宗像と宇佐の女神(14)~博多湾岸から豊前・豊後にいたるルート
論文では
”帯方郡から邪馬台国への道は、銅矛文化圏とほぼ重なる。”
として、
朝鮮半島狗邪韓国の中心金海市~対馬~壱岐~糸島市~博多湾岸
に銅矛が出土しており、それが魏志倭人伝の描く道程と一致する、と述べてます。
ここまでは異存がないところです。矢田氏は、ここから豊前・豊後に行くルートを想定します。
なぜそのルートを想定したかというと、矢田氏は、「邪馬台国=宇佐」説だからです。
”博多湾岸から筑後北部にかけての埴安―銅矛文化の中心から豊前・豊後へ出るには、2つのルートが使われたようである。一つは、奴国勢力が筑豊に進出する足がかりとなった石包丁製作の立岩遺跡群(飯塚市)附近から筑豊南部を通って香春―赤村から周防灘に出る道である。8社の埴安神を祭る神社が、飯塚市から東隣の嘉麻市にかけて分布し、その東の田川郡糸田町の1社に続くが、糸田町では10本の銅矛が発見されていた。ここから英彦山川の支流御祓川の谷を赤村まで遡ると、峠らしい峠もなしに周防灘に注ぐ今川の上流に移ることができる。この「赤回廊」が古代きわめて重要視された交通路であったことは、安閑天皇2年(533)にこの回廊に沿って桑原(くわはらの)屯倉(みやけ)(田川郡大任町とされる)と我鹿屯倉(あかのみやけ)(同赤村とされる)が置かれ、周防灘側に勝碕(みさきの)屯倉(みやけ)や肝等屯倉(かとのみやけ)が置かれたことでも分かる(上記飯塚市と嘉麻市にもそれぞれ穂波屯倉(ほなみのみやけ)と鎌(かまの)屯倉(みやけ)が置かれた)。周防灘に出ると行橋市に2本の銅矛が伝世されているが、ここでは3社が埴安神を祭る。”
【解説】
博多湾岸から豊前・豊後へ出るルートです。立岩遺跡は,甕棺が43基出土し、特に10号甕棺からは前漢式銅鏡、細形銅矛、鉄剣も出土しており王墓と考えられます。ゴウホラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も出土しており、琉球との交流をうかがわせます。石包丁は、福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く流通していました(飯塚市観光HPより)。
そこから秦氏の地盤であった香春から赤村を通り、周防灘に出ます。
赤村といえば、昨年、巨大前方後円墳発見か?、と話題になりました。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートルということで、「卑弥呼の墓」ではないか、との説も出てるようです。
もっとも”現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。”(2018/03/20付 西日本新聞朝刊)とのことです。
今後の調査が待たれますね。
”一方筑後平野では朝倉市(旧甘木市)で3本、うきは市で4本の中広銅矛が出土している。ここでは埴安神を祭る神社がきわめて多く、朝倉市には38社(うち旧甘木市に22社)が残っている。図21では、周防灘沿岸に出る道筋について日田から峠を越えて山国川流域に入る道を陸行①とした。日田では中広銅矛が2本伝世されているが、それから周防灘に向かう道筋がはっきりしない。むしろ筑後川とその支流玖珠川の川筋に中広銅矛が出ていて、これから大分県側に出たように見える。これを陸行②とした。ここから近い宇佐市の安心院盆地の2カ所で9本以上の銅矛が出土しており、ここから駅舘川を下った宇佐神宮に近い法鏡寺の2カ所で計3本の広形銅矛が出土している。”
【解説】
もう一つのルートです。朝倉市から周防灘に出ます。朝倉市といえば、安本美典氏(元産業能率大学教授)が、邪馬台国説を提唱してます。
なお図21は、論文では邪馬台国までのルートを示したもので、矢田氏が、「邪馬台国=宇佐」説であるため、邪馬台国の位置が宇佐になってます。
”一方別府湾に注ぐ大野川の上中流域には13社もの埴安神を祭る神社があって、これを下った大分市内では2カ所で計6本の中広銅矛が出ている。そして大野川流域から東に山を越えた臼杵市井村では、広形銅矛7本が出土した。ここは伊予へ渡る絶好の港である。そして対岸の宇和地方では多くの銅矛が出土している。四国への進出はこの方面からがメインルートだったと思われる。
「魏志倭人伝」には「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり」とある。これは図5に見るように、邪馬台国が四国の倭人の国と文化交流があったため記されたものであろう。「倭種」と書いたのは、四国の倭人の国が邪馬台国連合に属さず魏に臣従していなかったからと考えられる。中国地方やその先の近畿地方の国への言及がないの、邪馬台国との交流がなかったためと考えられる。”
【解説】
ここから対岸の宇和地方へも広がり、ここが四国へ渡るメインルートと推定してます。
ここまではいいのですが、問題はここからです。矢田氏は「魏志倭人伝」の「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり」の「倭種の国」を伊予地方としてますが、どうでしょうか?。
実はこのあとに「又、侏儒国有りて、その南に在り。」と続きます。
私は邪馬台国を博多湾岸にあったと考えてますので、これを素直に読むと、「倭種の国」は関門海峡以東にあった国のこと、すなわち中国地方以東を指していると考えます。
そうなると侏儒国はその南になり、侏儒国は高知県南西部という私の説と合致します。
どちらが妥当かはここでは踏み込みません。ただし、魏志倭人伝では「倭種」の国と書かれており、その書き方からいって、邪馬台国連合とは一線を画す勢力の印象を与えます。そうなると、それは同じ銅矛圏の四国ではなく、銅矛圏ではない中国地方以東のほうがふさわしいと考えます。
