宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(3)~古事記の誓約(うけい)神話
前回は、日本書紀の描く誓約神話を読み解きました。今回は、古事記の描く誓約神話をみてみましょう。
まず話の概要です。
”アマテラスがスサノオに対して、
「本当に心が清らかなことを、どうしたら知ることができるのか?」
という問いに対して、スサノオが次のように答えます。
「それでは二人が、それぞれ、神に誓いを立ててうけいをすることにしましょう。二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか、神意を判断することにしたらどうでしょうか。」
そして五男神三女神が生まれます。そのプロセスは日本書紀と同じで、アマテラスがスサノオの十握剣を貰い受け三女神が生まれ、スサノオがアマテラスの玉飾りを貰い受け五男神が生まれます。
アマテラスが次のように言います。
「あとから生まれた五人の男の子たちは、私の持物によって生まれた。したがってこの五人は、しぜん、私の子ということになる。先に生まれた三人の女の子は、お前の持物によって生まれた。したがってこの三人は、しぜん、おまえの子ということになる。」
これに対してスサノオは、
「それごらんなさい。私の心は清らかでなんの異心も隠していなかった。それゆえ、私の生んだ子供は心のやさしい女の子だったじゃありませんか。うけいをしてみたらこういう結果になったのだから、この勝負は私の勝ちですね。」
と勝ちを宣言します。”(「古事記」(福永武彦訳)参照)
では論文をみてみましょう。
”一方『古事記』に記される「ウケイ」神話は、神代紀の各書とはかなり異なる点がある。特に事前の清心条件提示がない点が不審である。これでは「ウケイ」を行う意義がはっきりしない。そして事後に「手弱女(たおやめ)を得た」と喜び、勝ちを宣言する。表1に示すように、神代紀の各書では全て事前にスサノオが男子を生めば勝ちという提案がなされていて、その結果その長子の名に正哉吾勝勝速日という長い尊称が附く。これは第六段の第三の一書に明記されているように、男子を産んだスサノオの勝ち名乗りである。『古事記』ではスサノオが女神を得たにもかかわらず男神にこの勝ち名乗りの尊称を附けたのは、全く意味をなさない。”
【解説】
誓約の勝敗についてです。日本書紀には、「どうなったら勝ちか」が事前に決められてます。具体的には、スサノオが男子を生めば勝ち、という取り決めです。結果としてスサノオが男子を生んでますから、勝敗についてはスサノオの勝ちということですっきりします。
一方、古事記にはその条件が事前に明確に決められてません。つまり勝敗がはっきりとは決められないはずなのですが、なぜか事後に「手弱女(たおやめ)」を得たとして、一方的に勝利を宣言します。
ここで「手弱女」とは、”たおやかな女性。なよなよと優美な女性。”(デジタル大辞泉)。ここでは三女神のことです。その三女神をスサノオが得たことで勝利宣言したわけです。
整理すると、日本書紀では、事前の取り決めとしては、「スサノオが男の子を生んだら勝ち」でした。
日本書紀で生んだ子供は
・アマテラス 三女神
・スサノオ 五男神
でした。
日本書紀の場合、事前の取りきめが「スサノオが男の子を生んだらスサノオの勝ち」でしたから、スサノオが勝ちとなりました。これは明確ですね。
そして、ここがややこしいところですが、子の所属としては
・アマテラス 五男神
・スサノオ 三女神
である、とされてます。
一方古事記の場合、どちらが生んだ子供なのかがあいまいな表現となってます。
ところが、スサノオは、
「私の得た子は、女の子だった。だから私の勝ちだ。」
と一方的に勝利を宣言したのです。
この表記は原文では、
「我心清明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」
です。
「我所生子、得手弱女」の訳が微妙ですが、訳文どおり「私が生んだ子供は心の優しい女の子だった」とするのが自然でしょう。
ところで事前の取り決めは何だったでしょうか。
「二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか」
でした。
スサノオの理屈としては、
私の生んだ子が女の子
→女の子は清い子
→だから私の生んだ子供は清い子
→私の勝ち
というものになります。
後出しジャンケンのようなずいぶん勝手な理屈のようにも聞こえますが、これに対してアマテラスが何も文句を言っていないところをみると、古代においてはこのような論理が通用したともいえます。
またこのように考えると、「事前の清心条件提示があった」といえなくもありません。
ただいずれにしても、矢田氏のいうとおり、
”長子の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に、私が勝ったという意味である正哉吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひ)という尊称をつけたのは、意味不明である。”
であることは確かです。
このように誓約神話に関しては、古事記・日本書紀で話がかなり異なったものになってます。これはおそらく元となった話の成立年代がかなり古く、その後さまざまに伝承されるなかで次第に変遷していった、ということでしょう。
逆にいえば、巷でよくいわれる「古事記・日本書紀は、編纂時(8世紀)の官吏が創作した話だ。」という説も成立しがたい、ということになります。なぜなら創作であれば、ここまで多くのバージョンの物語を創作する必要もなかったわけですから・・・。
それにしても矢田氏は、古事記・日本書紀の複雑な話を、表1のようにきれいに整理したうえで、たいへん鋭い分析をしてます。いかにも理工系の学者らしいですね。
