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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(5)~タゴリ

次にタゴリをみてみましょう。表記としては、田心姫、田霧(タギリ)姫、多紀理(タキリ)毘賣などいくつかあります。

タゴリは、神話や祭神の分布から、出雲の神である大国主命と親和性が強い、としてます。古事記、日本書紀、先代旧事本紀、播磨国風土記の話から、大国主命との間にアジスキタカヒネノミコトとシタテルヒメの二人の子をもうけたとされてます。

”第一報で見たように、全国でタゴリを単独で祭る神社は151社で、栃木県の61社以外は少なく、北部九州には16社しかない。旧郡単位で見ると、2社が祭るのは、宗像と豊前の下毛、豊後の西国東のみである。なお以下神社の祭神は、断らない限り前2報と同じく神社本庁の『全国神社祭祀祭礼総合調査 (平成七年)』(以下『平成データ』)による。イチキシマを単独で祭る神社が多い遠賀郡には、 全くない。
前報に述べたように、宗像市東郷の矢房神社がオオアナムチとタゴリを祭る(注5)。そのわずか200m西に、宗像市内最大の前方後円墳東郷(とうごう)高塚(たかつか)古墳(全長64m)が、沖ノ島祭祀開始とほぼ同時期の4世紀第三4半期に築かれる。弥生時代中期の日本最多級の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡も、西500mの距離にある。その遺跡の範囲内には、もとスサノオと オオアナムチを祭る示現(じげん)神社があった(現在は南西400mに移動している)。”
”(注5)現在はアマテラスを第一にオオアナムチ、タコリの順となっているが、宝暦一〇年(1760)の置き札によると、アマテラスの名はなく田心姫命・大己貴命の順となっている。三女神筆頭のタコリがここ古代宗像族の原点と思われる東郷-田熊地区の中心にある神社の主神となっているのは、重要な事実と考えられる。”

【解説】
タゴリを祭る神社分布の特徴です。イチキシマと異なり全国的にみて数が少ないのですが、興味深いのは遠賀郡です。遠賀郡にはイチキシマを単独で祭る神社が多いのに対して、タゴリを祭る神社はひとつもありません。このことから、遠賀地方とは信仰圏が異なるといえます。
一方タゴリ信仰が強いのは、宗像・豊前の下毛・豊後の西国東あたりです。東北九州地域一帯なのですが、遠賀地方が異なるのは目立ちますね。

<図1>
ムナカタ神社位置


東郷と田熊の北辺を流れる釣川の支流八並川の谷には、オオアナムチとアジスキおよびシタテルの上記父子三神を祭る的原神社が3社もある。このように現在も宗像市の中心部である八並川の谷とその釣川への合流部は、宗像での出雲勢力の橋頭堡であったと思われる。
タゴリを単独で祭るムナカタのもう一つの神社は、福津市津屋崎古墳群中の奴山生家(ゆくえ)の生家大塚古墳(5世紀後半、現状全長73 m)に隣接する大都加(大塚)神社である。この神社はその名からこの古墳の被葬者を祭った神社と思われる。祭神は上記のオオアナムチ・タゴリ・アジスキと、阿田賀田須命・宗像君阿鳥主命・宗像君徳善主命・宗像君鳥丸主命・宗像朝臣秋足主命・難波安良女命である (注6)。『新撰姓氏録』には右京の宗形朝臣と河内国の宗形君がいずれも「吾田片隅命之後也」と 書かれる。一方大和国の「和仁古」の欄阿太賀田須命が大国主六世孫と書かれるので、上記阿田賀田須命はオオアナムチ直系の子孫であることがわかる(阿田賀田須命・吾田片隅命・阿太賀田須命は同一神)。
(注6)『宗像郡誌』は、この神社の祭神を江戸期の史料も含め考察して不詳としている。それが『平成データ』になって上記祭神が明記されたいきさつについては、さらに詳細な調査が必要である。”

【解説】
宗像市の中心部が宗像での出雲での橋頭堡(上陸や渡河をする部隊を守り、また攻撃の足場とする、上陸地点や対岸の拠点)であった、という推定です。当時は海上ルート中心でしたから、出雲勢力が宗像で勢力を張るにはちょうどよかったということでしょう。
ここで阿田賀田須命(アタノカタスミ)という名が出てきます。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である和邇(わに)氏の祖ともいわれます。この阿田賀田須命が、オオナムチの直系である、すなわち出雲の流れを汲んでいる、というのです。ここで宗像、出雲、大和の関係が出てきました。

