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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(4)~①岩上祭祀と②岩陰祭祀

では祭祀の第一段階からみていきましょう。

① 岩上祭祀(4世紀半ば以降)
巨岩の上で行われた祭祀の跡であり、5 つの遺 跡が調査されている。このうち 21 号遺 跡では、はっきりとした祭壇の遺構が発見された。 2.2 × 2.5 m の四角の石組の「 磐境(いわさか)」の中に、「神の 依代(よりしろ)磐座(いわくら)」と考えられる大石が置かれ ていた。
推定年代が最も古く、そして豪華な出土品が発見されたのは、17 号と 18 号遺跡である。ここからは、 三角縁神獣鏡を含む合計 31 面の青銅鏡や、鉄剣・鉄刀など多くの鉄製品、勾玉・管玉など多くの装飾品が発見された。これらの祭祀の時期は 、 4世紀の第3四半期とされる。
ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100~140 m 級)からの出土品と品目が似ている。すなわち、この頃のヤマト王権に属する有力氏 族の長が持っていたと同等の宝物が捧げられていた。この祭りがヤマト王権にとって大 変重要であったことがわかる。
この頃のムナカタにはヤマト地方に匹敵するような大きな古墳はなかったし、これほど豪華な出土品も見つかっていない。したがって、この祭りを主催していたのはヤマト王権であったというのが通説となってきた。その場合でももちろん、この島をわが庭としていた宗像海人族と彼らを率いる首長の参加もしくは協力がなければ、この祭りはできなかったであろう。そして祭りの対象はこの島の神、すなわち宗像神と考えられる。

岩上祭祀でも、、5世紀はじめから半ばと考えられている21号遺跡になると、これまでの鉄器などの実用品のほかに、祭祀用に作った雛形品が見られるようになる。ここで注目されるのはされるのは、鉄鋌(てっつい)と呼ばれる鉄の薄板が加わったことである。この頃まだ日本では本格的な鉄の生産は始まっていなかった。したがって武器や農耕具に必要な鉄は、基本的に朝鮮半島の南東部、主に現在の釜山から慶州にかけての地方から輸入していた。鉄鋌鋌はその素材の候補と考えられてきた。沖ノ島では、全体で、約20枚が出土している。

岩上祭祀  

【解説】
4段階のなかで、最も古い遺跡です。「岩上」と呼ばれるとおり、上方に何もない岩の上で行う祭祀で原始的な祭祀です。
ここで磐座とは、
古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。”
(Wikipediaより)

私たちは神社というと、現在の神社のように鳥居があり、その奥に社殿がある姿を、思い浮かべます。そしてその社殿に向かってお祈りするわけですが、もともとの神社とはそうではなく、御神体とは山であったり、岩であったりでした。磐座もその一つです。

さて矢田氏は。
”ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100~140 m 級)からの出土品と品目が似ている。”
と述べてから、
この祭りがヤマト王権にとって大 変重要であったことがわかる。”
と断言してますが、これはあまりにも乱暴ではないでしょうか。

もしヤマト王権がこの祭祀を執り行っていたとしたら、当然本家本元の畿内にもこれと同等、あるいは上回る祭祀遺跡があってしかるべきです。それがないという事実がありながら、前期前方後円墳の出土品と品目が似ているだけの理由で、ヤマト王権と関係づけるのは、いかがなものでしょうか。

②岩陰祭祀(5世紀後半から6世紀)
5世紀後半から6世紀になると、祭祀は空中に張り出している巨岩の陰で行われるようになる(一部は7世紀に下る)。調査された遺跡は11箇所に上り、この頃最も頻繁に祭祀が行われていたらしい。この時期になると、捧げものに珍しい舶来品が目立つようになる。
目玉の一つは、切金の装飾のある純金の指輪である。この頃の日本では指輪をつける風習がなく、ほとんど出土例がない。朝鮮半島の墓からは多く出土するが、このような見事なものはあまり見あたらないという。朝鮮半島の最高級の工芸品が、ここにささげられたのである。

もうひとつの例は、カットグラスの碗(切子碗)の破片で、東アジアではきわめてカットグラスの碗(切子碗)の破片で、東アジアではきわめて珍しいものである。この種のガラス容器には二系統あるが、沖ノ島出土品は6世紀後世紀後半栄えたササン朝ペルシャ時代のイラン製のもので、シルクロード経由で中国から伝えられたものえられたものというという。7世紀半ばにイスラム化した後は作られないので、年代が限定される。

この時期に非常に多いのは、金銅製(銅器に金メッキを施したもの)の豪華な飾り馬用馬具である。
騎馬の習慣は、4世紀に朝鮮半島から伝わった。馬具ははじめ実用的で簡素な轡や鐙のみであったが、5世紀後半頃から諸豪族が馬を権力の象徴とする風習が広まり、重くて人が乗れないのではないかと思われるほど多数の馬具で馬を飾り立てた。このような馬具はこの頃畿内を始め各地の古墳に副葬されているが、ここでは非常に精巧な細工を施した優品を見ることができる。このなかには朝鮮半島製と考えられるものが多い。
以上前半の祭祀遺物は、当時盛行した古墳のうちでも比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。そこでこの 段階を「葬祭未分離」と呼び、第3段階以降の祭祀専用の奉献物が主体となる「葬祭分離」の時期と区別している。

岩陰祭祀 

【解説】
第二段階は、岩陰祭祀です。岩上祭祀と何が違うかというと、岩上遺跡は上方に何もない岩の上で行うだったのに対して、岩陰祭祀の場合は、上方に岩がせり出ていて祭祀の場を覆う形になっていることです。
注目は、
純金の指輪、
カットガラスの切子椀(ササン朝ペルシャ製)

です。
日本ではほとんど出土していないものです。なぜそれほどまでにきわめて貴重な品が沖ノ島だけに残されていたのか、という疑問がますます大きくなりますね。
それに触れずに、
”金銅製(銅器に金メッキを施したもの)の豪華な飾り馬用馬具が、比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。”
というあいまいな根拠から、ここでも畿内王権との関係に結びつけてしまってます。
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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