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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(6)~宗像君の祖先はいつ頃ムナカタに来たか

前回は、三女神の一人であるタゴリについて、出雲との関連が深い、という話でした。その論拠として挙げられている人のなかに、阿田賀田須(あたのかたすみ)命がいました。今回はその阿田賀田須(あたのかたすみ)命についてです。

ここまで矢田氏は、神名などの統計データを整理したうえ、見事なくらいの素晴らしい分析をしてきたのですが、今回あたりから、私の見解とは異なる部分が多くなってきます。それはさておき論文を読んでいきましょう。

”宗像君の祖と考えられる阿田賀田須命は、いつ頃ムナカタに来たのだろうか。これを推測できる説話が、『日本書紀』崇神紀にある。
崇神天皇の 6 年国内に災害等の凶事が多発しその理由を占ったところ、大物主が崇神の夢に出て我が子大田田根子(おおたたねこ)に大和の三輪山で祭らせるよう言った。そこで大田田根子を探し求め、和泉の陶邑(すえむら)で見つけて大物主を祭らせ、さらに他の国内諸神を祭らせてようやく国内が落ち着いたとある。
『先代舊事本紀』によれば、大田田根子はスサノオの九世の孫(同時にオオアナムチの八世の孫)で、出雲族の本流を継いでいる。その先代となるスサノオ八世の孫は阿田賀田須命である。ところで『舊事本紀』および三輪氏に伝承されていた系図によると、阿田賀田須命は大田田根子の父ではない。大田田根子の父は、阿田賀田須命の弟の健飯加田須命(たけいかたすのみこと)となっている。古系譜では一般に長子が各世の「孫」になっているので、これはきわめて珍しい例である。
『日本書紀』と『舊事本紀』によれば、天皇家は神武以来安寧天皇まで三代に亘って出雲本宗家直系の孫の妹を皇妃にし、第四代の懿徳(いとく)天皇も出雲直系の天日方奇日方命の妹が生んでいる。物部氏が外戚として王権内で勢威を恣にする以前には、出雲氏がヤマトで強い勢力を持っていたことは間違いない。
阿田賀田須命の母の名が 大 倭 国(おおやまとのくに)民磯姫であるので、このときまでは出雲本宗家直系の子孫がヤマトにいたのであろう。それなのになぜ阿田賀田須命の子孫がスサノオの系譜に書かれず、甥の大田田根子が九世の孫と書かれているのか。”


【解説】
日本書紀にある有名な話です。大物主の子大田田根子(おおたたねこ、古事記では意富多多泥古命)が出てきます。
大田田根子は夫なくしてはらんだ玉依姫(たまよりひめ)の子ですが,その異常な誕生のいきさつを語った説話が三輪山伝説です。三輪山伝説とは、
古事記に見える伝説で、活玉依姫(いくたまよりびめ)のもとに、貴公子が夜な夜な訪れ姫は身ごもる。両親は男の素性を怪しみ、姫に男の衣の裾に糸をつけた針を刺させる。翌朝糸をたどると三輪山に至り、男が三輪山の神であったと知るもの。” (大辞林第三版)
三輪山の神は大物主とされるので、大田田根子は大物主の子というわけです。三輪氏賀茂氏の祖ともいわれます。

