宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(7)~阿田賀田須命はなぜムナカタに来たか
前回は、「宗像氏の祖である阿田賀田須命がムナカタにやってきた時期」についてでした。論文では、阿田賀田須命が大和からやってきた、と推測してます。
論文はさらに、「なぜ阿田賀田須命はムナカタにやってきたのか?」という視点で進めてます。
前回矢田氏は、阿田賀田須命が大和を去った理由として、大和で力をもっていた出雲勢力の力を削ぐためだった、と推察してます。前回系図のとおり、阿田賀田須命は出雲系です。古事記によれば、甥の大田田根子は大物主の子とされてます。その出雲系である阿田賀田須命をムナカタへ追いやった、というわけです。
ここで疑問が浮かぶわけです。
「なぜ阿田賀田須命は出雲ではなく、ムナカタに行ったのか?」
です。
矢田氏はその理由を、「出雲とムナカタの強いつながり」があったからだ、述べてます。
論文では、出雲とムナカタの古来からの強いつながりを表すものとして、いくつか挙げてます。
”津屋崎港の背後に、在自(あらじ)という変わった地名がある。
「アラ」は、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)(安耶(あや)国・阿那(あな)加耶などとも書かれる)から来ているのではないかと思われる)。阿羅は倭国とのつながりが深く、『日本書紀』にしばしば登場する「任那(みまな)日本府」も阿羅に置かれていたと考える人が多い。従って阿羅からは古くから多くの渡来人が来日している。出雲の主神オオアナムチも、大きい「アナ」の貴(むち=貴人)の意味とされ、これを直訳したのが大国主と考えられている。「ナ」には国の意味があるからである。津屋崎港は、阿羅からの渡来人の上陸が多かった港だったのではないか。
実際に津屋崎には、オオアナムチを祭る神社が多い。津屋崎地区に20社ある神社のうち、6社がオオアナムチを祭る。『宗像郡誌』によると、かつては9社が同神を祭っていた。”
【解説】
まずは地名からです。津屋崎港付近の在自(あらじ)が、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)からきている、としてます。オオアナムチのアナも「阿羅」からきている、という面白い説です。ただし、
・「オオ」は「大」
・「ナ」は「土地」
・「ムチ」は「高貴な人」
とされ、
「大きな土地に住む高貴な人」
と解されるのが、一般的です。
オオナムチは明らかに「スクナヒコナ」とセットになっています。
スクナヒコナとは、
”『古事記』によれば、スクナビコナは大国主神の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、カミムスヒの命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。”()Wikipediaより)
オオナムチと名前を比較すると、
・オオナムチ ・・「大」「ナ」
・スクナヒコナ・・「少」「ナ」
という対になってます。
神世七代あたりを読むと神様が皆、対でセットになってます。
以上のとおり、大穴牟遅神、大己貴命は、「オオナムチ」と呼ぶのが妥当と考えられます。
さて、多くの考古学的証拠も、古くからのムナカタと出雲の繋がりを示してます。いくつか挙げてます。
・土笛
”弥生時代前期後半から中期はじめにかけての日本海沿岸の遺跡から出土する。中国の戦国時代の書物に記述があることから中国起源の祭祀用楽器と考えられ、陶塤(とうけん)という難しい名前が付いている。
現在全国26の遺跡で合計111個見つかっている。分布の中心は図2に示すように出雲地方で、松江市内の西川津とタテチョウの二遺跡から併せて38個も出土している。ムナカタが出土の最西端で、宗像市の光岡長尾(みつおかながお)遺跡と福津市の香葉(かば)遺跡で完形のものが出土している。大陸との繋がりから、ムナカタに 上陸しそこから東に伝播したことが明らかである。陶塤を用いた祭祀も、同時に伝わったであろう。”
<光岡長尾遺跡から出土した土笛>
(宗像市HP「時間旅行ムナカタ第14回 弥生のメロディー 土笛」より)
<図2>
【解説】
