沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(6)~祭祀の第4段階
祭祀の最終段階です。
④露天祭祀(8世紀半ば~ 世紀)
8世紀半ば以降、祭祀は巨岩群から離れた露天で行われるようになる。これ以前の祭場は一回しか使われなかったと考えられてきたが、この時期には同じ場所 1 号遺跡) が繰り返し使われて いる。
遺物にはもはや舶来の貴重品は見られなくなり、他の祭祀遺跡とも共通する品々が主になってくる。めぼしいものとして、奈良三彩の小壷がある。奈良三彩は唐三彩を真似して日本で作られ た陶器で、正倉院の御物にも多く、全国のいくつかの祭祀遺跡等から出土している。
このころ多い出土品は、石製(滑石製)の人形(ひとがた)、 馬形(うまがた)、 舟形(ふながた)などのささげものである。特に舟形が 100 点以上と多く、この地域の漁業または航海関係者がそれぞれ自分の思いを託してささげたと考えられる。国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきていることがわかる。

【解説】
第4段階は、8世紀半ば以降から9世紀末までで、祭祀の最終段階です。”舶来の貴重品は見られなくなり”とあるとおり、これまでの豪華絢爛な遺物はみられなくなります。つまり地味になった、ということです。
こうしたことから、矢田氏は、”国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきている”と述べてます。
事実としてはこれでいいのですが、ここで大きな疑問が浮かびます。
すなわち、豪華絢爛たる第3段階の祭祀が終了した8世紀前半と、地味な第4段階が始まった8世紀半ばとの間に、何か大きな画期があったのではないか、という疑問です。
これは、祭祀がなぜ行われたか、という点と関係してくる問題です。
一般的には、論文中でも、
”祭祀の目的として、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解が多い。これには 894 年の遣唐使の廃止と同時期に大規模祭祀が終焉を迎えることがその根拠の一つとなっている。”
と述べられているように、遣隋使や遣唐使などにともなう航海安全祈願祭祀とされてます。
ではそれで説明しうるでしょうか?
はじめに遣唐使の実態についてみてみましょう。
「遣唐使・その航海」(上田雄、海事博物館研究年報、39:16-23)からです。
論文によると、派遣回数や遣唐使大使などの実態はほとんど知られておらず、その理由は専門の研究者が少ないから、とのことです。意外ですね。
派遣回数は研究者によりまちまちで、論文では630年から838年までの15回としてます。
そして目的ですが、
◆前期 第1回(630年)~第4回(659年)
・仏教とその文化の摂取・中央集権国家制度の輸入
◆中期 第5回(665年)~第6回(669年)
・唐と朝鮮半島の百済・新羅・高句麗をめぐる国際情勢への対応外交、唐との対立解消外交
◆後期 第7回(702年)~第15回(838年)
・唐文化・政治・経済・仏教・娯楽等の百貨店的輸入
と3段階に分けてますが、”普通、遣唐使という場合はほとんど後期のものを指します。”
と述べてます。
このように遣唐使として、華々しい交流があったのは8世紀以降であり、これはまさに豪華絢爛たる沖ノ島祭祀の第3段階が終わり、地味な第4段階が始まった時期です。
この矛盾をどのように説明しうるのか、という問題があるわけです。
こののち論文では航路について解説してます。
”遣唐使の航路として考えられるのは、前期・中期の北路と後期の南路だけである。”と述べてます。
◆北路
博多⇒壱岐⇒対馬⇒朝鮮半島南岸⇒甕津半島⇒山東半島⇒登州⇒(陸路)⇒長安
◆南路
博多⇒五島列島⇒東シナ海横断⇒長江河口部或いは杭州湾沿岸⇒(陸路)⇒長安
さて、このルートのなかに沖ノ島がないことにお気づきでしょうか。
そうです。遣唐使のルートには沖ノ島はないのです。これをどのように説明しうるのか、という第二の問題があります。
となると、従来の定説である、「ヤマト王権が、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解」についても、大きな疑問が生じるのではないでしょうか?。
論文ではさらに興味深い指摘をしてます。
皆さんははかつて歴史の教科書などで、”遣隋使・遣唐使の時代は、日本の航海技術が進んでいなかったので、難破する船が多かったなど、苦難の旅だった。”と習いませんでしたか?
有名な話は鑑真でしょう。幾度も渡航を試みましたが、暴風雨にあうなどなかなか叶わず、途中両目失明など苦難の末、754年に奈良に到着しました。
こうしたことから私たちは知らず知らずのうちに、日本の航海技術が未熟だった、と思い込んでます。
実際学会でも、”唐や新羅の船は季節風を利用して航海していたが、日本の遣唐使船は季節風の存在を知らず、逆風期にやみくもに海を渡ったので、ほとんど例外なく遭難していた。”とする森克巳氏の説があります。
こうした見方に対して、上田氏が厳しく否定してます。
詳細は省きますが、まとめにおいて、
”造船技術といい、帆走技術といい、また、季節風の利用といい、従来の定説が唱えていたような稚拙なものではなく、高度な技術が用いられていたことを類推できます。”
”従来の定説については、それが実績に基づいた科学的なものではなく、極めて観念的、かつ自虐的であり、非科学的なものであったようです。”
と締めくくってます。
こうしたことは、古代史全体についてもいえるように思えますが、いかがでしょうか?。
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④露天祭祀(8世紀半ば~ 世紀)
8世紀半ば以降、祭祀は巨岩群から離れた露天で行われるようになる。これ以前の祭場は一回しか使われなかったと考えられてきたが、この時期には同じ場所 1 号遺跡) が繰り返し使われて いる。
遺物にはもはや舶来の貴重品は見られなくなり、他の祭祀遺跡とも共通する品々が主になってくる。めぼしいものとして、奈良三彩の小壷がある。奈良三彩は唐三彩を真似して日本で作られ た陶器で、正倉院の御物にも多く、全国のいくつかの祭祀遺跡等から出土している。
このころ多い出土品は、石製(滑石製)の人形(ひとがた)、 馬形(うまがた)、 舟形(ふながた)などのささげものである。特に舟形が 100 点以上と多く、この地域の漁業または航海関係者がそれぞれ自分の思いを託してささげたと考えられる。国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきていることがわかる。


