宗像と宇佐の女神(18)~豊前・豊後での鏡出土と邪馬台国
鏡出土の詳細について、みていきましょう。
”弥生中期後半以降北部九州の国々から漢への貢献が始まると、多種の洗練された前漢鏡が入ってくる。漢は国直営の鏡の製作所(尚方)を持っていたので、品質の優れた鏡が多く作られ、臣下や貢献してくる化外の王たちに下賜された(以下主として高倉洋彰による)”
以下、代表的な鏡について、いくつか挙げています。
1.糸島市の三雲南小路(みなみしょうじ)の1号甕棺墓
”35面以上の前漢の鏡が埋葬。漢の皇帝が王侯級の人物に下賜したと考えられるガラスの璧(
へき)八個や金銅製の飾り金具など、豪華な副葬品も出土しているので、初代の伊都(いと)国王の墓と考えられている。2号墓は王妃の墓とも。”
2.奴国王の墓と考えられている春日市須玖(すぐ)岡本D地点の甕棺墓
”24面以上の前漢鏡が10数口の武器形青銅器などと共に出土した。”
3.飯塚市の立岩堀田遺跡10号甕棺
”6面、他の甕棺と併せて合計10面の前漢鏡が出土した。この遺跡は、甕棺文化圏から外れて突出しているが、その進出の動機は飯塚市と若宮市との間にある笠置山から出る石包丁の原石にあったことが定説になっている。”
”この時期筑前東部では、ムナカタを含めこれ以外に鏡の出土はない。筑前西部と佐賀・長崎県では、そのほかの14以上の遺跡を合わせ合計約230面の前漢鏡が出土している。弥生中期(Ⅲ・Ⅳ期)には、上記甕棺文化圏(立岩を含めた)以外の出土はない。”
【解説】
以上のように、弥生中期(Ⅲ・Ⅳ期)までは、鏡、特に前漢鏡の出土は、筑前西部・佐賀・長崎県など、限られた地域からしか出土してません。
それが後期に入ると、拡散し始めます。
”前述のように、後期(V期)に入ると筑前東部や豊前に鏡が拡散する。ここでムナカタとの関係が出てくる。弥生時代中期後半、特に宗像市域では弥生遺跡が衰退する。これは海退により釣川入海の水運が不可能になったためと見られる。この時期に、宗像市域の南の靡山(なびきやま)(296m)を越えた遠賀川の支流山口川沿いに新しい交易集落ができたらしい。
九州自動車道工事に伴って、今の若宮インター周辺で汐井掛(しおいがけ)墓地遺跡が発見された。ここでは弥生時代中期後半に始まり古墳時代初めまで続く371基もの墓が見つかっている。大部分は木棺墓と土壙墓であるが、石棺墓や石で蓋をした土壙墓もある。
ここから、青銅鏡の破片が六面分も出土した。なかでも弥生後期の石棺墓などから長宜子孫鏡(「長宜子孫」の銘のある内行花文鏡ないこうかもんきょう)・飛禽鏡(ひきんきょう)など四面の後漢鏡の破片が出たことが、考古学界を驚かせた。国内では最古級の素環頭太刀などの鉄器も多い。
宗像市の富地原(ふじわらや)名残の丘陵にも、いくつかの弥生中期から後期を盛期とする遺跡群が発見されているが、その一つ徳重(とくしげ)高田(たかだ)遺跡からも、内行花文鏡の破片が出土している。
そのほかにもこの周辺に、この時期急に鏡が出土するようになる。遠賀川河口近くの響灘に突き出した遠見ノ鼻の西岸北九州市若松区の岩屋遺跡から後漢鏡四面を含む5面の鏡が、また八幡西区の馬場山遺跡から後漢鏡2面を含む4面の鏡が出土している。古墳時代の土器布留(ふる)式が混ざる次の時期には、北九州市小倉北区郷屋遺跡とみやこ町の徳永川の上遺跡から後漢鏡の破片が出ている。後者では、後漢の内行花文鏡と方格規矩鏡のほかに、続く時代の三角縁の画像鏡・盤龍鏡が出ている。
遠賀川河口域周辺と瀬戸内海に面した豊前地方とのつながりが推定され、交易ルートの変化を窺わせる。
