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宋書倭国伝を読む その1 ~ 倭の五王が中国皇帝に求めたものとは?

今回から、宋書倭国伝に移ります。時代としては、邪馬台国より後の話ですが、邪馬台国がその後どのようになっていったのかを解明するうえで、とても重要な資料です。

宋書は、中国南朝の宋(429-479)について書かれた史書で、宋、斉、梁に仕えた沈約(441-513)が、斉の武帝に命ぜられて編纂しました。
倭国伝は、そのなかの列伝第五十七 夷蛮伝のなかにあります。


倭国は、高句麗の東南の大海の中にあって、その王は代々貢物を持って来朝した。
【解説】
倭国は代々貢物をもってやってきた、とあります。当然のことながらこの倭国とは、魏志倭人伝や後漢書にある倭と同じ系統の王朝ということでしょう。
となると邪馬台国が博多湾岸にあったのならば、倭国の首都もその近辺にあったことになります。ちなみに、古田武彦氏は、邪馬台国に続く王朝を、九州王朝と名づけてます。


宋の永初二年(421年)、高祖武帝(ぶてい)は、詔していった。
倭国の王、讃(さん)は、万里の遠きより貢物をおさめている。その遠距離をもいとわぬ誠意は、高く評価してよろしい。ゆえに官職を授ける。」と。
元嘉二年(425年)、倭王讃は、太祖文帝にまた司馬の曹達(そうたつ)を使者として遣わし、上表文を奉り、倭の産物を献上してきた。
讃が死に、その弟の珍(ちん)が後を継いだ。そして使者を派遣して貢物をたてまつった。自分で使持節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)百済(ひゃくさい)新羅(しんら)任那(にんな)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称しており、珍は上奏文をたてまつって、正式にこの官職に任命されるよう求めた。そこで、安東将軍・倭国王に任命する詔を出した。
珍はまた、自分の臣下の隋ら十三人に、平西・征慮・冠軍・輔国などの将軍号を正式に授けるよう求めてきた。文帝は詔を出して、すべて許可した。
【解説】
有名な倭の五王の話が出てきます。
倭の王珍は、使持節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王という長たらしい官職名を、求めます。要は、倭のみならず、百済・新羅・任那・秦漢・慕韓合わせて六国を統治することを認めて欲しい、と要求したわけです。ちなみに、秦韓はかつての辰韓、慕韓はかつての馬韓で、この時代には併合されていました。
ところが、認められたのは、安東将軍・倭国王という官職のみ。つまり、要求は、認められなかったということです。さぞかし、がっかりしたことでしょう。


元嘉二十年(443年)、倭国王の済(せい)は、使者を派遣して貢物をたてまつった。そこでまた、安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉二十八年(451年)、倭王済に、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はもとの通りとした。ならびに上奏された二十三人を将軍や郡長官に任命した。
倭王済が死に、世嗣の興(こう)が使者を遣わして貢物をたてまつった。大明六年(462年)、世祖孝武帝(こうぶてい)は詔を下して言った。
「倭王の嗣子の興は、代々重ねてきた中国への忠節を大切にし、外垣を外海につくり、中国の感化を受けて辺境を安らかにし、うやうやしく貢物をもって来朝した。興は新たにその遠い地を治める仕事を嗣いだのだから、爵号を授けて、安東将軍・倭国王とせよ。」
興が死んで、興の弟の武が倭王となった。自分で、使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称していた。
【解説】
済も、安東将軍・倭国王に任ぜられますが、ついに使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍の官職を与えられます。まさに執念で、勝ち取った官職です。ただし、百済の代わりに、加羅となってます。つまり中国は、百済を一つの国として、認めていたということです。
済の子興に続き、弟の武が王となります。自称は、使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王であり、百済を加え、七国諸軍事と国が一つ増えてます。百済へのこだわりが、うかがえますね。

出てきた国は、下の地図のとおりです。

朝鮮半島・日本

では、倭の五王とは、具体的に誰のことでしょうか?。
次回、お話します。

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倭人伝

作者(青松光晴)様
魏志倭人伝、後漢書倭人伝、宋書倭人伝と倭人伝には3文献もあるとは知らなかったです。
知らないことが結構あるし、内容もつじつまがあっているみたいで興味深く読ませてもらってます。
まだ日本の有史まで数百年あるのでブログ楽しみにしてます。

Re: 倭人伝

ごんべいさま
いつもコメントくださりありがとうございます。はげみになります。
これまでの古代史論争の問題点のひとつとしては、魏志倭人伝など特定の資料だけを根拠に、議論していることが挙げられます。当然のことながら、そうなれば議論の視野が狭くなり、独りよがりの説を言い合うだけになってしまいます。
コメントのとおり、参考とすべきものは史書をはじめとして多々あり、それらを総合的にみていくことで、おのずと真実はみえてくると考えてます。
これからも、どんどんと取り上げていきますので、参考にしていただければ幸いです。

青松光晴 様

2015-06-30(12:46) : ごんべい  様の コメ は私 権瓶とは別の方のものです。 念のため。

私も、同様に思っています。期待しています。
史料の記事。異なると思える内容でも、整合する解釈を模索したいと考えています。
どうしても、≠ の場合は ケースにもよりますが 魏史を採りたいと思っています。
先日の邪馬台国とクナ国は"海上戦"。東夷伝の記述を採れば必然的に類似の戦い方だったと思います。

Re: 青松光晴 様

権瓶さま
ごんべいさまと同じ方と、早とちりしてしまいました。たいへん失礼いたしました。
何の資料が最も史実に近いのかを見極めるのは、とても重要ですが、難しいことでもあります。
その点、魏志倭人伝も、同様ではあります。しかしながら、魏志倭人伝は同時代資料であること、また言い伝えではなく、実際に中国人が倭国を訪問し、その報告を基に書いたと思われる点で、信ぴょう性が高いと考えられます。
倭国の生活の細部にわたり、詳細にかつ生き生きと描写されているのは、そのためと考えられます。
もちろんすべて丸のみするつもりはありませんが、他の資料との比較においては、こうしたことを認識しておくべきと、考えてます。

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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