宗像と宇佐の女神(17)~古鏡の時期ごとの全国分布
では統計データでみていきましょう。
”古代遺跡からの出土鏡(以下古鏡と呼ぶ)については、国立歴史民俗博物館が行った全国調査が1990年に公表され(以下『鏡データ集成』)、さらに2002年にその補遺が発行されている(以下『補遺1』)。
この調査で収録された古鏡は、『補遺1』を含め5025面である。
弥生時代の区分は、集成者の指定により近畿地方の土器形式変化を基準としている。一般の表示では、
Ⅰ期が前期
Ⅱ~Ⅳ期が中期
Ⅴ期と庄内式並行期(近畿地方で庄内式と呼ぶ土器が作られている時期)が後期
に、それぞれほぼ相当する。このような時代区分を指定しているためか、特に弥生時代には時期をⅢ-Ⅳのように範囲で示している場合が多い。ここでは整理の都合上その範囲のうち早い方の時期で分類した。
鏡の総数は、福岡県が最も多く675 面、以下奈良県438 面、京都府273 面、大阪府266 面、兵庫県
259 面の近畿四県が続く。”
【解説】
総数5025面のうち、福岡県が675面と最も多く、全体の13%を占めます。以下、近畿四県が続きます。時代別にみてみましょう。
”弥生時代には福岡県とその他の九州北部諸県が断然多く、他の地方では非常に少ない。これが古墳時代に入ると近畿地方に急増し、福岡県と肩を並べる。弥生時代は1面しか出ていない奈良県では、特に増加が急激である。
これを素直に解釈すると、鏡を珍重する人々が福岡県から奈良県を中心とする近畿方面に移動した、と見ることができよう。その移動は、弥生時代と古墳時代前期との間に起こっていることが分かる。”
【解説】
鏡を珍重する人々とは、祭祀として使用した人々ということでしょうが、彼らが福岡県から奈良を中心とする近畿地方に移動した、そしてその時期は、弥生時代と古墳時代前期の間に起こっている、というわけです。
弥生時代と古墳時代前期の間とは判然としませんが、だいたい2世紀前半頃でしょうか。
2世紀ころの日本列島は、激動の時代でした。
国が乱れ治まらず、卑弥呼を立てて倭国が統一されました。女王となった卑弥呼は、中国の魏に使節団を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印はじめ多くの宝物をもらいます。そのなかに銅鏡百枚があります。時に238年から240年にかけてのことです。
”弥生時代に多かった北部九州三県をより細かく地域別に見たのが図15 である(時期が明示されて
いる鏡のみ)。
Ⅱ期の少数の鏡(上述の多鈕細文鏡)を除くと、Ⅲ期に筑前西部に突然多量の出土が始まり、V期にまた急増する。このあと見るように、これは特定の「王墓」に多数の鏡が集中したためである。ところがⅤ期になると筑前東部・豊前(福岡県内)・佐賀県南部などの出土が増える。そして図15 で見るように、少数ながら西日本を中心に関東・北陸にまで分布が広がる。なかでも、愛媛県・広島県・大阪府の出土が目立ち、瀬戸内海が他地方への流出の主ルートになっていることがわかる。なおⅣ期の愛媛県の二例と埼玉県の一例を除き、北部九州以外の出土はすべてV期以降である。
以上のようなデータを素直に解釈すると、弥生時代中期はじめに鏡を愛好する人々が筑前西部に現れ、九州島内でその嗜好を東方や南方に広め、弥生時代の終わり頃瀬戸内を東進し古墳時代初めまでに「畿内」に入り、そこからさらに全国にその嗜好を拡散させた、という図式が見える。”
【解説】
図15でわかるとおり、筑前西部に始まり、筑前東部・豊前(福岡県東部)・佐賀県南部へと広がり、そこから愛媛~広島~大阪へと広がります。
これが、人々の移動と一致する、というわけです。
これをもって、邪馬台国の東遷、つまり北部九州にあった邪馬台国が畿内に移動した、それが纏向遺跡だ、とする説の論拠とする方もいます。
しかしながら話はそう簡単ではありません。