さらに宇佐では、駅舘地域で出土していた後漢~三国時代の特徴を備えた銘帯を持つ斜縁六獣鏡(完鏡)が最近確認された。前述の安心院でも、後漢鏡2面の破片が見つかっている。
以上のように、卑弥呼に繋がる時代に遠賀川流域から宇佐を含む豊前にかけて、後漢鏡が続々と出土している。”
【解説】
鏡の拡散は、弥生時代後期に入り、筑紫東部や豊前・豊後にまで広がり、それが卑弥呼の時代につながる、と述べてます。
矢田氏は「邪馬台国=宇佐」説ですので、こうした事実から自説を補強しているのですが、どうでしょうか?。
邪馬台国の時代にかけて、豊前・豊後にもようやく鏡が出土副葬されるようになったということは、それ以前には副葬されていなかったということです。
卑弥呼と鏡は強い結びつきがあり、邪馬台国の文化は鏡を副葬する文化です。となると、邪馬台国の文化が、卑弥呼擁立にかけての時期に豊前・豊後に出現した、ということになります。
これが成立するには、以下のいずれかの流れにならざるをえません。
1.豊後にある邪馬台国が、卑弥呼擁立の時代にかけて鏡を副葬する文化を受け入れた。
そうだとすると、邪馬台国は北部九州において、ずいぶんと文化的後進国ということになります。
2.邪馬台国は、卑弥呼擁立の時代にかけて、筑紫西部から豊後に移動した。
魏志倭人伝には、邪馬台国が移動したこと示す記載はありません。
3.卑弥呼擁立の時代にかけて、豊後に新しく邪馬台国ができた。
魏志倭人伝には、邪馬台国が卑弥呼の時代に出現した国とは記載されてません。
以上、いずれも考えにくいところです。このあたり、矢田氏がどのように考えているのかはよくわかりません。

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”弥生中期後半以降北部九州の国々から漢への貢献が始まると、多種の洗練された前漢鏡が入ってくる。漢は国直営の鏡の製作所(尚方)を持っていたので、品質の優れた鏡が多く作られ、臣下や貢献してくる化外の王たちに下賜された(以下主として高倉洋彰による)”
以下、代表的な鏡について、いくつか挙げています。
1.糸島市の三雲南小路(みなみしょうじ)の1号甕棺墓
”35面以上の前漢の鏡が埋葬。漢の皇帝が王侯級の人物に下賜したと考えられるガラスの璧(
へき)八個や金銅製の飾り金具など、豪華な副葬品も出土しているので、初代の伊都(いと)国王の墓と考えられている。2号墓は王妃の墓とも。”
2.奴国王の墓と考えられている春日市須玖(すぐ)岡本D地点の甕棺墓
”24面以上の前漢鏡が10数口の武器形青銅器などと共に出土した。”
3.飯塚市の立岩堀田遺跡10号甕棺
”6面、他の甕棺と併せて合計10面の前漢鏡が出土した。この遺跡は、甕棺文化圏から外れて突出しているが、その進出の動機は飯塚市と若宮市との間にある笠置山から出る石包丁の原石にあったことが定説になっている。”
”この時期筑前東部では、ムナカタを含めこれ以外に鏡の出土はない。筑前西部と佐賀・長崎県では、そのほかの14以上の遺跡を合わせ合計約230面の前漢鏡が出土している。弥生中期(Ⅲ・Ⅳ期)には、上記甕棺文化圏(立岩を含めた)以外の出土はない。”
【解説】
以上のように、弥生中期(Ⅲ・Ⅳ期)までは、鏡、特に前漢鏡の出土は、筑前西部・佐賀・長崎県など、限られた地域からしか出土してません。
それが後期に入ると、拡散し始めます。