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まず話の概要です。
”アマテラスがスサノオに対して、
「本当に心が清らかなことを、どうしたら知ることができるのか?」
という問いに対して、スサノオが次のように答えます。
「それでは二人が、それぞれ、神に誓いを立ててうけいをすることにしましょう。二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか、神意を判断することにしたらどうでしょうか。」
そして五男神三女神が生まれます。そのプロセスは日本書紀と同じで、アマテラスがスサノオの十握剣を貰い受け三女神が生まれ、スサノオがアマテラスの玉飾りを貰い受け五男神が生まれます。
アマテラスが次のように言います。
「あとから生まれた五人の男の子たちは、私の持物によって生まれた。したがってこの五人は、しぜん、私の子ということになる。先に生まれた三人の女の子は、お前の持物によって生まれた。したがってこの三人は、しぜん、おまえの子ということになる。」
これに対してスサノオは、
「それごらんなさい。私の心は清らかでなんの異心も隠していなかった。それゆえ、私の生んだ子供は心のやさしい女の子だったじゃありませんか。うけいをしてみたらこういう結果になったのだから、この勝負は私の勝ちですね。」
と勝ちを宣言します。”(「古事記」(福永武彦訳)参照)

では論文をみてみましょう。
”一方『古事記』に記される「ウケイ」神話は、神代紀の各書とはかなり異なる点がある。特に事前の清心条件提示がない点が不審である。これでは「ウケイ」を行う意義がはっきりしない。そして事後に「手弱女(たおやめ)を得た」と喜び、勝ちを宣言する。表1に示すように、神代紀の各書では全て事前にスサノオが男子を生めば勝ちという提案がなされていて、その結果その長子の名に正哉吾勝勝速日という長い尊称が附く。これは第六段の第三の一書に明記されているように、男子を産んだスサノオの勝ち名乗りである。『古事記』ではスサノオが女神を得たにもかかわらず男神にこの勝ち名乗りの尊称を附けたのは、全く意味をなさない。”
【解説】
誓約の勝敗についてです。日本書紀には、「どうなったら勝ちか」が事前に決められてます。具体的には、スサノオが男子を生めば勝ち、という取り決めです。結果としてスサノオが男子を生んでますから、勝敗についてはスサノオの勝ちということですっきりします。
一方、古事記にはその条件が事前に明確に決められてません。つまり勝敗がはっきりとは決められないはずなのですが、なぜか事後に「手弱女(たおやめ)」を得たとして、一方的に勝利を宣言します。
ここで「手弱女」とは、”たおやかな女性。なよなよと優美な女性。”(デジタル大辞泉)。ここでは三女神のことです。その三女神をスサノオが得たことで勝利宣言したわけです。
整理すると、日本書紀では、事前の取り決めとしては、「スサノオが男の子を生んだら勝ち」でした。
日本書紀で生んだ子供は
・アマテラス 三女神
・スサノオ 五男神
でした。
日本書紀の場合、事前の取りきめが「スサノオが男の子を生んだらスサノオの勝ち」でしたから、スサノオが勝ちとなりました。これは明確ですね。
そして、ここがややこしいところですが、子の所属としては
・アマテラス 五男神
・スサノオ 三女神
である、とされてます。
一方古事記の場合、どちらが生んだ子供なのかがあいまいな表現となってます。
ところが、スサノオは、
「私の得た子は、女の子だった。だから私の勝ちだ。」
と一方的に勝利を宣言したのです。
この表記は原文では、
「我心清明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」
です。
「我所生子、得手弱女」の訳が微妙ですが、訳文どおり「私が生んだ子供は心の優しい女の子だった」とするのが自然でしょう。
ところで事前の取り決めは何だったでしょうか。
「二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか」
でした。
スサノオの理屈としては、
私の生んだ子が女の子
→女の子は清い子
→だから私の生んだ子供は清い子
→私の勝ち
というものになります。
後出しジャンケンのようなずいぶん勝手な理屈のようにも聞こえますが、これに対してアマテラスが何も文句を言っていないところをみると、古代においてはこのような論理が通用したともいえます。
またこのように考えると、「事前の清心条件提示があった」といえなくもありません。
ただいずれにしても、矢田氏のいうとおり、
”長子の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に、私が勝ったという意味である正哉吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひ)という尊称をつけたのは、意味不明である。”
であることは確かです。
このように誓約神話に関しては、古事記・日本書紀で話がかなり異なったものになってます。これはおそらく元となった話の成立年代がかなり古く、その後さまざまに伝承されるなかで次第に変遷していった、ということでしょう。
逆にいえば、巷でよくいわれる「古事記・日本書紀は、編纂時(8世紀)の官吏が創作した話だ。」という説も成立しがたい、ということになります。なぜなら創作であれば、ここまで多くのバージョンの物語を創作する必要もなかったわけですから・・・。
それにしても矢田氏は、古事記・日本書紀の複雑な話を、表1のようにきれいに整理したうえで、たいへん鋭い分析をしてます。いかにも理工系の学者らしいですね。

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