次の図は、古鏡出土地を府県別・時代別にグラフ化したものです。
まず弥生時代中期は福岡県が圧倒的に多く、後期にピークを迎えます。古墳時代前期に入り、奈良県・大阪府が突如として激増します。
これが、福岡県にあった邪馬台国が畿内に移動した証左だ、というわけです。
ところがよくみると、奈良県・大阪府は、古墳時代中期になると激減してます。一方、福岡県は古墳時代前期に入り減ってはいますが、激減とまではいえず、古墳時代中期になると、むしろ増えています。
また畿内勢力に大きく影響を及ぼしたとみられる吉備地方(岡山県)は、逆に古墳時代中期がピークです。
もし邪馬台国が福岡県から奈良県に東遷したのなら、福岡県はもぬけの殻になり、鏡の出土も古墳時代中期には激減するはずですが、そうはなっていません。
岡山県が、古墳時代中期にピークとなるのも、不思議です。
もちろんこのデータは、現時点での出土数であり、今後の出土状況により変化はするでしょうが、結果に影響を及ぼすことは考えにくいでしょう。
となると、少なくとも古鏡の出土数からみると、邪馬台国東遷説は成立しえないとみるのが自然です。
では私の仮説でみてみましょう。
私の仮説では、
倭国の中心(のちの邪馬台国)は北部九州にあり、神武天皇はその一分派であり、東征して畿内に拠点を構えた、としてます。神武天皇が畿内に拠点を構えたのは、紀元前1世紀前半頃と推測してます。
3世紀前半ころ、北部九州の文化をもった人々が畿内で支配を確立しましたが、それ以降も邪馬台国はあくまで北部九州にて継続して倭国を支配したとみてます。
この仮説によれば、3世紀に畿内で鏡が急増したことと整合してます。
また、古墳時代以降も倭国の中心は九州北部でしたから、福岡県での鏡がさほど減らずに、継続して作られていたこととも、整合してますね。
皆さんはこのデータをどのように解釈しますでしょうか?
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”古代遺跡からの出土鏡(以下古鏡と呼ぶ)については、国立歴史民俗博物館が行った全国調査が1990年に公表され(以下『鏡データ集成』)、さらに2002年にその補遺が発行されている(以下『補遺1』)。
この調査で収録された古鏡は、『補遺1』を含め5025面である。
弥生時代の区分は、集成者の指定により近畿地方の土器形式変化を基準としている。一般の表示では、
Ⅰ期が前期
Ⅱ~Ⅳ期が中期
Ⅴ期と庄内式並行期(近畿地方で庄内式と呼ぶ土器が作られている時期)が後期
に、それぞれほぼ相当する。このような時代区分を指定しているためか、特に弥生時代には時期をⅢ-Ⅳのように範囲で示している場合が多い。ここでは整理の都合上その範囲のうち早い方の時期で分類した。
鏡の総数は、福岡県が最も多く675 面、以下奈良県438 面、京都府273 面、大阪府266 面、兵庫県
259 面の近畿四県が続く。”
【解説】
総数5025面のうち、福岡県が675面と最も多く、全体の13%を占めます。以下、近畿四県が続きます。時代別にみてみましょう。
”弥生時代には福岡県とその他の九州北部諸県が断然多く、他の地方では非常に少ない。これが古墳時代に入ると近畿地方に急増し、福岡県と肩を並べる。弥生時代は1面しか出ていない奈良県では、特に増加が急激である。
これを素直に解釈すると、鏡を珍重する人々が福岡県から奈良県を中心とする近畿方面に移動した、と見ることができよう。その移動は、弥生時代と古墳時代前期との間に起こっていることが分かる。”
【解説】
鏡を珍重する人々とは、祭祀として使用した人々ということでしょうが、彼らが福岡県から奈良を中心とする近畿地方に移動した、そしてその時期は、弥生時代と古墳時代前期の間に起こっている、というわけです。
弥生時代と古墳時代前期の間とは判然としませんが、だいたい2世紀前半頃でしょうか。