【解説】
第4段階は、8世紀半ば以降から9世紀末までで、祭祀の最終段階です。”舶来の貴重品は見られなくなり”とあるとおり、これまでの豪華絢爛な遺物はみられなくなります。つまり地味になった、ということです。
こうしたことから、矢田氏は、”国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきている”と述べてます。
事実としてはこれでいいのですが、ここで大きな疑問が浮かびます。
すなわち、豪華絢爛たる第3段階の祭祀が終了した8世紀前半と、地味な第4段階が始まった8世紀半ばとの間に、何か大きな画期があったのではないか、という疑問です。
これは、祭祀がなぜ行われたか、という点と関係してくる問題です。
一般的には、論文中でも、
”祭祀の目的として、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解が多い。これには 894 年の遣唐使の廃止と同時期に大規模祭祀が終焉を迎えることがその根拠の一つとなっている。”
と述べられているように、遣隋使や遣唐使などにともなう航海安全祈願祭祀とされてます。
ではそれで説明しうるでしょうか?
はじめに遣唐使の実態についてみてみましょう。
「遣唐使・その航海」(上田雄、海事博物館研究年報、39:16-23)からです。
論文によると、派遣回数や遣唐使大使などの実態はほとんど知られておらず、その理由は専門の研究者が少ないから、とのことです。意外ですね。
派遣回数は研究者によりまちまちで、論文では630年から838年までの15回としてます。
そして目的ですが、
◆前期 第1回(630年)~第4回(659年)
・仏教とその文化の摂取・中央集権国家制度の輸入
◆中期 第5回(665年)~第6回(669年)
・唐と朝鮮半島の百済・新羅・高句麗をめぐる国際情勢への対応外交、唐との対立解消外交
◆後期 第7回(702年)~第15回(838年)
・唐文化・政治・経済・仏教・娯楽等の百貨店的輸入
と3段階に分けてますが、”普通、遣唐使という場合はほとんど後期のものを指します。”
と述べてます。
このように遣唐使として、華々しい交流があったのは8世紀以降であり、これはまさに豪華絢爛たる沖ノ島祭祀の第3段階が終わり、地味な第4段階が始まった時期です。
この矛盾をどのように説明しうるのか、という問題があるわけです。
こののち論文では航路について解説してます。
”遣唐使の航路として考えられるのは、前期・中期の北路と後期の南路だけである。”と述べてます。
◆北路
博多⇒壱岐⇒対馬⇒朝鮮半島南岸⇒甕津半島⇒山東半島⇒登州⇒(陸路)⇒長安
◆南路
博多⇒五島列島⇒東シナ海横断⇒長江河口部或いは杭州湾沿岸⇒(陸路)⇒長安
さて、このルートのなかに沖ノ島がないことにお気づきでしょうか。
そうです。遣唐使のルートには沖ノ島はないのです。これをどのように説明しうるのか、という第二の問題があります。
となると、従来の定説である、「ヤマト王権が、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解」についても、大きな疑問が生じるのではないでしょうか?。

論文ではさらに興味深い指摘をしてます。
皆さんははかつて歴史の教科書などで、”遣隋使・遣唐使の時代は、日本の航海技術が進んでいなかったので、難破する船が多かったなど、苦難の旅だった。”と習いませんでしたか?
有名な話は鑑真でしょう。幾度も渡航を試みましたが、暴風雨にあうなどなかなか叶わず、途中両目失明など苦難の末、754年に奈良に到着しました。
こうしたことから私たちは知らず知らずのうちに、日本の航海技術が未熟だった、と思い込んでます。
実際学会でも、”唐や新羅の船は季節風を利用して航海していたが、日本の遣唐使船は季節風の存在を知らず、逆風期にやみくもに海を渡ったので、ほとんど例外なく遭難していた。”とする森克巳氏の説があります。
こうした見方に対して、上田氏が厳しく否定してます。
詳細は省きますが、まとめにおいて、
”造船技術といい、帆走技術といい、また、季節風の利用といい、従来の定説が唱えていたような稚拙なものではなく、高度な技術が用いられていたことを類推できます。”
”従来の定説については、それが実績に基づいた科学的なものではなく、極めて観念的、かつ自虐的であり、非科学的なものであったようです。”
と締めくくってます。
こうしたことは、古代史全体についてもいえるように思えますが、いかがでしょうか?。
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