宗像と宇佐の女神(19)~卑弥呼の鏡
いよいよ有名な「卑弥呼の鏡」についてです。
”「魏志倭人伝」の景初2年(3年=西暦239年の誤りとされる)魏帝が卑弥呼に報じた詔書に記された下賜品の中に「銅鏡百枚」があることから、これがどの鏡であるかについての議論が続いている。中国社会科学院考古研究所所長を務めていた徐苹芳によると、魏は建国からまもなく、しかも戦乱の影響と魏の領域内の銅材の不足により、銅鏡製造は不振であった。この時期の魏鏡は後漢鏡を受け継ぐ形式のものが多く、新しい様式のものは見られないという。もちろんそれまでの後漢鏡もかき集められたであろう。”
【解説】
魏志倭人伝記載の「銅鏡百枚」が何なのか、いまだに結論が出てません。徐氏によれば、時期的に卑弥呼に下賜された可能性が強い鏡は、以下が挙げられるといいます。
・方格規矩鏡
・内行花文鏡(特に蝙蝠鈕座)
・獣首鏡
・蘷鳳鏡
・盤龍鏡
・双頭龍鳳文鏡(位至三公鏡)
・鳥文鏡
・鉄鏡
このなかにあの「三角縁神獣鏡」が入っていないことに、「あれ?」と思われた方もいるでしょう。マスコミなどでは、あたかも「卑弥呼の鏡」=「三角縁神獣鏡」といった論調です。ところがその説は、どう贔屓目にみても成立しません。そのあたりを以下のように解説してます。
”かつての考古学の大御所が卑弥呼の受領した鏡を三角縁神獣鏡と主張したために、現在でもこれに固執する研究者が存在しマスコミにもその信奉者が多い。しかしその後の日中考古学の進展によりその主張は成り立たなくなっている。日本での三角縁神獣鏡の出土は卑弥呼の受領した100枚を遙かに超え、『鏡データ集成』と『補遺1』とを合わせ457面に達しうち384面が「舶載」とされている。2011年には530枚を越えているという。しかも『鏡データ集成』と『補遺1』では全て古墳時代の出土である。なによりも、中国本土での発見は、信頼できる発掘によるものでは、1枚もない。これで数100枚が中国からもたらされたという主張は、考古学の自己否定であろう。また科学的な分析でも、三角縁神獣鏡が中国製との主張は成り立たない。”
【解説】
かつての考古学の大御所とは、小林行雄氏氏(京都大学名誉教授)のことですが、現時点で「卑弥呼の鏡」=「三角縁神獣鏡」を立証できるデータは皆無といっていいでしょう。にもかかわらず学会において声を大にして言う研究者がほとんど見当たりません。彼らも組織に生きる人間ですから、致し方ないのかもしれません。
早くそのような風潮を打破してもらいたいものですね。
”これらの鏡の殆どは日本でも出土し、『鏡データ集成』にこれらの名で示されている場合が多い。その出土地を、図16に示した。この図には、同集成の後に明らかになった出土例も、知りうる限り示した。方格規矩鏡類は前漢から作り始められ三国時代にも作られているので、後漢時代の代表的文様である方格規矩四神鏡のみを示した。内行花文鏡も、蝙蝠鈕座と明記されているものと「長宜子孫」名を有するもののみ示した。鏡は伝世(しばらく保有されてから埋蔵されること)が多くその場合は最初の受領地からの移動が考えられるため、この図では弥生時代(Ⅳ-Ⅴ期および庄内並行期)の出土例に絞った。このため該当鏡数が少なくなったが、おそらく舶載された鏡はより多く、そのうち古墳時代になって埋蔵されたケースが多いと考えられる。
図16に見るように、これらの鏡は弥生Ⅳ-Ⅴ期まではそれ以前と同じくほとんど筑前西部と佐賀県の隣接する地域から出土しているが、筑前東部と筑後および豊前にも目立つようになり、散発的に中国・四国にまで拡がっている。庄内並行期に入ると丹波・加賀にまで達している。このような遠方へのな伝播には、宗像などの海人族の広域活動との係わりが考えられる。いわゆる畿内では全く出土せず、「王権」はおろか有力者も存在しなかったことが推測される。”
【解説】
平面でみると、筑前勢部・佐賀県から筑前東部と筑後・豊前、さらに中国・四国にまで広がっていることが確認できます。庄内並行期に入ると、さらに丹波・加賀にまで達してますが、畿内では全く出土してません。
これを論文では、”「王権」はおろか有力者も存在しなかったことが推測される。”と表現してます。ただこの直前までは、畿内は銅鐸文化が栄えてましたので、これは言い過ぎでしょう。正しくは、”鏡祭祀をもった「有力者」は存在しなかった。”というべきでしょう。
つまり畿内では、鏡祭祀が入ってくるまでは銅鐸文化でしたが、庄内並行期には銅鐸祭祀が消滅して、しばらくして鏡(三角縁神獣鏡)祭祀に代わりました。
この意味するところはどういうことでしょうか?。
鏡祭祀文化(もとは北部九州文化)をもった人々がやってきて、先住民の文化(銅鐸祭祀)にとってかわった、と考えるのが自然です。
三角縁神獣鏡には、「景初三年」「正始元年」等の紀年銘をもつ鏡が4面出土してます。、「景初三年」「正始元年」とはまさに卑弥呼が魏の皇帝に使いを送り、魏の皇帝より「親魏倭王」の印と銅鏡百枚他を下賜された時期です。
こうしたことから、鏡祭祀をもった人々は卑弥呼の系列にあり、魏の後ろ盾をもっていることを示すために三角縁神獣鏡を作ったのではないか、という推測が生まれます。