2世紀ころの日本列島は、激動の時代でした。
国が乱れ治まらず、卑弥呼を立てて倭国が統一されました。女王となった卑弥呼は、中国の魏に使節団を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印はじめ多くの宝物をもらいます。そのなかに銅鏡百枚があります。時に238年から240年にかけてのことです。

”弥生時代に多かった北部九州三県をより細かく地域別に見たのが図15 である(時期が明示されて
いる鏡のみ)。
Ⅱ期の少数の鏡(上述の多鈕細文鏡)を除くと、Ⅲ期に筑前西部に突然多量の出土が始まり、V期にまた急増する。このあと見るように、これは特定の「王墓」に多数の鏡が集中したためである。ところがⅤ期になると筑前東部・豊前(福岡県内)・佐賀県南部などの出土が増える。そして図15 で見るように、少数ながら西日本を中心に関東・北陸にまで分布が広がる。なかでも、愛媛県・広島県・大阪府の出土が目立ち、瀬戸内海が他地方への流出の主ルートになっていることがわかる。なおⅣ期の愛媛県の二例と埼玉県の一例を除き、北部九州以外の出土はすべてV期以降である。
以上のようなデータを素直に解釈すると、弥生時代中期はじめに鏡を愛好する人々が筑前西部に現れ、九州島内でその嗜好を東方や南方に広め、弥生時代の終わり頃瀬戸内を東進し古墳時代初めまでに「畿内」に入り、そこからさらに全国にその嗜好を拡散させた、という図式が見える。”
【解説】
図15でわかるとおり、筑前西部に始まり、筑前東部・豊前(福岡県東部)・佐賀県南部へと広がり、そこから愛媛~広島~大阪へと広がります。
これが、人々の移動と一致する、というわけです。

これをもって、邪馬台国の東遷、つまり北部九州にあった邪馬台国が畿内に移動した、それが纏向遺跡だ、とする説の論拠とする方もいます。
しかしながら話はそう簡単ではありません。
次の図は、古鏡出土地を府県別・時代別にグラフ化したものです。

まず弥生時代中期は福岡県が圧倒的に多く、後期にピークを迎えます。古墳時代前期に入り、奈良県・大阪府が突如として激増します。
これが、福岡県にあった邪馬台国が畿内に移動した証左だ、というわけです。
ところがよくみると、奈良県・大阪府は、古墳時代中期になると激減してます。一方、福岡県は古墳時代前期に入り減ってはいますが、激減とまではいえず、古墳時代中期になると、むしろ増えています。
また畿内勢力に大きく影響を及ぼしたとみられる吉備地方(岡山県)は、逆に古墳時代中期がピークです。
もし邪馬台国が福岡県から奈良県に東遷したのなら、福岡県はもぬけの殻になり、鏡の出土も古墳時代中期には激減するはずですが、そうはなっていません。
岡山県が、古墳時代中期にピークとなるのも、不思議です。
もちろんこのデータは、現時点での出土数であり、今後の出土状況により変化はするでしょうが、結果に影響を及ぼすことは考えにくいでしょう。
となると、少なくとも古鏡の出土数からみると、邪馬台国東遷説は成立しえないとみるのが自然です。
では私の仮説でみてみましょう。
私の仮説では、
倭国の中心(のちの邪馬台国)は北部九州にあり、神武天皇はその一分派であり、東征して畿内に拠点を構えた、としてます。神武天皇が畿内に拠点を構えたのは、紀元前1世紀前半頃と推測してます。
3世紀前半ころ、北部九州の文化をもった人々が畿内で支配を確立しましたが、それ以降も邪馬台国はあくまで北部九州にて継続して倭国を支配したとみてます。
この仮説によれば、3世紀に畿内で鏡が急増したことと整合してます。
また、古墳時代以降も倭国の中心は九州北部でしたから、福岡県での鏡がさほど減らずに、継続して作られていたこととも、整合してますね。
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