”前述のように、後期(V期)に入ると筑前東部や豊前に鏡が拡散する。ここでムナカタとの関係が出てくる。弥生時代中期後半、特に宗像市域では弥生遺跡が衰退する。これは海退により釣川入海の水運が不可能になったためと見られる。この時期に、宗像市域の南の靡山(なびきやま)(296m)を越えた遠賀川の支流山口川沿いに新しい交易集落ができたらしい。
九州自動車道工事に伴って、今の若宮インター周辺で汐井掛(しおいがけ)墓地遺跡が発見された。ここでは弥生時代中期後半に始まり古墳時代初めまで続く371基もの墓が見つかっている。大部分は木棺墓と土壙墓であるが、石棺墓や石で蓋をした土壙墓もある。
ここから、青銅鏡の破片が六面分も出土した。なかでも弥生後期の石棺墓などから長宜子孫鏡(「長宜子孫」の銘のある内行花文鏡ないこうかもんきょう)・飛禽鏡(ひきんきょう)など四面の後漢鏡の破片が出たことが、考古学界を驚かせた。国内では最古級の素環頭太刀などの鉄器も多い。
宗像市の富地原(ふじわらや)名残の丘陵にも、いくつかの弥生中期から後期を盛期とする遺跡群が発見されているが、その一つ徳重(とくしげ)高田(たかだ)遺跡からも、内行花文鏡の破片が出土している。
そのほかにもこの周辺に、この時期急に鏡が出土するようになる。遠賀川河口近くの響灘に突き出した遠見ノ鼻の西岸北九州市若松区の岩屋遺跡から後漢鏡四面を含む5面の鏡が、また八幡西区の馬場山遺跡から後漢鏡2面を含む4面の鏡が出土している。古墳時代の土器布留(ふる)式が混ざる次の時期には、北九州市小倉北区郷屋遺跡とみやこ町の徳永川の上遺跡から後漢鏡の破片が出ている。後者では、後漢の内行花文鏡と方格規矩鏡のほかに、続く時代の三角縁の画像鏡・盤龍鏡が出ている。
遠賀川河口域周辺と瀬戸内海に面した豊前地方とのつながりが推定され、交易ルートの変化を窺わせる。
さらに宇佐では、駅舘地域で出土していた後漢~三国時代の特徴を備えた銘帯を持つ斜縁六獣鏡(完鏡)が最近確認された。前述の安心院でも、後漢鏡2面の破片が見つかっている。
以上のように、卑弥呼に繋がる時代に遠賀川流域から宇佐を含む豊前にかけて、後漢鏡が続々と出土している。”
【解説】
鏡の拡散は、弥生時代後期に入り、筑紫東部や豊前・豊後にまで広がり、それが卑弥呼の時代につながる、と述べてます。
矢田氏は「邪馬台国=宇佐」説ですので、こうした事実から自説を補強しているのですが、どうでしょうか?。
邪馬台国の時代にかけて、豊前・豊後にもようやく鏡が出土副葬されるようになったということは、それ以前には副葬されていなかったということです。
卑弥呼と鏡は強い結びつきがあり、邪馬台国の文化は鏡を副葬する文化です。となると、邪馬台国の文化が、卑弥呼擁立にかけての時期に豊前・豊後に出現した、ということになります。
これが成立するには、以下のいずれかの流れにならざるをえません。
1.豊後にある邪馬台国が、卑弥呼擁立の時代にかけて鏡を副葬する文化を受け入れた。
そうだとすると、邪馬台国は北部九州において、ずいぶんと文化的後進国ということになります。
2.邪馬台国は、卑弥呼擁立の時代にかけて、筑紫西部から豊後に移動した。
魏志倭人伝には、邪馬台国が移動したこと示す記載はありません。
3.卑弥呼擁立の時代にかけて、豊後に新しく邪馬台国ができた。
魏志倭人伝には、邪馬台国が卑弥呼の時代に出現した国とは記載されてません。
以上、いずれも考えにくいところです。このあたり、矢田氏がどのように考えているのかはよくわかりません。

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