以前お話した土笛、陶塤(とうけん)です。注目は、ムナカタが出土の最西端と点です。中国から伝わっているのですから、九州北部全域から出土してもよさそうなものですが、そうなっていません。ということは、ムナカタはムナカタ以西とは文化が違うということになります。具体的には、博多湾岸以西とは異なる文化圏だった、ということです。この点はまた取り上げます。
・独特の墓葬形式
”より古い証拠としては、宗像市の弥生早期から前期にまたがる田久松ヶ浦(たくまつがうら)墳墓遺跡で見出された、独特の墓葬形式がある。ここでは墓穴の中に木棺を置いたあと、棺を覆うように石の固まりを積み上げている。原俊一らは、この「松ヶ浦タイプの石槨墓」が韓国で発見されているこの時期の石槨墓(棺の周りを石で囲った墓)とよく似ていると指摘し、朝鮮半島南部から直接もたらされたものと考えた。
このような「配石墓」は、山口県の響灘沿岸の武久浜、山口県の響灘沿岸の武久浜、梶栗浜、吉母浜、中ノ浜と続く弥生前期の墳墓遺跡にも見られ、さらに東進して島根県の大社町(現出雲市)原山遺跡と鹿島町(現松江市)堀部第1遺跡に現れる。特に後者では、調査された31基の墓が全てこのタイプで、遠賀川系土器が供献され、上記の陶塤も出土している。
【解説】
松ヶ浦タイプの石槨墓です。同じく朝鮮半島南部からもたらされたと考えられますが、遠賀川系土器と陶塤の分布に重なっていることから、すべて同じ文化圏であることがわかります。
・松菊里系土器
”この遺跡では朝鮮半島の松菊里系土器も見付かっていて、朝鮮半島からの渡来間もない人々が入植していたらしい。福津市の今川遺跡や田久松ヶ浦遺跡は、弥生時代早期から前期に朝鮮半島の松菊里文化の影響を直接受けた文物が出土するので、渡来人が他地域を経由することなくこれら遺跡に到達していたと考えられている。そのような渡来人の一部が、ムナカタに定住することなく出雲に向かったことが示唆される。ムナカタは、朝鮮半島からの渡来人の一時的寄留地としての役割を果たしていたらしい。その後の移動には前報で見た縄文時代以来のムナカタ海人族の広域活動で蓄積された情報が、大いに活用されていたであろう。”
【解説】
ムナカタは朝鮮半島からの渡来人が多くやってきたのでしょうが、一時的居留地だったという推測は興味深いですね。
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論文はさらに、「なぜ阿田賀田須命はムナカタにやってきたのか?」という視点で進めてます。
前回矢田氏は、阿田賀田須命が大和を去った理由として、大和で力をもっていた出雲勢力の力を削ぐためだった、と推察してます。前回系図のとおり、阿田賀田須命は出雲系です。古事記によれば、甥の大田田根子は大物主の子とされてます。その出雲系である阿田賀田須命をムナカタへ追いやった、というわけです。
ここで疑問が浮かぶわけです。
「なぜ阿田賀田須命は出雲ではなく、ムナカタに行ったのか?」
です。
矢田氏はその理由を、「出雲とムナカタの強いつながり」があったからだ、述べてます。
論文では、出雲とムナカタの古来からの強いつながりを表すものとして、いくつか挙げてます。
”津屋崎港の背後に、在自(あらじ)という変わった地名がある。
「アラ」は、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)(安耶(あや)国・阿那(あな)加耶などとも書かれる)から来ているのではないかと思われる)。阿羅は倭国とのつながりが深く、『日本書紀』にしばしば登場する「任那(みまな)日本府」も阿羅に置かれていたと考える人が多い。従って阿羅からは古くから多くの渡来人が来日している。出雲の主神オオアナムチも、大きい「アナ」の貴(むち=貴人)の意味とされ、これを直訳したのが大国主と考えられている。「ナ」には国の意味があるからである。津屋崎港は、阿羅からの渡来人の上陸が多かった港だったのではないか。
実際に津屋崎には、オオアナムチを祭る神社が多い。津屋崎地区に20社ある神社のうち、6社がオオアナムチを祭る。『宗像郡誌』によると、かつては9社が同神を祭っていた。”
【解説】
まずは地名からです。津屋崎港付近の在自(あらじ)が、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)からきている、としてます。オオアナムチのアナも「阿羅」からきている、という面白い説です。ただし、
