宗像と宇佐の女神(20)~超希少価値の鏡と玉壁の出土
鏡祭祀は、北部九州特に筑前西部から始まり、次第に広がっていきましたが、そのなかで極めて注目すべきものが、意外なところから出土してます。今回はその話です。
”後漢末から魏晋にかけて銅材不足の時代に王と周辺では鉄鏡が多く作られ、その中には宝石をちりばめた豪華なものも多く、後の魏帝曹操が後漢の献帝に献上したのもこのような鉄鏡である。まさにそのような鉄鏡(金銀錯嵌(きんぎんさがん)朱龍文(しゅりゅうもん)鉄鏡)が、日田市から出土している。これは古墳からの出土であるが、卑弥呼の時代にしか作られない重要な鏡と考えられるので、特に図16中に示した。
このような鏡は、上記曹操例のように特定の貴人に贈るため作られ、製作後直ちに贈与されたと考えられる。この時代に日本でそのような贈り物を受け取る可能性のある実在の人物は、卑弥呼以外には見あたらない。”
<出土した鉄鏡>
(e-国宝より)
【解説】
鉄鏡しかも王に送るような豪華な金銀錯嵌(きんぎんさがん)朱龍文(しゅりゅうもん)鉄鏡が、日田市から出土したのです。
図16からもわかるとおり、日田市は鏡出土の中心地である筑前西部からはやや外れた位置にあります。これから邪馬台国がこの付近にあったという説も出てくるほどです。
ただ日田市一帯に、魏志倭人伝が記載する楼閣や櫓などの遺構は出土しておらず、7万戸といわれる集落があったという証拠もありません。
また卑弥呼が魏の皇帝からもらったのは「銅鏡」であり、「鉄鏡」ではありません。
とはいっても、これだけの貴重な鏡をもっていることは、尋常ではありません。かなりの力をもった豪族がいたということは、間違いないでしょう。
”鏡以外にも、当時王侯級の人物しか受領できない古代中国最上の宝物「玉璧(ぎょくへき)」(国宝)が、宮崎県南端の串間市から出土している。ガラス製の「璧」は伊都国の三雲南小路1号甕棺墓と須玖岡本D地点甕棺墓から破片が出ているが、本物の玉でできた完形の璧、すなわち「完璧(かんぺき)」が、このような南九州の僻地にあったのは驚くべきことである。どのような事情でこの地に運ばれたかは不明であるが、前漢から後漢にかけての中国王朝と交流していた北部九州の国々の遺産を引き継いだものであることは間違いないであろう。邪馬台国が九州東海岸にあったとすれば、壁がこの場所で出た意味も理解できるのではないか。”
【解説】
さらに驚くべき発見がありました。玉壁が出土したのです。
壁(へき)とは、
”古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。
璧の起源は良渚文化まで遡り、当時は琮と共に神権の象徴として扱われていた。良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。”
良渚(りょうしょう)文化とは、長江(揚子江)下流の新石器時代後期(前3千年紀中ごろ~前2千年紀初め)に栄えた文化です。その後
黄河中流から下流にかけて栄えた中原龍山文化(新石器時代後期、前3千年~前2千年ころ)に伝播し、さらに
殷(前17世紀ころ~前1046年)
周(前1046年~前256年)
春秋戦国時代(前770年~前221年)
漢(前206年~8年)
へと引き継がれます。
ここで思い出されるのは、中国史書「翰苑(かんえん)」 にある
”倭人は、呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だと称していた。”
という記載です。
呉の末裔であることが事実かどうかはともかく、少なくとも倭人がそのことを誇りにしていたことは間違いありません。
詳しくは
翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?
を参照ください。
この玉壁も、周の文化の流れを引くものであることに、注目です。
さてこの串間市出土の玉壁ですが、出土の経緯は、”1818年に、農夫の佐吉が畑を耕していたときに、石棺を発見、ここから宝物や鉄器が出てきて、そのうちの一つ。”ということです。
岡村秀典氏(京都大学教授)によると、この玉壁は、
”王侯クラスに下賜するために、漢王朝の工房で、紀元前2世紀ころに作られた優品の一つだったと考えられる。”
としてます。また広東省広州市南越王墓(前2世紀)から出土したものによく似ていると述べてます。ちなみに広州市とは、中国南部、香港・マカオに近い位置にあります。
日本において、壁は北部九州の須玖岡本・三雲・峰の3遺跡から出土してますが(共に破片)、いずれもガラス製で、本物の玉壁は、ここ串間市出土のものだけです。
さて、ではなぜこのような極めて貴重なものが、串間市にあったのでしょうか?。
考えられることは、
1.中国皇帝から直接下賜された王侯が、戦乱を逃れて、朝鮮半島などを経て串間にやってきた。
2.串間市にあったクニの王が、中国皇帝から直接下賜された。
3.北部九州にいたクニの王が、中国皇帝から直接下賜され、何らかの理由で串間市に住んだ。
といったところでしょうか?
