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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(7)~謎の1 なぜ沖ノ島か?

前回、沖ノ島祭祀は4世紀後半から9世紀末までの期間にわたり、4つの段階に分かれていることをお話ししました。論文では、ここから祭祀の特徴について述べてます。長文になりますが、たいへんよくまとまっているので、引用させていただきます。

”上記調査報告は、沖ノ島 祭祀の現在の神社祭祀と大きく異なる特徴を二つ挙げている。

第一は、はっきりとした四つの画期があ ることである。祭 祀の内容や考え方が、画期ごとに大きく移り変わっていったことが出土物から読みとれるとする。

第二は、発見された23 の祭祀遺跡のうち、最終段階の露天祭祀の 1 3 号遺跡を除く他の場所では、それぞれ一回の祭祀しか行われていないと考えられたことである。そして 14 号遺跡は 20 号遺跡の遺物が落ちてきたものと結論されているので、 4 世紀後半から 8 世紀前半までの約 400 年間に、 19 回の祭祀が行われたにすぎないことになる。
これは毎年少なくとも1 回、あるいは複数回同じ場所で定期的に行われる神社の 祭りとは大きく異なる点である。約 20 年に 1 回というのは、古代ではほぼ一世代に相当する。文字通り一世一代の祭が、 沖ノ島 で盛大に 行われたのである。一世一代ということは、古墳の造成と同じ感覚である。実際、初期の祭祀遺物は、古墳に副葬または奉献された品々の組み合わせとよく似ていた。よく言われるように、ヤマト王権が主体となってこの祭が行われたという考え方をとると、大王が変わるたびに行われたのではないかと考えることもできる。この間隔は、伊勢神宮の遷宮の間隔とほぼ同じであることも注目される。”

【解説】
他の神社と異なる特徴として、
1.はっきりとした4つ画期があること
2.20年に一回と少ないこと
を挙げてます。
ここからヤマト王権の王が変わるたびに行われたのではないか、と述べてますが、はたしてそのようにいえるのか、みていきましょう。

その前に、沖ノ島祭祀の謎について整理します。

1.なぜ沖ノ島 か
”いずれの陸地からも 50 km 以上離れたこの絶海の孤島に、なぜ祭祀遺跡としては他に類のない豪華な遺物が多量に残されていたのか。特に第一段階の岩上祭祀開始の理由が最大の謎と言えよう。朝鮮半島への海上ルートとしては、弥生時代あるいはそれ以前から開発されてきた壱岐ー対馬を通る安全な「魏志倭人伝ルート」があるのに、なぜそれから外れた 沖ノ島 に豪華な品々がささげられたのか。 沖ノ島 から対馬までは 最短 70 km あり、手こぎの一日の行程としては極限に近い。
『書紀』に「海北道中」を護るようにというアマテラスの神勅があるが、その 他 の 史料 には、 沖ノ島 が渡 海の要地であったことを示す記述は全くない。朝鮮半島との交渉の記録は第 10 代崇神天皇の時期に初めて現れるが、一般に航海の経路は書かれていない。

第15 代応神天皇の母である神功皇后(実在とすれば 4 世紀後半の人物と考えられる)が「三韓征伐」で朝鮮半島に渡る際には、福岡市東区の香椎の宮殿から出発して 糸島半島 を経由し、最終的に対馬北端の 鰐浦(わにのうら)から朝鮮半島に渡ったと 記 されている。 5 世紀末の人物と推定される第 23 代顕宗天皇の時代にも、 任那(みまな)への使が壱岐と対馬に立ち寄ったと記録されている。
このようなことから、多くの歴史家は沖ノ島 を通る公式の海の道は存在しなかったと考えている。

でもそれでは、沖ノ島 の祭祀跡をどうして説明するのか。最近韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡が、同様な航海路上の祭祀遺跡として注目されている  。 沖ノ島 ほど豪華な遺物は見られないが、 沖ノ島 露天祭祀と共通する遺物が多数発見されている。この遺跡は、韓国西海岸から山東半島への渡海ルートの途上にある要地である。
国内の他の航海路上の古代祭祀遺跡としては、瀬戸内海中央の大飛島(おおびしま)と伊勢湾出口の神島があるが、これらも航路上の要地にある。いずれからも、 沖ノ島 の露天祭祀の時期に、 沖ノ島 と同様の 奈良三彩などの遺品が出ている。 沖ノ島 だけが、航路からはずれた祭祀専門の場所なのであろうか。


[解説]
まずは航海ルートの謎です。
通説では、沖ノ島ルートがあったかのように解説してます。

沖ノ島ルート


ところが論文にあるとおり、魏志倭人伝には、「邪馬台国~糸島~壱岐~対馬~韓国南岸~帯方郡」というルートが記載されてますが、沖ノ島はこのルートから大きく外れてます。古事記・日本書紀にも、沖ノ島を経由した航路の話は、一切出てきません。
前回お話ししたように、遣隋使、遣唐使の航路も、沖ノ島からは大きく外れてます。こうした事実から、
”多くの歴史家は沖ノ島 を通る公式の海の道は存在しなかったと考えている”
とあるのも、当然でしょう。

ではこうした事実と沖ノ島祭祀をどのように説明するのか、です。

もちろん「博多~畿内」というルートがあり、その途上に沖ノ島があるので、その際に立ち寄ったのだ、ということもいえなくはありませんが、朝鮮半島へ渡海する際の主たるルート上にないことにかわりはなく、なぜ沖ノ島か?、という問いの答えにはならないでしょう。

遣唐使航路 

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韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡

>でもそれでは、沖ノ島 の祭祀跡をどうして説明するのか。最近韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡が、同様な航海路上の祭祀遺跡として注目されている 。

〇たいへん興味深い記事でした。
 韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡との関連で観ると、百済と倭の五王との関係などが観えてくる感じがしました。おそらく、4世紀当初は大和政権との関係はない感じがします
 草々

Re: 韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡

レインボーさんへ
ありがとうございます。

>  韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡との関連で観ると、百済と倭の五王との関係などが観えてくる感じがしました。おそらく、4世紀当初は大和政権との関係はない感じがします

その可能性が高いでしょうね。



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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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