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”「魏志倭人伝」の景初2年(3年=西暦239年の誤りとされる)魏帝が卑弥呼に報じた詔書に記された下賜品の中に「銅鏡百枚」があることから、これがどの鏡であるかについての議論が続いている。中国社会科学院考古研究所所長を務めていた徐苹芳によると、魏は建国からまもなく、しかも戦乱の影響と魏の領域内の銅材の不足により、銅鏡製造は不振であった。この時期の魏鏡は後漢鏡を受け継ぐ形式のものが多く、新しい様式のものは見られないという。もちろんそれまでの後漢鏡もかき集められたであろう。”
【解説】
魏志倭人伝記載の「銅鏡百枚」が何なのか、いまだに結論が出てません。徐氏によれば、時期的に卑弥呼に下賜された可能性が強い鏡は、以下が挙げられるといいます。
・方格規矩鏡
・内行花文鏡(特に蝙蝠鈕座)
・獣首鏡
・蘷鳳鏡
・盤龍鏡
・双頭龍鳳文鏡(位至三公鏡)
・鳥文鏡
・鉄鏡
このなかにあの「三角縁神獣鏡」が入っていないことに、「あれ?」と思われた方もいるでしょう。マスコミなどでは、あたかも「卑弥呼の鏡」=「三角縁神獣鏡」といった論調です。ところがその説は、どう贔屓目にみても成立しません。そのあたりを以下のように解説してます。
”かつての考古学の大御所が卑弥呼の受領した鏡を三角縁神獣鏡と主張したために、現在でもこれに固執する研究者が存在しマスコミにもその信奉者が多い。しかしその後の日中考古学の進展によりその主張は成り立たなくなっている。日本での三角縁神獣鏡の出土は卑弥呼の受領した100枚を遙かに超え、『鏡データ集成』と『補遺1』とを合わせ457面に達しうち384面が「舶載」とされている。2011年には530枚を越えているという。しかも『鏡データ集成』と『補遺1』では全て古墳時代の出土である。なによりも、中国本土での発見は、信頼できる発掘によるものでは、1枚もない。これで数100枚が中国からもたらされたという主張は、考古学の自己否定であろう。また科学的な分析でも、三角縁神獣鏡が中国製との主張は成り立たない。”
【解説】
かつての考古学の大御所とは、小林行雄氏氏(京都大学名誉教授)のことですが、現時点で「卑弥呼の鏡」=「三角縁神獣鏡」を立証できるデータは皆無といっていいでしょう。にもかかわらず学会において声を大にして言う研究者がほとんど見当たりません。彼らも組織に生きる人間ですから、致し方ないのかもしれません。
早くそのような風潮を打破してもらいたいものですね。
”これらの鏡の殆どは日本でも出土し、『鏡データ集成』にこれらの名で示されている場合が多い。その出土地を、図16に示した。この図には、同集成の後に明らかになった出土例も、知りうる限り示した。方格規矩鏡類は前漢から作り始められ三国時代にも作られているので、後漢時代の代表的文様である方格規矩四神鏡のみを示した。内行花文鏡も、蝙蝠鈕座と明記されているものと「長宜子孫」名を有するもののみ示した。鏡は伝世(しばらく保有されてから埋蔵されること)が多くその場合は最初の受領地からの移動が考えられるため、この図では弥生時代(Ⅳ-Ⅴ期および庄内並行期)の出土例に絞った。このため該当鏡数が少なくなったが、おそらく舶載された鏡はより多く、そのうち古墳時代になって埋蔵されたケースが多いと考えられる。
図16に見るように、これらの鏡は弥生Ⅳ-Ⅴ期まではそれ以前と同じくほとんど筑前西部と佐賀県の隣接する地域から出土しているが、筑前東部と筑後および豊前にも目立つようになり、散発的に中国・四国にまで拡がっている。庄内並行期に入ると丹波・加賀にまで達している。このような遠方へのな伝播には、宗像などの海人族の広域活動との係わりが考えられる。いわゆる畿内では全く出土せず、「王権」はおろか有力者も存在しなかったことが推測される。”
【解説】
平面でみると、筑前勢部・佐賀県から筑前東部と筑後・豊前、さらに中国・四国にまで広がっていることが確認できます。庄内並行期に入ると、さらに丹波・加賀にまで達してますが、畿内では全く出土してません。
これを論文では、”「王権」はおろか有力者も存在しなかったことが推測される。”と表現してます。ただこの直前までは、畿内は銅鐸文化が栄えてましたので、これは言い過ぎでしょう。正しくは、”鏡祭祀をもった「有力者」は存在しなかった。”というべきでしょう。
つまり畿内では、鏡祭祀が入ってくるまでは銅鐸文化でしたが、庄内並行期には銅鐸祭祀が消滅して、しばらくして鏡(三角縁神獣鏡)祭祀に代わりました。
この意味するところはどういうことでしょうか?。
鏡祭祀文化(もとは北部九州文化)をもった人々がやってきて、先住民の文化(銅鐸祭祀)にとってかわった、と考えるのが自然です。
三角縁神獣鏡には、「景初三年」「正始元年」等の紀年銘をもつ鏡が4面出土してます。、「景初三年」「正始元年」とはまさに卑弥呼が魏の皇帝に使いを送り、魏の皇帝より「親魏倭王」の印と銅鏡百枚他を下賜された時期です。
こうしたことから、鏡祭祀をもった人々は卑弥呼の系列にあり、魏の後ろ盾をもっていることを示すために三角縁神獣鏡を作ったのではないか、という推測が生まれます。

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