いずれも推測になりますが、断定はしがたいです。なぜならこうした玉壁が、当時串間にだけあったものなのか、それとも他のクニの王ももっていたが、たまたま串間のものだけ出土したのか、わからないからです。
そうしたことを踏まえたうえで、あえて推測します。
1・2とも、もしそれほどの力をもった王が串間にいたなら、串間周辺にもっと多くの遺跡・集落跡が出ていいはずですが、今のところ出ていません。
私は3の、北部九州にいたクニの王が追われるなどして南下し、串間に定着したのではないか?、と推測してます。
皆さんは、どのように考えるでしょうか?。
<玉壁>
(財)前田育徳会所蔵
論文では、このあと、卑弥呼の墓が宇佐神宮の亀山古墳であること、邪馬台国は宇佐であること等、述べてます。
そして
卑弥呼= ヒミ(本名)+コ(尊敬の呼称)
↓
比咩(ヒミ)神・・・原始宇佐神→八幡系・春日系・阿蘇系・平野系社の女神
↓
女性・女神の尊称に「ヒメ」が普及→比咩もヒメと読まれるようになる
↓
他の女神との区別のため比咩を瀬織津比咩に→白山比咩なども派生
↓
ヒメと読まれるようになった比咩が比売・姫などとも表記される (僻地や比咩信仰の強かった地域などには比咩が残る)
↓
『日本書紀』編纂時に瀬織津比咩を湍津姫に (セオリツが「ソウルの」を意味し対外的に支障があるための改名。『大祓詞』で瀬織津比咩を形容する「たぎつ」を新しい神名に)
と変化したとして、本論文のまとめをしてます。
さらに[付編]として、
「魏使の邪馬台国への行程」
との論文も掲載して、魏志倭人伝記載から、邪馬台国が宇佐にあったことを、中国史書の観点からも述べてます。
「邪馬台国=宇佐」説が成立しえないことは、これまでもお話ししてきたとおりです。
せっかくの論文でありながら、最後の最後に私の持論とは異なる結論になったことは残念ですが、それは解釈の違いということで受け止めたいと思います。
以上で、論文第四弾は終わりです。
次回からは、沖ノ島祭祀最大のテーマ
「沖ノ島祭祀を執り行ったのは誰か?」
に迫ります。
★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
”後漢末から魏晋にかけて銅材不足の時代に王と周辺では鉄鏡が多く作られ、その中には宝石をちりばめた豪華なものも多く、後の魏帝曹操が後漢の献帝に献上したのもこのような鉄鏡である。まさにそのような鉄鏡(金銀錯嵌(きんぎんさがん)朱龍文(しゅりゅうもん)鉄鏡)が、日田市から出土している。これは古墳からの出土であるが、卑弥呼の時代にしか作られない重要な鏡と考えられるので、特に図16中に示した。
このような鏡は、上記曹操例のように特定の貴人に贈るため作られ、製作後直ちに贈与されたと考えられる。この時代に日本でそのような贈り物を受け取る可能性のある実在の人物は、卑弥呼以外には見あたらない。”
<出土した鉄鏡>

(e-国宝より)
【解説】
鉄鏡しかも王に送るような豪華な金銀錯嵌(きんぎんさがん)朱龍文(しゅりゅうもん)鉄鏡が、日田市から出土したのです。
図16からもわかるとおり、日田市は鏡出土の中心地である筑前西部からはやや外れた位置にあります。これから邪馬台国がこの付近にあったという説も出てくるほどです。
ただ日田市一帯に、魏志倭人伝が記載する楼閣や櫓などの遺構は出土しておらず、7万戸といわれる集落があったという証拠もありません。
また卑弥呼が魏の皇帝からもらったのは「銅鏡」であり、「鉄鏡」ではありません。
とはいっても、これだけの貴重な鏡をもっていることは、尋常ではありません。かなりの力をもった豪族がいたということは、間違いないでしょう。

”鏡以外にも、当時王侯級の人物しか受領できない古代中国最上の宝物「玉璧(ぎょくへき)」(国宝)が、宮崎県南端の串間市から出土している。ガラス製の「璧」は伊都国の三雲南小路1号甕棺墓と須玖岡本D地点甕棺墓から破片が出ているが、本物の玉でできた完形の璧、すなわち「完璧(かんぺき)」が、このような南九州の僻地にあったのは驚くべきことである。どのような事情でこの地に運ばれたかは不明であるが、前漢から後漢にかけての中国王朝と交流していた北部九州の国々の遺産を引き継いだものであることは間違いないであろう。邪馬台国が九州東海岸にあったとすれば、壁がこの場所で出た意味も理解できるのではないか。”
【解説】
さらに驚くべき発見がありました。玉壁が出土したのです。
壁(へき)とは、
”古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。
璧の起源は良渚文化まで遡り、当時は琮と共に神権の象徴として扱われていた。良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。”
良渚(りょうしょう)文化とは、長江(揚子江)下流の新石器時代後期(前3千年紀中ごろ~前2千年紀初め)に栄えた文化です。その後
黄河中流から下流にかけて栄えた中原龍山文化(新石器時代後期、前3千年~前2千年ころ)に伝播し、さらに
殷(前17世紀ころ~前1046年)
周(前1046年~前256年)
春秋戦国時代(前770年~前221年)
漢(前206年~8年)
へと引き継がれます。
ここで思い出されるのは、中国史書「翰苑(かんえん)」 にある
”倭人は、呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だと称していた。”
という記載です。
呉の末裔であることが事実かどうかはともかく、少なくとも倭人がそのことを誇りにしていたことは間違いありません。
詳しくは
翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?
