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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(8)~謎の2・3 祭祀の目的と歴史上の空白期間の謎

前回は、「なぜ沖ノ島が祭祀の場所として選ばれたのか?」という謎についてでした。謎は続きます。

2.祭祀目的の謎
発掘のはじめの段階から、この遺跡が一地方豪族の祭祀跡とはとても思われず、また出土品の内容がいわゆる「畿内」の古墳出土品と似ていることなどから、ヤマト王権が主催した祭祀であるとされてきた。ヤマト王権は、この祭祀開始の頃までには日本を代表する政治権力に成長したと一般に考えられている。
そして祭祀の目的として、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解が多い 。これには 894 年の遣唐使の廃止と同時期に大規模祭祀が終焉を迎えることがその根拠の一つとなっている。

しかし上述のように、 沖ノ島 を通るルートの存在を示唆する記事は、 史料に 全く現れない。遣隋使や遣唐使の行路について最も早い記述は、『隋書倭国伝』が伝える 裴世清(はいせいせい)
記録である。裴世清は、遣隋使の小野妹子に随伴して 608 年来日した。これ に は「魏志倭人伝ルート」が明記されている 。このルートは「北 路」と呼ばれ、『書 紀』にある第 3 回の遣唐使帰国の記事もこのルートを示すと理解されている。さらに 659 年の第 4回遣唐使(以下派遣回数は上田雄 による)からはこのルートも通られなくなり、 702年の第 7 回以降は当初から五島列島から東シナ海を横断して直接中国大陸を目指す、「南路」がもっぱら用いられるようになった。「海北道中」とは、全く関係がなくなったのである。
それにもかかわらず、 沖ノ島 祭祀は中断されることなく続けられた。

【解説】
前回の謎にも関連しますが、「沖ノ島祭祀は、何を目的として行われたのか?」という疑問です。
矢田氏が指摘のとおり、沖ノ島を通るルートの存在を示唆する記事は全くない、といっていい状況です。しかも遣唐使において「南路」が用いられるようになったにもかかわらず、沖ノ島祭祀は中断することなく行われてます。だれもが抱く疑問です。
この謎に対して、通説は皆が納得しうる答えを提示できていません。

最近、沖ノ島祭祀遺跡の傑出性と九州から朝鮮半島への渡海経路を両立させる解釈が提唱されてます。以下、「寄船・寄物と宗像沖ノ島祭祀遺跡」(伊藤慎二)からです。

”これらの仮説では,特に4世紀の倭による百済派兵航路に関連して,沖ノ島を航海安全祈願や飲料水の補給などの中継地として, 従来の壱岐・対馬経路に加えて,宗像周辺の北部九州から朝鮮半島南部を最短距離で直接結ぶ航路の発達を想定する。

しかし,この航路は,白石太一郎が指摘するように,近代以降の航海技術に基づく動力船の就航が前提の下関・佂山間の航路に近似する(白石 2011:185頁)。また,沖ノ島に給水や天候回復待ち目的などで多数の船舶が一時寄港する場合,充分な大きさの港湾確保や多数の人員の一時上陸滞在空間,さらには多量の飲食料の補給を,定住者と生産食料がほとんどない沖ノ島が単独で担うことになり,現代でもかなり難易度が高いように思われる。沖ノ島祭祀遺跡が傑出した国家的祭祀の場になった要因は,さらに他の側面についても検討する余地があると考えられる。”


対外交渉ルート 
【解説】
沖ノ島を、”航海安全祈願や飲料水の補給などの中継地”と位置づける説です。一応もっともらしく聞こえますが、そうはいきません。
沖ノ島にて、”充分な大きさの港湾確保や多数の人員の一時上陸滞在空間,さらには多量の飲食料の補給”をしなくてはいけませんが、極めて困難だというのです。そもそも沖ノ島には、その機能を果たせるだけの港遺構は発見されてません。となると、あくまで「想像による説」ということにならざるをえません。


3.古代ムナカタ史の空白の謎
沖ノ島 祭祀についてもう一つの大きい謎は、祭祀後半の段階が歴史 時代に入るにもかかわらず、ムナカタがほとんど歴史に現れ ないことである。ムナカタが記紀に登場するのは、神の名としてだけである。朝鮮半島や大陸を含むその他の歴史書にも、全くムナカタは出てこない。
『書紀』には、古墳時代に当たると考えられる時期に、ヤマト王権と北部九州地方との間に起きたきわめて重要な事件が、幾度も出てくる。

いわゆる「神武東征」は別としても、景行天皇の九州遠征、すぐ続いてその子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の九州遠征、さらにその子の仲哀天皇と神功皇后の九州遠征と引き続く朝鮮半島遠征、さらに継体天皇治世時の大事件であった「磐井の乱」と続く。これらの記事の中で、ムナカタは全く触れられていない。
なかでも、神功皇后の北部九州からの半島出兵の際には、志賀の海人と住吉の神が出てくるのに、宗像の神または海人が出てこないのは、不思議である。

前記のように、国内外の文献に沖ノ島 祭祀開始の頃に倭軍の半島派兵の記録があり、また特に岩陰祭祀の時期に新羅系の出土品が 多いことなどから、半島出兵に当たっての戦勝祈願と戦利品 の奉献が 沖ノ島 祭祀の重要な動機と考える人も多い。上記遣唐使ルートの変更も、 7 世紀末の新羅の半島統一と、その後の新羅との関係冷却がその背景にあることが指摘されている。そして 8 世紀の国内記録にも、新羅とその海賊への敵視と、その調伏のため九州などの諸社への遣使がしばしば現れる。

しかしそこには宗像社の名は見えない。「神功皇后伝説」に全く宗像神の貢献が見えないことも、宗像神が対半島の「軍神」として評価されていなかったことを裏付ける(ただしこのことは、 沖ノ島 への奉献 品の中に「戦利品」が入っている可能性を否定するものでは ない)。

解説
3番目の謎は、これも大きな謎です。もし沖ノ島祭祀がヤマト王権の国家祭祀として位置づけられ、執り行われたのであるなら、ヤマト王権の正式な史書である古事記・日本書紀にも、それを示す記載があっていいはずです。しかしながら、それは全くありません。あるのは「ムナカタの神を祭った」という記載ぐらいですが、それとて祭ったのは、胸肩の君、水沼の君などと記載されているだけです。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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