沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(9)~謎の4・5 祭祀場所と出土品の謎
謎の3回目です。
4.祭祀遺跡は祭祀場所か
上記の調査報告中にあるように、23 の祭祀遺跡全てが祭祀の行われた場所ではない。たとえば「御金蔵」と呼ばれる 4 号遺跡は、岩陰遺跡に数えられるが岩陰の高さは 1 m 程度で、とうてい祭祀が行える空間ではなく、その通称からも奉献品の収納場所と考えられる。また 14 号遺跡は、後に 20 号遺跡の奉献品が流出したものとされ、独立した遺跡とは見なされていない。これらを除いても、『続沖ノ島』の鏡山猛調査団長による結びでは、I 号巨岩上とその周囲の 16-19 号遺跡について、「(16・17 号遺跡では)遺物の所在地は納置だけしか考えられない」とし、実際に祭祀が執行された場所として、(17 号遺跡とは I 号巨岩の反対側にある)19 号遺跡は「誠に格好の態勢にある」上に「祭壇前には広場がある」ので、ここが 16-19 号の一連の遺跡の祭祀の場ではないかという推定を述べている(以上図 5 参照)。
ただし同氏が書くように、草木繁茂する遺跡周辺では、広場が祭祀の場であったことを証明することは困難である。特に 17 号遺跡は、祭祀遺物の載る場所はわずか約 1.5 m2ほどの面積で、そこに 21 枚の青銅鏡をはじめ豊富な遺物が積み重なっていた。上記の供献品から分かるように祭祀には多くの人々が参加したと考えられるが、とてもそれらの人々が参列できる場所ではない。従ってこの部分の執筆者(賀川光夫・原田大六)も、「17 号遺跡は、祭祀終了後、その祭器をI号巨岩に供献した姿を積石遺跡として遺存したのではないかと考えられる」と述べている。
また調査員の一人弓場紀知も、21 号遺跡以外の 17 号遺跡などの岩上祭祀遺跡はあまりにも狭くかつ不安定な場所が多く、全体として個々の祭祀遺跡を祭場と考えることは必ずしも適当ではないと考えている。
一方他の遺跡から離れた M 号巨岩付近の 22 号遺跡(半岩蔭・半露天)では、明確な祭場の区画が示されていて、祭祀品の主体である金属製祭祀用具は、祭場の造出しというべき位置の石囲いの中に埋められていたことを報告している。
以上のように、1 号以外の遺跡についても、1 遺跡 1 祭祀の考えで祭祀の回数とその時期を推定することが難しい場合が多い。
【解説】
祭祀遺跡が必ずしも祭祀を行った場所とは限らない、という話です。たとえば17号遺跡について、祭祀終了後にその祭器を1号巨岩に共献したものではないか、というわけです。このように「1遺跡=1祭祀」とは限らないのではないか、と推測してます。
このことがなぜ重要かというと、500年にもわたる沖ノ島祭祀がその間何回程度行われたのか、という問いに関係してくるからです。
5.出土品の多さと類多性の謎
前記調査報告書で出土品の内容を詳しく見ると、疑問がいろいろ湧いてくる。もっとも理解しにくいのは、同種の奉献品の数の多さと雑多さである。『続沖ノ島』で主執筆者の一人原田大六が指摘しているように、一回の祭祀に多種多様な奉献品があるばかりではなく、品目によってはおびたしい数が捧げられていることである。原田はこれを「類多性」と呼んだ。たとえば 17 号遺跡では、21 面の青銅鏡が発見された。同じ時期の前期古墳には鏡の副葬が多く、20 面以上を出土した例もかなりある。このため有力者を墳丘に葬ると同様の祭祀を行ったと考えられてきた。しかしそのような多数の鏡を出した古墳と比べると、内容はかなり異なる。
たとえば『続沖ノ島』が挙げる京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳では、36 面の鏡のうち鏡種の分かる 32 面すべてが三角縁神獣鏡であり、うち 26 面は品質が優れているため舶載鏡(中国からの輸入鏡)と言われている。
これに対して 17 号遺跡では、最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、7 種類もの鏡が見付かっている。しかも品質がまちまちである。
原田は多くの視点から 21 面の鏡を 5 段階に分けて評価しているが、最高の A ランクはわずか 3 点である。以下Bが 3 面,Cが 4 面, Dが6 面と続き、最低の E ランクが 5 面もある。一体 なにを表したのかわからないような文様の鏡が多く、 すべて 仿 製(ぼうせい)鏡(中国鏡を真似した国産鏡)とされ てい る。
このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。
別の例では、7・8 号遺跡の金銅製馬具類がある。対応する時期の中・後期古墳では、鐙(
あぶみ)、轡(くつわ)、鞍(くら)、装飾の金具類などが、1 頭分または 2 頭分セットで出るのが普通である。ムナカタでも、5 世紀後半の勝浦井ノ浦前方後円墳でだいたい 2 セット分の馬具一式が、 6 世紀初頭の田久瓜ヶ坂 4 号墳でも 1 セットが出土している。
これに対して、沖ノ島から出土した馬具は、特定の飾金具が偏って多数出土している。特に多いのは、雲珠(う ず)と呼ばれる馬のお尻の上に置く飾金具である。これが 7 号遺跡から実に 58 個、8 号遺跡からも 19 個も発見されている。7 号では轡が 1 個と鞍が 2 個、8 号遺跡では鞍が 1 個しか出ていないので、雲珠があまりにも多すぎる。
飾りにぶら下げる杏 葉(ぎょうよう)も、7 号遺跡から 25 枚も出ている。またそれらの内容を見ると、様々な様式のものが混在している。原田が指摘しているように、杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくりで、この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。この指摘は、きわめて重要なことを示唆していると思われる。
