで論文には触れられていない注目すべきことがあるのです。
たとえば大都加神社です。
江戸時代までは、大塚明神社と呼ばれたいました。
「筑前国風土記付録」(同拾遺)に、「いかなる神を祭れるにや」とあり、奉祀は「在自村無量院」(修験者)が行っていたとあるようです。つまり祭神が誰なのか知られていなかった、ということです。
明治時代以降に、農耕神としての、「埴安神・少彦名命・保食神」が祭られるようになった(福岡県地理全誌記載)とのことです。(ブログ「正見行脚」大都加神社の祭神の変遷より)。
埴安神はこれまで出てきたように、博多湾岸から筑後地方にかけて信仰されていた神です。となると、このエリアを簡単に宗像海人族のエリアと決め付けていいのか?、という疑問が生じます。もっと具体的に言うと、阿曇海人族のエリアの可能性はないのか?、という問題提起です。
実際、矢房神社内の貴船神社の祭神は、高轗(タカオカミ)神とともに農耕神である保食神であり、大都加神社と対応してます。
”一方タギツは単独では祭られていないが、瀬織津姫(他の表記もあるので以下セオリツ)が津屋崎の古社波折神社に主祭神として祭られている。『宗像郡誌』によると他に 3 社の境内社に祭られている。うち釣川河口に近い辻八幡社内の皐月神社は、かつて宗像神社の頓宮があったと記録される隣接地にあった神社で、現在でもその跡地で祭りが行われる。宗像大社との繋がりの深さを感じさせる。
【解説】
瀬織津姫(セオリツ)は、神道の大祓詞に登場する神で、古事記・日本書紀には記されていない神名です。 水神や祓神、瀧神、川神で、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流すとされてます。
波折神社の祭神は、セオリツ・住吉大神・志賀大神で、ここでも阿曇海人族系の神が、顔を出してます。
一方、皐月神社の祭神は、セオリツ・宗像三神・速秋津姫・神功皇后です。
速秋津姫(ハヤアキツヒメ)とは
”神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神である。”
セオリツとともに大祓詞に出てくる 祓戸四神のうちの神で、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む、とされます(Wikipediaより)。
”一方遠賀郡域では、イチキシマのみを祭る神社が、宗像郡との境界山地の東麓に沿って多く、遠賀川中流域や若松区西部にも多い。このような分布は、後に図 18 で示す古遠賀湾および岡垣町の入り海、および深く入り込んで遠賀川河口と繋がっていた古洞海湾の沿海に沿っている。いかにも海人の祭る神にふさわしい立地である。古洞海湾と続く水路で囲まれた現在の北九州市若松区は古くは恩賀(おか)島と呼ばれていた。その中のかつての島郷村にもイチキシマを祭る神社が多い。”
【解説】
遠賀川は、かつては入り海になっていました。遠賀郡芦屋町船頭町に、岡湊(おかみなと)神社があります。
・岡湊神社の祭神
大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命・天照皇大御神・神武天皇・素盞雄命
祭神の大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命ですが、日本書紀「仲哀天皇」の巻に登場します。仲哀天皇が熊襲征伐のためこの地にやってきたときに、船が進まなくなりました。それがこの二神のせいだろう、ということで祭ったところ動くようになった、という話です。
この話から当時このエリアは、大倉主(あるいはその末裔)が勢力をもっていた、との解釈もできますね。大倉主が誰なのかは興味深いところですが、それはいずれということにします。
またここに崗水門(おかみなと)があります。読んで字の如しで、「崗(岡)にある水門」です。かつての入り海の様子がよく表されてますね。その「おか」が訛って「遠賀(おんが)」になったといわれてます。
日本書紀では、舟で穴戸豊浦宮からやってきた仲哀天皇と神功皇后が、この地で合流したとされてます。当時港としての適地だったのでしょう。
また近くに神武天皇ゆかりの、神武天皇社もあります。ここから東征に出発したともいわれてます。
詳しくは、
土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇
を参照ください。
このようにこの地域一帯は、古代から多くの海にまつわる話が伝わっており、海人族の重要拠点だったことがわかりますね。
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”図 15 はムナカタ―遠賀地域について宗像神を祭る神社の分布を、祭神別にみたものである。宗像郡では、沿岸部よりも釣川の中流域からその支流域に多く分布する。これは多くの古社の起源が入り海の発達していた上古代に遡ることを示唆している。
【解説】
釣川は、遠い昔は入り江のように、海が川の上流部にまで入いり込み、入り海であったことがわかってます。その入り海沿いに分布していることから、古社の起源も遠い昔に遡る、と推測してます。

”これまで見たように宗像郡では三女神を祭る神社が多いが、タゴリのみを祭る神社が 2 社ある。沖ノ島祭祀開始との係わりが議論される 4 世紀後半の東郷高塚前方後円墳のすぐそばに、オオナムチとタゴリを祭る古社矢房神社がある。この神社は田熊石畑遺跡とも至近距離にあるが、その遺跡内にかつてオオナムチを祭る示現神社があった(現在は約 500 m 西に移動)。これら遺跡がある八並川(釣川の支流)の谷には、オオナムチと共にタゴリとの間の子神味耜(あじすき)高彦根(たかひこねの)命および下照(したてる)姫命が 3 社の的原神社で祭られる。タゴリとオオナムチは、かつての桂潟に面した福津市奴山の生家大塚前方後円墳のすぐそば大都加(おおつか)神社にも、宗像君徳善など古代宗像を支配した宗像君一族と共に祭られている。沖ノ島祭祀に参画し、後にはその祭祀を中心となって継承したと考えられている宗像君は、出雲系の血を引く氏族であったらしい。出雲大社瑞垣内の筑紫社の祭神タゴリが、宗像大社でも祭られるのは当然である。”
