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宋書倭国伝を読む その3(最終回) ~ 倭国が征したという東方の毛人の国々とはどこにあったのか?

宋書倭国伝の最終回です。


順帝の昇明二年(478年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。
「わが国は遠く辺地にあって、中国の外垣となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野を超え川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した。
皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠く広がった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の偉業を継ぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして、中国の天子をあがめしたがおうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。
【解説】
武は、上表文を、中国の皇帝に奉ります。中国皇帝に対し、いかに忠義を尽くしてきたかを切々と訴える気迫が、伝わってきます。
各地を征服した、とありますが、海を渡った北の国々とは、九州より北、朝鮮半島の南半分あたりの国々でしょう。
西方の衆夷の国々とは、西日本とみていいでしょう。
では、毛人の国々とは、どこにあった国々のことでしょうか。

漢字の使い方から言って、毛深い人々をイメージします。
実は、今後お話しする中国史書「旧唐書日本国伝」のなかに、
「その国界は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。」
との記載があります。
西界の海は東シナ海、南界の海は太平洋のことでしょう。東界と北界の大山とは、日本アルプス を指すものと思われます。その外に毛人の国がある、というのですから、毛人の国々とは、関東以北にあった国々のことになります。実際、群馬県、栃木県を含むエリアは、毛野と呼ばれていました。
また古くは、蝦夷のことを、毛人と記していたことも、根拠になります。

それぞれの、エリアを推測しました。

倭国が征した国々

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠を尽くす美風を失わされた。船を進めようとしなくても、時には通じ、時には通じなかった。私武の亡き父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声を上げて奮い立ち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、そのとき思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息でなるはずの功業も、最後のひと押しがならなかった。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。
【解説】
ここから、高句麗についての話題になります。倭国の友好国である百済を侵略しようとし、さらに中国への進路を妨害していると、訴えます。
似たような話が、以前出てきましたね。そうです、卑弥呼の時代、魏への使いが、公孫淵によって妨害されました。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?(2015/5/16号)」
を参照ください。 

また、注目すべきは、武の父済と兄興は、高句麗との戦いで戦死した、と言っていることです。前回、一般的に、済は允恭天皇、興は安康天皇と比定されていると、お話ししました。ところか、古事記、日本書紀とも、両天皇が、高句麗との戦いで戦死したとの記載はありません。このことからも、倭の五王を、天皇に比定するのは、無理があると言わざるをえません。
そもそも、両天皇の時代に高句麗と戦ったとの記載はないし、さらに中国に対する朝貢の記載も、ないに等しいです。このことは、何を意味するのでしょうか?。


しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱をしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節を励んでいると。」
そこで順帝は詔をくだして武を、使時節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)新羅(しらぎ)任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事(りっこくしょぐんじ)・安東将軍・倭王に任命した。
【解説】
戦いにかける思いは、鬼気迫るものを感じます。そして中国皇帝が後ろ盾にいることを示すために、自らへは開府儀同三司(かいふぎどうさんし)という役職、部下へも官爵を切望します。
結果として、中国皇帝は、武に対し、使時節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭王に任命します。
開府儀同三司の願いはかなわず、また 百済を入れることも認められませんでしたが、安東将軍と、大が新たに付け加えられました。半歩前進した、というところですが、武の心中は、いかばかりだったでしょうか?。
ちなみに、上表文は、中国の皇帝に宛てたものですから、当然のことながら、漢字で書かれていたことになります。つまり、この時代、日本に漢字は伝わっていたということです。卑弥呼の時代も同様だったと考えるのが、自然でしょう。

以上で、宋書倭国伝は終わりです。
次回から、時代は 200年ほど下り、隋書俀 国伝(ずいしょたいこくでん)を、取り上げます。

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武の上奏文について

 ブログを楽しく拝見しています。
 かつて、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」を驚きと感動をもってむさぼるように読んだことが思い出されます。
 貴兄のブログは、分かりやすく、よくまとまっており、感心しながら読み進めています。
 ただ、一点だけ腑に落ちないので、コメントさせていただきます。
 倭王武の上奏文に関してです。
「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。 」の解釈として、毛人五十五国、衆夷六十六国、海北九十五国のエリアを地図に示していますが、これに異論があるのです。
 博多湾岸に九州王朝があり、倭王武は九州王朝の王であることを前提とするなら、地図で示した衆夷六十六国はほとんどが九州王朝の東であり、「西は衆夷を服すること六十六国」との表現にはならないと思うのです。これらの国々が地図で示したエリアならば、倭王武は、畿内にいたと考える方がぴったりきます。
 確かに、栃木県、群馬県を含む地域は「毛野」と呼ばれていましたが、「毛人五十五国」を栃木県、群馬県の地域と考えるならば、やはり倭王武は畿内にいる方がぴったりきます。
 私は、九州王朝説を支持しますが、その立場から言えば、これらの国々は、西は九州内、海北は山口県辺り、毛人は四国地方程度にとどまるのではないのでしょうか。そのことが説明できなければ、九州王朝説は、破綻すると思います。
 素人の素朴な疑問です。お考えがあれば御教示ください。

Re: 武の上奏文について

釋徳香さんへ

コメントありがとうございます。楽しみに読んでいただいているとのこと、たいへん嬉しいです。

>  博多湾岸に九州王朝があり、倭王武は九州王朝の王であることを前提とするなら、地図で示した衆夷六十六国はほとんどが九州王朝の東であり、「西は衆夷を服すること六十六国」との表現にはならないと思うのです。これらの国々が地図で示したエリアならば、倭王武は、畿内にいたと考える方がぴったりきます。

確かに、宋書倭国伝を素直に読むと、そのようにもとれます。これについては古田氏が論評してますが、ようするに、
”当時のルールから言えば、西とか東とかは、あくまで中国皇帝からみてのことである。日本列島は皇帝から見れば皆東夷の国である。その東夷の東部を毛人の国と呼び、西部を「西の衆夷」と呼んでいる。”ということです。

ではその「西の衆夷」とはどこかです。

確かに、「西の衆夷」を九州、毛人を四国あたり、とする考えもあるでしょう。実際、古田氏も、そのように書いていた時期もあります。

一方、新唐書日本国伝には、
”その国土の広さは歩いて東西五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である”
”日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人(もうじん)の住む地だ”
との記載があります。

宋書倭国伝の毛人と新唐書倭国伝の毛人は、同じ人々を指すと考えられます。となると、倭国の領域は、東西5カ月の行程となりますからかなり広くなり、関東あたりと考えて差支えないと考えます。



Re: Re: 武の上奏文について

言葉足らずでした。

> 宋書倭国伝の毛人と新唐書倭国伝の毛人は、同じ人々を指すと考えられます。倭国の領域は、東西5カ月の行程とありますからかなり広く、そうなると毛人の国は関東あたりと考えるのが、順当でしょう。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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