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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(5)~祭祀の第3段階

祭祀の第3段階です。

③半岩陰・半露天祭祀(7世紀から8世紀前半)
7世紀から 8 世紀前半になると、祭祀は岩陰から路地にはみ出してくる。これはより広い祭祀の場所が必要になったためと推測されている。祭祀跡は 2 箇所が調査されている。
この頃の出土品には、沖ノ島 でも一二を争う珍品、一対の金銅製竜頭が ある。これは全長約 20 cm 重さ約 1.7 kg という大きなもので、金メッキがかなりよく残っ た 見事なもの である。中 国西域の敦厚 の よく似た竜頭の絵によって、旗や貴人を覆う傘を吊り下げる金具であることがわか り 中国製と考えられてきた 。 その後朝鮮半島でも同様の竜頭が見つかった 。
唐三彩の花瓶の破片も特筆に価する。唐三彩とは、中国の唐時代の限定された時期にのみ作られた、赤・緑・白の三色の美しい陶器である。これまで出土したほとんどすべてが、西安と洛陽にある墓の副葬品である。中国以外で唐三彩が出土することはまれで、わが国ではこれが始めての発見例であった。
この頃になると、祭祀専用に作られた雛形祭具が多くなる。金銅製の琴・ 人形・数々の紡織具など、金銅製または鉄製の刀などの武器や 鈴などさまざまである。紡織具のなかには、精巧なミニチュアの機織機「金銅製高機(だかはた)」がある。これらは、伊勢神宮に伝えられてきた律令制下での儀式についての絵図など、古文書の記載とよく一致しているものが多い。しかし日本の国家祭祀の 中心伊勢神宮にも、これだけのまとまった遺品は伝えられていない。依然としてヤマト王権が、 沖ノ島 祭祀を国家的行事と位置づけていたことがわかる。
特には、神功皇后伝説にあるように、指導者が神託を受けるために神を呼び出す重要な役割を担っていた楽器である。また機織機や多数の紡織具は女神への祭祀を示していて、 宗像神との関係を思わせる


半岩陰・半露天祭祀1 
半岩陰・半露天祭祀2
【解説】
第三段階で、岩陰から路地にはみ出してきます。
ここにきわめて特異な「一対の金銅製竜頭」があります。
”旗や貴人を覆う傘を吊り下げる金具である”とありますが、これは下の絵をみていただくとよくわかります。

敦煌竜頭絵

貴人の上に傘がさされてますが、その竿の先についているものがあります。それが竜頭だというのです。

ところがことはそう簡単ではありません。1.7kgもの重さのあるものを、あの先端につけられるものなのか、という問題です。ずっと持って歩くお付きの人もたいへんです。

実際これには異論が出てます。元大阪市立美術館の学芸課長の秋山進牛氏が、
「あの龍頭は、幡(はた、のぼり)の上につけたものだ、ということになってますが、どうもそうではないみたいですよ。持ってみるとズッシリと重く、とてもあんな風にしだれた竿の先にぶらさげることのできるようなものではありませんね。」と述べてます(「ここに古代王朝ありき」(古田武彦)より)。
ちなみに秋山氏は、「中国東北地方の初期金属器文化様相」などのすぐれた論文で有名な考古学者だそうです。

ではあの竜頭はどのように使用されたのか?。
続けて秋山氏が述べてます。
「これは玉座か何かの両脇の直立棒の上にガッチリ据えられていたものですね。」
確かにこれなら、安定する感じがしますね。

古田氏はここからさらに鋭い考察をしてます。
この竜頭が、大宰府にある観世音寺の鐘のものと似ているというのです。観世音寺は、7世紀中頃に創建された古い寺です。その鐘は、日本最古の鐘として知られてます。

またほぼ同じ形の鐘が、京都の妙心寺にもあります。
森貞次郎氏は「筑前観世音寺鐘考 ―とくに唐草図文を中心として―」のなかで、この両鐘はほとんど同一の企画によって同一工房において製作されたと述べてます。

妙心寺鐘の内側には陽鋳された次の銘がありす。

戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘


ここから妙心寺の鐘は筑紫の糟屋評が命じて造ったのであることがわかります。

また観世音寺鐘には「上三毛」の陰刻があり、豊前の国にあった上三毛郡が 関係していることがわかります。

両鐘とも北部九州の地で製作されたことは間違いありません。

<観世音寺鐘>
観世音寺鐘 

(太宰府天満宮ドットコムより)


確かに鐘の頂にある双龍は、沖ノ島出土の竜頭と似ているように見えます。そして鐘の双龍が北部九州で製作されたものなら、沖ノ島の竜頭が北部九州で製作されたと考えても、不自然ではありませんね。

もうひとつ金銅製も注目です。琴は正倉院にもありますが、絃の数が6絃です。一方沖ノ島の琴は、5絃です。絃の数などどうでもいいではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。琴は祭儀に不可欠なものです。絃の数が異なるということは、音階も異なることになり、ここから沖ノ島と畿内は異なる祭祀だったのではないか、という疑いが生まれるわけです。

中国史書「隋書倭(原文は「俀(たい)」)国伝」に

楽有五絃琴
(現代訳)
”(倭国の)音楽には五絃の琴と笛がある”

という記載があるように、倭国では琴は五絃でした。私は、倭国の中心は北部九州と考えてますから、北部九州の琴は五絃だったことになります。

実際に、筑紫の君磐井の墓とされる八女市の岩戸山古墳から、5絃の埴輪琴が出土してます(「沖ノ島古代祭祀遺跡の再検討3」(小田富士夫)P9より)。つまり少なくとも沖ノ島と筑後地域とは同じ祭祀文化であったと考えられるわけです。

また機織機「金銅製高機(だかはた)について、
”伊勢神宮に伝えられてきた律令制下での儀式についての絵図など、古文書の記載とよく一致しているものが多い。しかし日本の国家祭祀の 中心伊勢神宮にも、これだけのまとまった遺品は伝えられていない。とあります。
普通であれば、”だから当時伊勢神宮を管轄するヤマト王権とは直接の関係はなかった。”との可能性を想定すべきです。ところが論文では、
”依然としてヤマト王権が、 沖ノ島 祭祀を国家的行事と位置づけていたことがわかる。”
と断定してます。

いかがなものでしょうか?。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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