【解説】
沖ノ島は、タゴリ信仰です。そのタゴリ信仰の神社が宗像郡にも2社あるので、沖ノ島祭祀との係わりが指摘されてるわけです。さらに下記の4社は、オオナムチ(大国主)・スサノオ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメが祭られていることから、出雲との関連を指摘してます。
各社の祭神
・矢房神社
オオナムチ・天照大神・タゴリ
「伊久志神社」(合祀)
イザナギ・イザナミ
「貴船神社」(合祀)
高轗(タカオカミ)神・保食神
・示現神社
スサノオ・オオナムチ
・的原神社
オオナムチ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメ
・大都加神社
大国主・タゴリ・阿田賀多
宗像君阿鳥・宗像君徳善・宗像朝臣秋足主神
難波安良女神・宗像君烏丸主神
ここまではいいのですが、実はここで論文には触れられていない注目すべきことがあるのです。
たとえば大都加神社です。
江戸時代までは、大塚明神社と呼ばれたいました。
「筑前国風土記付録」(同拾遺)に、「いかなる神を祭れるにや」とあり、奉祀は「在自村無量院」(修験者)が行っていたとあるようです。つまり祭神が誰なのか知られていなかった、ということです。
明治時代以降に、農耕神としての、「埴安神・少彦名命・保食神」が祭られるようになった(福岡県地理全誌記載)とのことです。(ブログ「正見行脚」大都加神社の祭神の変遷より)。
埴安神はこれまで出てきたように、博多湾岸から筑後地方にかけて信仰されていた神です。となると、このエリアを簡単に宗像海人族のエリアと決め付けていいのか?、という疑問が生じます。もっと具体的に言うと、阿曇海人族のエリアの可能性はないのか?、という問題提起です。
実際、矢房神社内の貴船神社の祭神は、高轗(タカオカミ)神とともに農耕神である保食神であり、大都加神社と対応してます。
”一方タギツは単独では祭られていないが、瀬織津姫(他の表記もあるので以下セオリツ)が津屋崎の古社波折神社に主祭神として祭られている。『宗像郡誌』によると他に 3 社の境内社に祭られている。うち釣川河口に近い辻八幡社内の皐月神社は、かつて宗像神社の頓宮があったと記録される隣接地にあった神社で、現在でもその跡地で祭りが行われる。宗像大社との繋がりの深さを感じさせる。
【解説】
瀬織津姫(セオリツ)は、神道の大祓詞に登場する神で、古事記・日本書紀には記されていない神名です。 水神や祓神、瀧神、川神で、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流すとされてます。
波折神社の祭神は、セオリツ・住吉大神・志賀大神で、ここでも阿曇海人族系の神が、顔を出してます。
一方、皐月神社の祭神は、セオリツ・宗像三神・速秋津姫・神功皇后です。
速秋津姫(ハヤアキツヒメ)とは
”神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神である。”
セオリツとともに大祓詞に出てくる 祓戸四神のうちの神で、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む、とされます(Wikipediaより)。

”一方遠賀郡域では、イチキシマのみを祭る神社が、宗像郡との境界山地の東麓に沿って多く、遠賀川中流域や若松区西部にも多い。このような分布は、後に図 18 で示す古遠賀湾および岡垣町の入り海、および深く入り込んで遠賀川河口と繋がっていた古洞海湾の沿海に沿っている。いかにも海人の祭る神にふさわしい立地である。古洞海湾と続く水路で囲まれた現在の北九州市若松区は古くは恩賀(おか)島と呼ばれていた。その中のかつての島郷村にもイチキシマを祭る神社が多い。”
【解説】
遠賀川は、かつては入り海になっていました。遠賀郡芦屋町船頭町に、岡湊(おかみなと)神社があります。
・岡湊神社の祭神
大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命・天照皇大御神・神武天皇・素盞雄命
祭神の大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命ですが、日本書紀「仲哀天皇」の巻に登場します。仲哀天皇が熊襲征伐のためこの地にやってきたときに、船が進まなくなりました。それがこの二神のせいだろう、ということで祭ったところ動くようになった、という話です。
この話から当時このエリアは、大倉主(あるいはその末裔)が勢力をもっていた、との解釈もできますね。大倉主が誰なのかは興味深いところですが、それはいずれということにします。
またここに崗水門(おかみなと)があります。読んで字の如しで、「崗(岡)にある水門」です。かつての入り海の様子がよく表されてますね。その「おか」が訛って「遠賀(おんが)」になったといわれてます。
日本書紀では、舟で穴戸豊浦宮からやってきた仲哀天皇と神功皇后が、この地で合流したとされてます。当時港としての適地だったのでしょう。
また近くに神武天皇ゆかりの、神武天皇社もあります。ここから東征に出発したともいわれてます。
詳しくは、
土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇
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このようにこの地域一帯は、古代から多くの海にまつわる話が伝わっており、海人族の重要拠点だったことがわかりますね。
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