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”帯方郡から邪馬台国への道は、銅矛文化圏とほぼ重なる。”
として、
朝鮮半島狗邪韓国の中心金海市~対馬~壱岐~糸島市~博多湾岸
に銅矛が出土しており、それが魏志倭人伝の描く道程と一致する、と述べてます。
ここまでは異存がないところです。矢田氏は、ここから豊前・豊後に行くルートを想定します。
なぜそのルートを想定したかというと、矢田氏は、「邪馬台国=宇佐」説だからです。
”博多湾岸から筑後北部にかけての埴安―銅矛文化の中心から豊前・豊後へ出るには、2つのルートが使われたようである。一つは、奴国勢力が筑豊に進出する足がかりとなった石包丁製作の立岩遺跡群(飯塚市)附近から筑豊南部を通って香春―赤村から周防灘に出る道である。8社の埴安神を祭る神社が、飯塚市から東隣の嘉麻市にかけて分布し、その東の田川郡糸田町の1社に続くが、糸田町では10本の銅矛が発見されていた。ここから英彦山川の支流御祓川の谷を赤村まで遡ると、峠らしい峠もなしに周防灘に注ぐ今川の上流に移ることができる。この「赤回廊」が古代きわめて重要視された交通路であったことは、安閑天皇2年(533)にこの回廊に沿って桑原(くわはらの)屯倉(みやけ)(田川郡大任町とされる)と我鹿屯倉(あかのみやけ)(同赤村とされる)が置かれ、周防灘側に勝碕(みさきの)屯倉(みやけ)や肝等屯倉(かとのみやけ)が置かれたことでも分かる(上記飯塚市と嘉麻市にもそれぞれ穂波屯倉(ほなみのみやけ)と鎌(かまの)屯倉(みやけ)が置かれた)。周防灘に出ると行橋市に2本の銅矛が伝世されているが、ここでは3社が埴安神を祭る。”
【解説】
博多湾岸から豊前・豊後へ出るルートです。立岩遺跡は,甕棺が43基出土し、特に10号甕棺からは前漢式銅鏡、細形銅矛、鉄剣も出土しており王墓と考えられます。ゴウホラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も出土しており、琉球との交流をうかがわせます。石包丁は、福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く流通していました(飯塚市観光HPより)。
そこから秦氏の地盤であった香春から赤村を通り、周防灘に出ます。
赤村といえば、昨年、巨大前方後円墳発見か?、と話題になりました。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートルということで、「卑弥呼の墓」ではないか、との説も出てるようです。
もっとも”現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。”(2018/03/20付 西日本新聞朝刊)とのことです。
今後の調査が待たれますね。

”一方筑後平野では朝倉市(旧甘木市)で3本、うきは市で4本の中広銅矛が出土している。ここでは埴安神を祭る神社がきわめて多く、朝倉市には38社(うち旧甘木市に22社)が残っている。図21では、周防灘沿岸に出る道筋について日田から峠を越えて山国川流域に入る道を陸行①とした。日田では中広銅矛が2本伝世されているが、それから周防灘に向かう道筋がはっきりしない。むしろ筑後川とその支流玖珠川の川筋に中広銅矛が出ていて、これから大分県側に出たように見える。これを陸行②とした。ここから近い宇佐市の安心院盆地の2カ所で9本以上の銅矛が出土しており、ここから駅舘川を下った宇佐神宮に近い法鏡寺の2カ所で計3本の広形銅矛が出土している。”
【解説】
もう一つのルートです。朝倉市から周防灘に出ます。朝倉市といえば、安本美典氏(元産業能率大学教授)が、邪馬台国説を提唱してます。
なお図21は、論文では邪馬台国までのルートを示したもので、矢田氏が、「邪馬台国=宇佐」説であるため、邪馬台国の位置が宇佐になってます。

”一方別府湾に注ぐ大野川の上中流域には13社もの埴安神を祭る神社があって、これを下った大分市内では2カ所で計6本の中広銅矛が出ている。そして大野川流域から東に山を越えた臼杵市井村では、広形銅矛7本が出土した。ここは伊予へ渡る絶好の港である。そして対岸の宇和地方では多くの銅矛が出土している。四国への進出はこの方面からがメインルートだったと思われる。
「魏志倭人伝」には「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり」とある。これは図5に見るように、邪馬台国が四国の倭人の国と文化交流があったため記されたものであろう。「倭種」と書いたのは、四国の倭人の国が邪馬台国連合に属さず魏に臣従していなかったからと考えられる。中国地方やその先の近畿地方の国への言及がないの、邪馬台国との交流がなかったためと考えられる。”
【解説】
ここから対岸の宇和地方へも広がり、ここが四国へ渡るメインルートと推定してます。
ここまではいいのですが、問題はここからです。矢田氏は「魏志倭人伝」の「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり」の「倭種の国」を伊予地方としてますが、どうでしょうか?。
実はこのあとに「又、侏儒国有りて、その南に在り。」と続きます。
私は邪馬台国を博多湾岸にあったと考えてますので、これを素直に読むと、「倭種の国」は関門海峡以東にあった国のこと、すなわち中国地方以東を指していると考えます。
そうなると侏儒国はその南になり、侏儒国は高知県南西部という私の説と合致します。
どちらが妥当かはここでは踏み込みません。ただし、魏志倭人伝では「倭種」の国と書かれており、その書き方からいって、邪馬台国連合とは一線を画す勢力の印象を与えます。そうなると、それは同じ銅矛圏の四国ではなく、銅矛圏ではない中国地方以東のほうがふさわしいと考えます。
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