宗像と宇佐の女神(12)~甕棺文化圏から銅矛埋納文化圏へ
矢田氏は、「邪馬台国=宇佐」として論を進めてます。
そして九州北部の埴安神の分布が、旧甕棺文化圏と重なっており、それが、後年の邪馬台国連合にほぼ特定されている国々と重なる、としてます。ところが
”甕棺葬は弥生時代後期に入ると終息に向かい、東への拡散は日田の辺りまでで止まって宇佐には届かない。”
という考古学的事実があります。これでは「邪馬台国=宇佐」説は成立しないことになります。
そこで矢田氏は、銅矛に注目します。
”甕棺葬に続く博多湾岸地域から出発する代表的な文化は、銅矛の地中埋納である。弥生時代前期に朝鮮半島から北部九州にもたらされた武器形青銅器は、列島に入ってから様々に形を変えながら西日本全体に普及した。はじめは首長層の権威の象徴として墓に副葬されていたが、次第に共同体の祭器として墓や生活遺跡と離れた場所に埋蔵されるようになった。出雲荒神谷の埋納銅剣はよく知られた例である。博多湾岸地域では銅矛が最も高位の祭器となり、その大型化が進んだ。この中広・広形銅矛を埋納する文化圏は、図 10 に示すように甕棺文化圏からさらに拡がり、東方では豊前・豊後さらに四国に到達する(この図は武末純一の図を改変しその後の出土例を附け加えて作成した)。このように奴国を出発点とする銅矛祭祀文化圏が豊前・豊後に広まったことによって、邪馬台国連合成立への道が開けた。ところがこの図で明らかなように、ムナカタを中心とする筑前東部はこの波に呑み込まれことがなかった。ムナカタのこの独自性が、のちに沖ノ島祭祀による新交易連合の拠点となることに繋がる。”
【解説】
甕棺葬は博多湾岸から日田で止まったが、銅矛埋納は豊前・豊後から海を渡り、四国まで到達しました。このようにして銅矛祭祀文化圏が邪馬台国連合へとなっていった、というストーリーです。なおムナカタがこの文化圏に入っていないことに注目です。
<図10>
”この図で、中国地方の大部分や四国中部・東部はほぼ空白地帯となっている。弥生中期後半を中心とする中広形銅矛が瀬戸内沿岸でいくつか出土するが、それに続く後期の広形銅矛は全く見られない(以下青銅器の年代観については北島大輔の整理による])。この理由は、図 11 を見れば分かる。この図は、この時代の各種青銅祭器の分布を総括して示したものである。瀬戸内沿岸には、中期後半から後期前半にかけて平形銅剣を祭器とする文化圏が成立していたため、広形銅矛が入らなかったと考えられる。一方徳島県と高知県東北部に銅矛が入らなかったのは、畿内の銅鐸祭祀とその埋納を行う文化の波及によることが読みとれる。”
【解説】
銅矛圏は、四国中部あたりで止まりますが、それは平型銅剣文化圏があったから、としてます。さらに東部の徳島県など四国東部は、銅鐸文化圏だった、と述べてます。このあたりは考古学の共通認識ですね。
★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
そして九州北部の埴安神の分布が、旧甕棺文化圏と重なっており、それが、後年の邪馬台国連合にほぼ特定されている国々と重なる、としてます。ところが
”甕棺葬は弥生時代後期に入ると終息に向かい、東への拡散は日田の辺りまでで止まって宇佐には届かない。”
という考古学的事実があります。これでは「邪馬台国=宇佐」説は成立しないことになります。
そこで矢田氏は、銅矛に注目します。
”甕棺葬に続く博多湾岸地域から出発する代表的な文化は、銅矛の地中埋納である。弥生時代前期に朝鮮半島から北部九州にもたらされた武器形青銅器は、列島に入ってから様々に形を変えながら西日本全体に普及した。はじめは首長層の権威の象徴として墓に副葬されていたが、次第に共同体の祭器として墓や生活遺跡と離れた場所に埋蔵されるようになった。出雲荒神谷の埋納銅剣はよく知られた例である。博多湾岸地域では銅矛が最も高位の祭器となり、その大型化が進んだ。この中広・広形銅矛を埋納する文化圏は、図 10 に示すように甕棺文化圏からさらに拡がり、東方では豊前・豊後さらに四国に到達する(この図は武末純一の図を改変しその後の出土例を附け加えて作成した)。このように奴国を出発点とする銅矛祭祀文化圏が豊前・豊後に広まったことによって、邪馬台国連合成立への道が開けた。ところがこの図で明らかなように、ムナカタを中心とする筑前東部はこの波に呑み込まれことがなかった。ムナカタのこの独自性が、のちに沖ノ島祭祀による新交易連合の拠点となることに繋がる。”
【解説】
甕棺葬は博多湾岸から日田で止まったが、銅矛埋納は豊前・豊後から海を渡り、四国まで到達しました。このようにして銅矛祭祀文化圏が邪馬台国連合へとなっていった、というストーリーです。なおムナカタがこの文化圏に入っていないことに注目です。
<図10>

”この図で、中国地方の大部分や四国中部・東部はほぼ空白地帯となっている。弥生中期後半を中心とする中広形銅矛が瀬戸内沿岸でいくつか出土するが、それに続く後期の広形銅矛は全く見られない(以下青銅器の年代観については北島大輔の整理による])。この理由は、図 11 を見れば分かる。この図は、この時代の各種青銅祭器の分布を総括して示したものである。瀬戸内沿岸には、中期後半から後期前半にかけて平形銅剣を祭器とする文化圏が成立していたため、広形銅矛が入らなかったと考えられる。一方徳島県と高知県東北部に銅矛が入らなかったのは、畿内の銅鐸祭祀とその埋納を行う文化の波及によることが読みとれる。”
【解説】
銅矛圏は、四国中部あたりで止まりますが、それは平型銅剣文化圏があったから、としてます。さらに東部の徳島県など四国東部は、銅鐸文化圏だった、と述べてます。このあたりは考古学の共通認識ですね。

★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村
スポンサーサイト