北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(11)~宗像神の起源
ところで、宗像神の起源はどこにあるのでしょうか?。
矢田氏はここで、その要因を自然災害に求めてます。
”縄文時代早期の南九州にはかなり高度な文化が発達し、丘陵上などで狩猟採取生活を営んでいた。この生活環境を一変させたのは、約7300年前に起こった九州島南端と屋久島との間の海上で起こった鬼界カルデラの噴火である (図17)。その火山灰は風に運ばれて遠く韓国南部や東北地方南部にまで達した。
この噴火の時期に九州で多かった土器が轟A式で、同図に見るように主に南九州山間部中心に分布 する。これらの遺跡は鬼界アカホヤ噴火以降消滅し、これ以降九州の遺跡は北部に多くなる。植生が壊滅的打撃を受けた南九州から多くの移住者が あったと見られる。九州の土器は噴火以降轟A式から変化した轟B式が中心となり、急増した貝塚などから多く出土する。陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人が魚介類の採集に依存した生活に変わったと見られる。九州海人族の誕生である。
この頃気候が温暖化し、遠賀川中・下流域には大きな「古遠賀湾」が出現していた。多くの貝塚が、 この内陸水面に沿って形成された。図18に、そのうち縄文時代晩期まで続く主な貝塚を示した(芦屋町史などによる)。隣接する宗像市上八(こうじょう)のさつき松原海岸からも、最近轟B式土器が出土したので、この頃から同一文化圏に属していたと考えられる。”
【解説】
7300年前、鹿児島県の鬼界カルデラで、大きな噴火があり、九州南部は壊滅的な被害を受けました。鬼界カルデラの噴火については、以前もお話しました。
矢田氏は、この噴火により陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人々が海人族になった、としてますが、はたしてどうでしょうか?
確かにそのような人々もいたかもれません。しかしながら九州海人族の起源は、もっと時代をさかのぼるのではないでしょうか?。
これまでに何回か紹介した小田静夫氏の「新・海上の道」によれば、
”旧石器時代の石斧の分布などから、日本人の祖先は、3~4万年前に東南アジア島嶼部から黒潮に乗って、琉球諸島、本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した。そしてその後も本土内と神津島他との交易は継続して活発に行われた。”
とされてます。
”日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②”
つまり3~4万年前から、日本人の祖先は海洋性民族として日本列島近海を生活の場としてきたのであり、各地との交易を担った海人族がいた、ということです。
この流れからすれば、九州海人族はその末裔である、と考えるほうが自然でしょう。
<新・海上の道>