を参照ください。
この玉壁も、周の文化の流れを引くものであることに、注目です。
さてこの串間市出土の玉壁ですが、出土の経緯は、”1818年に、農夫の佐吉が畑を耕していたときに、石棺を発見、ここから宝物や鉄器が出てきて、そのうちの一つ。”ということです。
岡村秀典氏(京都大学教授)によると、この玉壁は、
”王侯クラスに下賜するために、漢王朝の工房で、紀元前2世紀ころに作られた優品の一つだったと考えられる。”
としてます。また広東省広州市南越王墓(前2世紀)から出土したものによく似ていると述べてます。ちなみに広州市とは、中国南部、香港・マカオに近い位置にあります。
日本において、壁は北部九州の須玖岡本・三雲・峰の3遺跡から出土してますが(共に破片)、いずれもガラス製で、本物の玉壁は、ここ串間市出土のものだけです。
さて、ではなぜこのような極めて貴重なものが、串間市にあったのでしょうか?。
考えられることは、
1.中国皇帝から直接下賜された王侯が、戦乱を逃れて、朝鮮半島などを経て串間にやってきた。
2.串間市にあったクニの王が、中国皇帝から直接下賜された。
3.北部九州にいたクニの王が、中国皇帝から直接下賜され、何らかの理由で串間市に住んだ。
といったところでしょうか?
いずれも推測になりますが、断定はしがたいです。なぜならこうした玉壁が、当時串間にだけあったものなのか、それとも他のクニの王ももっていたが、たまたま串間のものだけ出土したのか、わからないからです。
そうしたことを踏まえたうえで、あえて推測します。
1・2とも、もしそれほどの力をもった王が串間にいたなら、串間周辺にもっと多くの遺跡・集落跡が出ていいはずですが、今のところ出ていません。
私は3の、北部九州にいたクニの王が追われるなどして南下し、串間に定着したのではないか?、と推測してます。
皆さんは、どのように考えるでしょうか?。
<玉壁>

(財)前田育徳会所蔵
論文では、このあと、卑弥呼の墓が宇佐神宮の亀山古墳であること、邪馬台国は宇佐であること等、述べてます。
そして
卑弥呼= ヒミ(本名)+コ(尊敬の呼称)
↓
比咩(ヒミ)神・・・原始宇佐神→八幡系・春日系・阿蘇系・平野系社の女神
↓
女性・女神の尊称に「ヒメ」が普及→比咩もヒメと読まれるようになる
↓
他の女神との区別のため比咩を瀬織津比咩に→白山比咩なども派生
↓
ヒメと読まれるようになった比咩が比売・姫などとも表記される (僻地や比咩信仰の強かった地域などには比咩が残る)
↓
『日本書紀』編纂時に瀬織津比咩を湍津姫に (セオリツが「ソウルの」を意味し対外的に支障があるための改名。『大祓詞』で瀬織津比咩を形容する「たぎつ」を新しい神名に)
と変化したとして、本論文のまとめをしてます。
さらに[付編]として、
「魏使の邪馬台国への行程」
との論文も掲載して、魏志倭人伝記載から、邪馬台国が宇佐にあったことを、中国史書の観点からも述べてます。
「邪馬台国=宇佐」説が成立しえないことは、これまでもお話ししてきたとおりです。
せっかくの論文でありながら、最後の最後に私の持論とは異なる結論になったことは残念ですが、それは解釈の違いということで受け止めたいと思います。
以上で、論文第四弾は終わりです。
次回からは、沖ノ島祭祀最大のテーマ
「沖ノ島祭祀を執り行ったのは誰か?」
に迫ります。
★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村
スポンサーサイト