出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。このことはウケイ神話の神々がムナカタとその周辺に祭られていることとも整合する。
以上のように、沖ノ島祭祀遺跡は従来の定説で十分説明できない多くの特徴をもつ。
【解説】
この謎も、大きな意味をもちます。同種の奉献品が「数多くかつ雑多に」存在しています。そして17号遺跡では20面も青銅鏡が発見されてます。
畿内の古墳にも同様に多数の鏡が出土してる例がありますが、その内容は大きく異なります。畿内の古墳(椿井(つばい)大塚山古墳)は、36面のうち32面すべてが三角縁神獣鏡であり、品質も優れているのに対して、17号遺跡では最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、7 種類もの鏡がありしかも品質がまちまちとのことです。
ここから矢田氏は、
”このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。”
と述べてます。
実は矢田氏は前に、”前半の祭祀遺物は、当時盛行した古墳のうちでも比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。”
と述べてますが、これと矛盾してるようです。確かに内容を吟味していくと、とても「似ている」とは言えないのではないでしょうか?。
となると、頭を白紙にして考えると、本当に沖ノ島と畿内との間に深い関係があったのだろうか?、という疑問が生まれます。
金銅製馬具類についても、同様のことがいえますね。
最後に矢田氏は、
”出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。”
と推測してます。
つまりヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀ではなく、多くの人々が参加した祭祀ではなかったか?、
という推測です。
前半部分の「ヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀」という部分は別に論ずるとして、「少なくとも多くの人々が参加した祭祀」という指摘は、きわめて重要でしょう。
ようは「単純な「国家祭祀」といえない。」ということです。
もうひとつ、
”杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくり”
という指摘も示唆的です。
”この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。”
とありますが、少なくとも、沖ノ島と古墳の被葬者との、並々ならぬ関係があったことがわかります。
★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
4.祭祀遺跡は祭祀場所か
上記の調査報告中にあるように、23 の祭祀遺跡全てが祭祀の行われた場所ではない。たとえば「御金蔵」と呼ばれる 4 号遺跡は、岩陰遺跡に数えられるが岩陰の高さは 1 m 程度で、とうてい祭祀が行える空間ではなく、その通称からも奉献品の収納場所と考えられる。また 14 号遺跡は、後に 20 号遺跡の奉献品が流出したものとされ、独立した遺跡とは見なされていない。これらを除いても、『続沖ノ島』の鏡山猛調査団長による結びでは、I 号巨岩上とその周囲の 16-19 号遺跡について、「(16・17 号遺跡では)遺物の所在地は納置だけしか考えられない」とし、実際に祭祀が執行された場所として、(17 号遺跡とは I 号巨岩の反対側にある)19 号遺跡は「誠に格好の態勢にある」上に「祭壇前には広場がある」ので、ここが 16-19 号の一連の遺跡の祭祀の場ではないかという推定を述べている(以上図 5 参照)。
ただし同氏が書くように、草木繁茂する遺跡周辺では、広場が祭祀の場であったことを証明することは困難である。特に 17 号遺跡は、祭祀遺物の載る場所はわずか約 1.5 m2ほどの面積で、そこに 21 枚の青銅鏡をはじめ豊富な遺物が積み重なっていた。上記の供献品から分かるように祭祀には多くの人々が参加したと考えられるが、とてもそれらの人々が参列できる場所ではない。従ってこの部分の執筆者(賀川光夫・原田大六)も、「17 号遺跡は、祭祀終了後、その祭器をI号巨岩に供献した姿を積石遺跡として遺存したのではないかと考えられる」と述べている。
また調査員の一人弓場紀知も、21 号遺跡以外の 17 号遺跡などの岩上祭祀遺跡はあまりにも狭くかつ不安定な場所が多く、全体として個々の祭祀遺跡を祭場と考えることは必ずしも適当ではないと考えている。
一方他の遺跡から離れた M 号巨岩付近の 22 号遺跡(半岩蔭・半露天)では、明確な祭場の区画が示されていて、祭祀品の主体である金属製祭祀用具は、祭場の造出しというべき位置の石囲いの中に埋められていたことを報告している。
以上のように、1 号以外の遺跡についても、1 遺跡 1 祭祀の考えで祭祀の回数とその時期を推定することが難しい場合が多い。

【解説】
祭祀遺跡が必ずしも祭祀を行った場所とは限らない、という話です。たとえば17号遺跡について、祭祀終了後にその祭器を1号巨岩に共献したものではないか、というわけです。このように「1遺跡=1祭祀」とは限らないのではないか、と推測してます。
このことがなぜ重要かというと、500年にもわたる沖ノ島祭祀がその間何回程度行われたのか、という問いに関係してくるからです。
5.出土品の多さと類多性の謎