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>
”轟B式土器の影響は、九州を出てさらに山陰から山を越えて瀬戸内地方へ、また海を渡って朝鮮半島南部へ到達する。地理的に見て、北部九州の海人族がこの文化伝播に関与したと考えられる。
図19に、縄文時代の漁撈文化の国際的な繋がりを示した。北部九州と朝鮮半島南部の海人が、 共通の漁業技術を持っていたことが分かる。同図の石銛(C)は、沖ノ島でも多量に出土している。
さつき松原遺跡と沖ノ島では轟B式に次ぐ縄文時代前期後半の曽畑式土器が出土しているが、この土器は図14に示した釜山市の東三洞貝塚などからも出土している。ムナカタと沖ノ島がこの国際交流文化圏内にあることが分かる。この図中のオサンリ(鰲山里)型結合釣り針は、松江市の西川津遺跡や鳥取市の青谷上寺地(かみじち)遺跡など顕著な山陰の弥生遺跡からも出土しており、このような海人の交流が弥生時代にも引き継がれ、さらに東方へ拡散したことを示している。”
【解説】
九州海人族の活動範囲は、山陰や瀬戸内海などの日本列島内のみならず、朝鮮半島南部にも及んでいた、ということになります。これは考えてみれば当然のことです。当時の九州海人族にしてみれば、どこからどこまでがわれわれの国だ、などという認識をもっていたはずがなく、より有利な取引を求めて、近くにある朝鮮半島に出かけるのは、自然な成り行きだからです。
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矢田氏はここで、その要因を自然災害に求めてます。
”縄文時代早期の南九州にはかなり高度な文化が発達し、丘陵上などで狩猟採取生活を営んでいた。この生活環境を一変させたのは、約7300年前に起こった九州島南端と屋久島との間の海上で起こった鬼界カルデラの噴火である (図17)。その火山灰は風に運ばれて遠く韓国南部や東北地方南部にまで達した。
この噴火の時期に九州で多かった土器が轟A式で、同図に見るように主に南九州山間部中心に分布 する。これらの遺跡は鬼界アカホヤ噴火以降消滅し、これ以降九州の遺跡は北部に多くなる。植生が壊滅的打撃を受けた南九州から多くの移住者が あったと見られる。九州の土器は噴火以降轟A式から変化した轟B式が中心となり、急増した貝塚などから多く出土する。陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人が魚介類の採集に依存した生活に変わったと見られる。九州海人族の誕生である。
この頃気候が温暖化し、遠賀川中・下流域には大きな「古遠賀湾」が出現していた。多くの貝塚が、 この内陸水面に沿って形成された。図18に、そのうち縄文時代晩期まで続く主な貝塚を示した(芦屋町史などによる)。隣接する宗像市上八(こうじょう)のさつき松原海岸からも、最近轟B式土器が出土したので、この頃から同一文化圏に属していたと考えられる。”
【解説】
7300年前、鹿児島県の鬼界カルデラで、大きな噴火があり、九州南部は壊滅的な被害を受けました。鬼界カルデラの噴火については、以前もお話しました。

矢田氏は、この噴火により陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人々が海人族になった、としてますが、はたしてどうでしょうか?
確かにそのような人々もいたかもれません。しかしながら九州海人族の起源は、もっと時代をさかのぼるのではないでしょうか?。
これまでに何回か紹介した小田静夫氏の「新・海上の道」によれば、
”旧石器時代の石斧の分布などから、日本人の祖先は、3~4万年前に東南アジア島嶼部から黒潮に乗って、琉球諸島、本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した。そしてその後も本土内と神津島他との交易は継続して活発に行われた。”
とされてます。
”日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②”
つまり3~4万年前から、日本人の祖先は海洋性民族として日本列島近海を生活の場としてきたのであり、各地との交易を担った海人族がいた、ということです。
この流れからすれば、九州海人族はその末裔である、と考えるほうが自然でしょう。
<新・海上の道>

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>
”轟B式土器の影響は、九州を出てさらに山陰から山を越えて瀬戸内地方へ、また海を渡って朝鮮半島南部へ到達する。地理的に見て、北部九州の海人族がこの文化伝播に関与したと考えられる。
図19に、縄文時代の漁撈文化の国際的な繋がりを示した。北部九州と朝鮮半島南部の海人が、 共通の漁業技術を持っていたことが分かる。同図の石銛(C)は、沖ノ島でも多量に出土している。
さつき松原遺跡と沖ノ島では轟B式に次ぐ縄文時代前期後半の曽畑式土器が出土しているが、この土器は図14に示した釜山市の東三洞貝塚などからも出土している。ムナカタと沖ノ島がこの国際交流文化圏内にあることが分かる。この図中のオサンリ(鰲山里)型結合釣り針は、松江市の西川津遺跡や鳥取市の青谷上寺地(かみじち)遺跡など顕著な山陰の弥生遺跡からも出土しており、このような海人の交流が弥生時代にも引き継がれ、さらに東方へ拡散したことを示している。”
【解説】
九州海人族の活動範囲は、山陰や瀬戸内海などの日本列島内のみならず、朝鮮半島南部にも及んでいた、ということになります。これは考えてみれば当然のことです。当時の九州海人族にしてみれば、どこからどこまでがわれわれの国だ、などという認識をもっていたはずがなく、より有利な取引を求めて、近くにある朝鮮半島に出かけるのは、自然な成り行きだからです。


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