ただし、このあたりの系図は、古事記・日本書紀・舊事本紀では、大きく異なります。そもそも古事記・日本書紀には、阿田賀田須命は登場しません。各系図をまとめます。

阿田賀田須命系図  


"その理由は、阿田賀田須命が畿内から退去したためではないか。さらに想像すれば、大和王権は隠然とした勢力を持ち続けている出雲系氏族の力を削ぐために、本宗家の一族を地方へ追いやったのではないか。大田田根子の所在が分からず和泉でやっと探し出したのも、それで理解できる。これに対する出雲系の人々の不満の表面化とその解決が、この説話群の意味ではないのか。
崇神の在位時期については定説がないが、第 16 代の応神天皇が5世紀初めまで在位したことはほぼ確かなので、第 10 代の崇神は逆算して 3 世紀後葉から 4 世紀初頭に在位したと考える人が多いようである。そうすると、阿田賀田須命がムナカタに来たのはその頃になる。阿田賀田須命を祭る神社は、全国で大都加神社の他には天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社のみであるので(赤阪比古とは阿田賀田須命のこととされる)、阿田賀田須命はヤマトからまっすぐムナカタに来た可能性が強い(注 8)。ちなみに和爾坐赤阪比古神社には阿田賀田須命の他にイチキシマが祭られており、ここにもムナカタとの繋がりが窺われる。”


【解説】
”なぜ阿田賀田須命の子孫がスサノオの系譜に書かれず、甥の大田田根子が九世の孫と書かれているのか。”という謎に対して
"阿田賀田須命が畿内から退去したためではないか。それは隠然とした勢力を持ち続けている出雲系氏族の力を削ぐために、大和王権が本宗家の一族を地方へ追いやるためではないか。”
という大胆な推察をしてます。
もしそうであるなら、出雲系の人々の不満はさぞかし大きなものであったことでしょう。”その不満の表面化と解決がこの説話郡の意味ではないか”、というまことに大胆な仮説です。
はたしてこの大胆な仮説が正しいのかどうかは、何ともいえません。
まず阿田賀田須命が畿内から退去した、とありますが、その証拠はどこにもありません。阿田賀田須命を祭る神社が全国で大都加神社の他には天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社のみであることから、宗像地方と大和地方に深いつながりがあることは推測できますが、だからといって、阿田賀田須命がもともと大和にいて宗像に行ったのだ、ということは断定できません。

実は阿田賀田須命を祭る神社は、他にもあります。
福岡市博多区 櫛田神社摂社石堂神社「吾田片隅命」
福岡県宗像町玄海町 宗像大社摂社津加計志神社「阿田賀田須命」、氏八幡神社摂社「吾田片隅命」
愛知県春日井市 両社宮神社「阿田賀田須命」、朝宮神社「阿太賀田須命」、天神社「吾田片隅命」、和爾良神社「阿太賀田須命」

http://kamnavi.jp/as/yamanobe/waniaka.htmより

このうち愛知県春日井市の神社については、論文註で”ヤマトで和邇(和仁)氏が成立した後下向した祖先を祭ったものであろう。”としてます。これを除いても、阿田賀田須命を祭る神社の数は、九州北部が最も多いことになります。となると、阿田賀田須命のもともとの本拠地は、九州北部だったのではないか、という推測もできます。
もちろん阿田賀田須命が宗像にやってきてから、神社で多く祭られるようになったのだ、という考えもできますが、何ともいえません。

ちなみに天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社は、横穴式古墳の上に立っているともいわれてます。横穴式古墳(石室)は4世紀後半頃から九州北部で築造されますが、東に伝わったのは5世紀以降、本格的には6世紀です。そうすると、この神社の創建は早くても5世紀から6世紀以降ということになります。

一方、冒頭に出てきた崇神天皇は、3世紀頃の人です。時代が全く合いません。この説話が史実であるなら、和爾坐赤阪比古神社は、言い伝えを基に後年作られた可能性がありますね。

阿田賀田須命は和邇(和仁、ワニ)氏の祖とされてます。
”ワニ氏は海人族であり、出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある”(山尾1983 P133、Wikipediaより)
とありますから、ワニ氏は九州北部からやってきた海人族だった可能性があります。

宗像族は縄文以来の海人族ですから、ワニ氏はその一派だったのでしょう。このことからも、阿田賀田須命が畿内にいたのか、それとも北部九州にいたのかは別として、もともとの本拠地は北部九州であった可能性が高いといえるのではないでしょうか?。
その阿田賀田須命の甥の大田田根子に三輪山で大物主を祭らせたという話は、出雲とともに北部九州勢力が畿内でもいかに大きな力を持っていたかを示しているといえますね。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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