・「オオ」は「大」
・「ナ」は「土地」
・「ムチ」は「高貴な人」
とされ、
「大きな土地に住む高貴な人」
と解されるのが、一般的です。
オオナムチは明らかに「スクナヒコナ」とセットになっています。
スクナヒコナとは、
”『古事記』によれば、スクナビコナは大国主神の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、カミムスヒの命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。”()Wikipediaより)
オオナムチと名前を比較すると、
・オオナムチ ・・「大」「ナ」
・スクナヒコナ・・「少」「ナ」
という対になってます。
神世七代あたりを読むと神様が皆、対でセットになってます。
以上のとおり、大穴牟遅神、大己貴命は、「オオナムチ」と呼ぶのが妥当と考えられます。
さて、多くの考古学的証拠も、古くからのムナカタと出雲の繋がりを示してます。いくつか挙げてます。
・土笛
”弥生時代前期後半から中期はじめにかけての日本海沿岸の遺跡から出土する。中国の戦国時代の書物に記述があることから中国起源の祭祀用楽器と考えられ、陶塤(とうけん)という難しい名前が付いている。
現在全国26の遺跡で合計111個見つかっている。分布の中心は図2に示すように出雲地方で、松江市内の西川津とタテチョウの二遺跡から併せて38個も出土している。ムナカタが出土の最西端で、宗像市の光岡長尾(みつおかながお)遺跡と福津市の香葉(かば)遺跡で完形のものが出土している。大陸との繋がりから、ムナカタに 上陸しそこから東に伝播したことが明らかである。陶塤を用いた祭祀も、同時に伝わったであろう。”
<光岡長尾遺跡から出土した土笛>

(宗像市HP「時間旅行ムナカタ第14回 弥生のメロディー 土笛」より)
<図2>

【解説】
以前お話した土笛、陶塤(とうけん)です。注目は、ムナカタが出土の最西端と点です。中国から伝わっているのですから、九州北部全域から出土してもよさそうなものですが、そうなっていません。ということは、ムナカタはムナカタ以西とは文化が違うということになります。具体的には、博多湾岸以西とは異なる文化圏だった、ということです。この点はまた取り上げます。
・独特の墓葬形式
”より古い証拠としては、宗像市の弥生早期から前期にまたがる田久松ヶ浦(たくまつがうら)墳墓遺跡で見出された、独特の墓葬形式がある。ここでは墓穴の中に木棺を置いたあと、棺を覆うように石の固まりを積み上げている。原俊一らは、この「松ヶ浦タイプの石槨墓」が韓国で発見されているこの時期の石槨墓(棺の周りを石で囲った墓)とよく似ていると指摘し、朝鮮半島南部から直接もたらされたものと考えた。
このような「配石墓」は、山口県の響灘沿岸の武久浜、山口県の響灘沿岸の武久浜、梶栗浜、吉母浜、中ノ浜と続く弥生前期の墳墓遺跡にも見られ、さらに東進して島根県の大社町(現出雲市)原山遺跡と鹿島町(現松江市)堀部第1遺跡に現れる。特に後者では、調査された31基の墓が全てこのタイプで、遠賀川系土器が供献され、上記の陶塤も出土している。
【解説】
松ヶ浦タイプの石槨墓です。同じく朝鮮半島南部からもたらされたと考えられますが、遠賀川系土器と陶塤の分布に重なっていることから、すべて同じ文化圏であることがわかります。
・松菊里系土器
”この遺跡では朝鮮半島の松菊里系土器も見付かっていて、朝鮮半島からの渡来間もない人々が入植していたらしい。福津市の今川遺跡や田久松ヶ浦遺跡は、弥生時代早期から前期に朝鮮半島の松菊里文化の影響を直接受けた文物が出土するので、渡来人が他地域を経由することなくこれら遺跡に到達していたと考えられている。そのような渡来人の一部が、ムナカタに定住することなく出雲に向かったことが示唆される。ムナカタは、朝鮮半島からの渡来人の一時的寄留地としての役割を果たしていたらしい。その後の移動には前報で見た縄文時代以来のムナカタ海人族の広域活動で蓄積された情報が、大いに活用されていたであろう。”
【解説】
ムナカタは朝鮮半島からの渡来人が多くやってきたのでしょうが、一時的居留地だったという推測は興味深いですね。
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