前記調査報告書で出土品の内容を詳しく見ると、疑問がいろいろ湧いてくる。もっとも理解しにくいのは、同種の奉献品の数の多さと雑多さである。『続沖ノ島』で主執筆者の一人原田大六が指摘しているように、一回の祭祀に多種多様な奉献品があるばかりではなく、品目によってはおびたしい数が捧げられていることである。原田はこれを「類多性」と呼んだ。たとえば 17 号遺跡では、21 面の青銅鏡が発見された。同じ時期の前期古墳には鏡の副葬が多く、20 面以上を出土した例もかなりある。このため有力者を墳丘に葬ると同様の祭祀を行ったと考えられてきた。しかしそのような多数の鏡を出した古墳と比べると、内容はかなり異なる。
たとえば『続沖ノ島』が挙げる京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳では、36 面の鏡のうち鏡種の分かる 32 面すべてが三角縁神獣鏡であり、うち 26 面は品質が優れているため舶載鏡(中国からの輸入鏡)と言われている。
これに対して 17 号遺跡では、最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、7 種類もの鏡が見付かっている。しかも品質がまちまちである。
原田は多くの視点から 21 面の鏡を 5 段階に分けて評価しているが、最高の A ランクはわずか 3 点である。以下Bが 3 面,Cが 4 面, Dが6 面と続き、最低の E ランクが 5 面もある。一体 なにを表したのかわからないような文様の鏡が多く、 すべて 仿 製(ぼうせい)鏡(中国鏡を真似した国産鏡)とされ てい る。
このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。
別の例では、7・8 号遺跡の金銅製馬具類がある。対応する時期の中・後期古墳では、鐙(
あぶみ)、轡(くつわ)、鞍(くら)、装飾の金具類などが、1 頭分または 2 頭分セットで出るのが普通である。ムナカタでも、5 世紀後半の勝浦井ノ浦前方後円墳でだいたい 2 セット分の馬具一式が、 6 世紀初頭の田久瓜ヶ坂 4 号墳でも 1 セットが出土している。
これに対して、沖ノ島から出土した馬具は、特定の飾金具が偏って多数出土している。特に多いのは、雲珠(う ず)と呼ばれる馬のお尻の上に置く飾金具である。これが 7 号遺跡から実に 58 個、8 号遺跡からも 19 個も発見されている。7 号では轡が 1 個と鞍が 2 個、8 号遺跡では鞍が 1 個しか出ていないので、雲珠があまりにも多すぎる。
飾りにぶら下げる杏 葉(ぎょうよう)も、7 号遺跡から 25 枚も出ている。またそれらの内容を見ると、様々な様式のものが混在している。原田が指摘しているように、杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくりで、この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。この指摘は、きわめて重要なことを示唆していると思われる。
出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。このことはウケイ神話の神々がムナカタとその周辺に祭られていることとも整合する。
以上のように、沖ノ島祭祀遺跡は従来の定説で十分説明できない多くの特徴をもつ。
【解説】
この謎も、大きな意味をもちます。同種の奉献品が「数多くかつ雑多に」存在しています。そして17号遺跡では20面も青銅鏡が発見されてます。
畿内の古墳にも同様に多数の鏡が出土してる例がありますが、その内容は大きく異なります。畿内の古墳(椿井(つばい)大塚山古墳)は、36面のうち32面すべてが三角縁神獣鏡であり、品質も優れているのに対して、17号遺跡では最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、7 種類もの鏡がありしかも品質がまちまちとのことです。
ここから矢田氏は、
”このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。”
と述べてます。
実は矢田氏は前に、”前半の祭祀遺物は、当時盛行した古墳のうちでも比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。”
と述べてますが、これと矛盾してるようです。確かに内容を吟味していくと、とても「似ている」とは言えないのではないでしょうか?。
となると、頭を白紙にして考えると、本当に沖ノ島と畿内との間に深い関係があったのだろうか?、という疑問が生まれます。
金銅製馬具類についても、同様のことがいえますね。
最後に矢田氏は、
”出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。”
と推測してます。
つまりヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀ではなく、多くの人々が参加した祭祀ではなかったか?、
という推測です。
前半部分の「ヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀」という部分は別に論ずるとして、「少なくとも多くの人々が参加した祭祀」という指摘は、きわめて重要でしょう。
ようは「単純な「国家祭祀」といえない。」ということです。
もうひとつ、
”杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくり”
という指摘も示唆的です。
”この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。”
とありますが、少なくとも、沖ノ島と古墳の被葬者との、並々ならぬ関係があったことがわかります。

★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村
スポンサーサイト