”その後裔である宗形(胸肩・宗像)君を冠する大都加神社の祭神のうち、徳善は天武天皇に嫁して高市皇子(たけちのみこ)を生んだ尼子郎女(あまこのいらつめ)の父として『日本書紀』に名を残す。また鳥丸と秋足はそれぞれいずれも 宗像郡大領で『続日本紀』に出る宗形朝臣鳥麻呂と『類聚国史』に出る宗形朝臣秋足であることは間違いない(詳細は『宗像市史』史料編第1巻参照)。難波安良女も『類聚国史』に秋足の妻で貞節を賞された難波部安良女と対応する。これらは天平元年(729)から天長5年(828)の間に正史に名を残している人々である。
このように、
古代の宗像郡を支配していた宗像君一族の人たちは、実際にオオアナムチとタゴリの血を引く人たちと考えられていたことが分かる。タゴリが「ウケイ」で生まれた三女神の筆頭となっているのは、このためであろう。”

【解説】
いろいろ名前が出てきて、頭の中がこんがらがってきますね。宗像君はオオナムチとその妻タゴリの血を引いている出雲系です。宗像君徳善の娘が天武天皇の嫁になり、高市皇子(たけちのみこ)を生みました。天武天皇は、壬申の乱(672年)で兄の天智天皇の息子大友皇子(おおとものみこ)を破り、天皇の座についた当時の最高権力者です。宗像君徳善は、天武天皇の義理の父にあたるわけですから、その権力たるやさぞかし絶大であったことでしょう。こうしたことから矢田氏は、タゴリが三女神の筆頭になっているのだ、と推測してるわけです。
三女神の中でもっとも古い神はイチキシマであったにもかかわらず、なぜタゴリが筆頭となっているのか、その疑問がこれで説明できるというわけです。

”一方出雲にもタゴリが大事に祭られている。杵築神社(出雲大社)の境内摂社神魂(かむたまの)御子(みこ)神社は、延喜式の時代には独立社であった。この摂社は現在筑紫社と呼ばれ、出雲大社の瑞垣内摂社で最も高い扱いを受けている。その祭神がタコリである。出雲が大陸との交流・通商に当たって最も重視していた筑紫を、宗像神のタゴリで代表させていたことになる。『日本書紀』崇神紀の60年に、天皇が出雲大神の宮の神宝を見たくて使いを遣わしたところ、出雲臣の遠祖出雲振根が筑紫に行っていて会えなかったという記事がある。出雲のトップが頻繁に筑紫(おそらくムナカタ)に赴いていたことが窺われる。

同社の海への玄関口に当たり、朝鮮半島に向かって日本海に突き出した日御碕(ひのみさき)にある日御碕神社にも、境内摂社宗像神社にタゴリのみが祭られている。『式内社調査報告』ではこの神社(延喜式では御碕(みさきの)神社)の主祭神がアマテラスとスサノオ、配祠が三女神五男神となったのはそれほど古く遡らないようであり、『出雲国風土記』に美佐伎(みさき)社と書かれた神社の祭神は、もとはこの摂社の神タコリだったのではないか。『宗像郡誌』によると、吾田片隅命はそのほかにも宗像大社ゆかりの2社に祭られていた。宗像大社背後の「宗像山」中腹の氏八幡(氏八満)社は、宗像大宮司家の祖神など大社ゆかりの神を祭る神社である。吾田片隅命はその神社帳の祭神に記され、かつての中殿(なかどん)神社の祭神であったとする。中殿は、花田勝広の調査で、5 世紀頃宗像大社附近で最初に祭祀が営まれた場所と推定されている。
現在神湊の市街地の南に鎮座する古社津加計志(つかけし)神社も、江戸期の神社史料では阿田賀田須命を祭るとされている(現在は三女神)。この神社はかつて神湊港背後の草崎半島山麓にあり、そこに辺津宮の旧祉もあった。現在でもその旧祉には頓宮が置かれている。以上のように、吾田片隅命が宗像君ばかりではなく、その後の宗像大宮司家からも祖神とされ、宗像神社の祭祀の対象になってきたことが分かる。”

【解説】
出雲とタゴリ、宗像、阿田賀田須命に、深いつながりがあるという話です。
ここで注目すべきことがあります。ひとつは杵築神社(出雲大社)の境内摂社内に、筑紫社という名の神社があることです。
もうひとつは、”『日本書紀』崇神紀の60年に、天皇が出雲大神の宮の神宝を見たくて使いを遣わしたところ、出雲臣の遠祖出雲振根が筑紫に行っていて会えなかったという記事”です。
出雲振根は出雲のトップです。そのトップが筑紫に行っていたということは、なかなかあることではないでしょう。今でもそうですが、国のトップがそうやすやすと他の国に行くことはありません。もし相手の国が格下なら、相手の国のトップに、「自分の国に来い」というでしょう。それができないなら、部下を相手国に派遣するのがふつうです。交通の便が現在よりはるかに劣る古代なら、なおさらです。
となると、次の疑問が浮かびます。
「筑紫は出雲より格上だったのではいか?」
です。
矢田氏は、筑紫とはムナカタではなかったか、と推測してます。私は筑前博多から筑後にかけてにあった九州王朝ではなかったか、と推測しますが、これはまた別の機会にお話したいと思います。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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