沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(11)~ムナカタ古代史の不連続性
前回、鏡、石製品、蕨手刀子、鋳造鉄斧、捩り環頭太刀、装飾太刀、馬具、胴丸式小札甲などのデータから、4世紀中葉から7世紀後半にかけての祭祀の回数は20回程度であり、天皇在位数と対応するのではないか、という推測を紹介しました。
しかしながら論文でも述べているように、
”これだけでは先に見た膨大な量の祭祀遺物、 特に 5 世紀後半から7 世紀代の豪華な品々は 、 説明できそうもない。”
のであり、ここから
”それには他の歴史的イベントがあるはずである。”
と推測して、さらに究明していきます。
このあたり、真実を極めるためにこれでもかと追究していく姿勢は、いかにも理工系の学者らしい気がしますが、ともかく賞賛に値すると思います。
では論文をみていきましょう。
”ムナカタの古代遺跡には顕著な不連続性がある。
弥生時代前期前半に田久松ヶ浦遺跡等に国内最先端の先進文化が現れてから、しばらく間をおいて中期前半に1区画墓では全国一の 15 本の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡が出現する。しかしここには、古墳時代後期になって 25 棟の堀立柱建物群が作られるまで、ほとんど遺物が見られない。
ムナカタ全体で見ても、弥生時代中期後半以降古墳時代に到るまで顕著な遺跡はほとんど見られない。4世紀には中・小型の前方後円墳数基が釣川中流 域に築かれるが、 5 世紀に入ると 100 m 級の前方後円墳 2 基を含む 80 基以上(現存 60 基)の古墳群が津屋崎地区に連続して築かれる。この中に、世界遺産に登録された新原奴山古墳群が含まれる。
この流れは 7 世紀古墳時代終末期まで続き、巨大石室を持つ宮地嶽古墳に繋がる。巨石で築かれた横穴式石室の長さ 23.1 m は、橿原市の五条野丸山(見瀬丸山)古墳の石室の28.4 mに次ぐ大王級の長さである。
【解説】
ムナカタというと、古代から連綿と発展してきたように考えがちですが、そうではないようです。
・弥生時代前期前半(新編年で紀元前9世紀ころ)・・田久松ケ浦遺跡
ーーーーーーーーーー
・弥生時代中期前半(新編年で紀元前4世紀ころ)・・田熊石畑遺跡
ーーーーーーーーーー
・古墳時代前期(4世紀)・・中・小型前方後円墳築造開始
・古墳時代中期(5世紀)・・津屋崎地区古墳群
・古墳時代後期(7世紀)・・宮地嶽古墳
以上のとおり、継続的な発展を遂げるのは、古墳時代に入ってからであり、弥生時代は発展、衰退、発展、衰退、を繰り返していたというのです。
”以上のような不連続性は、古代史料中のムナカタの記述にも見ることができる。
ウケイでの三女神出生神話以降しばらく宗像神の活躍場面は見られないが、突然応神紀の 41 年に
「阿知使主らが 4 人の 工女(ぬいめ)をつれて筑紫についたところ、胸形大神が工女を所望したのでそのうちの 兄媛(えひめ)を大神に奉ってあとの 3 人をつれて帰った。ところが応神天皇は直前に亡くなっていた」
という記事が出る。
これは 5 世紀はじめ頃のことと考えられ、この頃まで宗像神は朝廷に対して強い発言力を有していたようである。
ところが応神の2 代後の履中天皇の 5 年には、筑紫の三神(宗像神と される)が宮中に現れて
「なぜ我が民を奪うのか。後悔することがあるであろう。」と脅かしたが、宮廷では祈っただけで祭りを行わなかった(「 禱(いの)りて 祠(まつ)らず」)。
古語辞典によると、イノリは神の名を呼んで幸福を求めることで、マツリは物を差し上げることが原義という。
沖ノ島 祭祀は、まさにマツリの原点である。このようなマツリを、天皇が当然継続的に 行わなければならない、とそれまで観念されていたことが分かる。それを天皇が怠ったことは、応神朝と履中朝との間に宗像神の立場の変化があり、王権にとって沖ノ島祭祀の重要度が低下していたことを示している。”
【解説】
履中天皇5年の「筑紫の三神」が果たして宗像神なのか、必ずしも明白とはいえません。筑紫の三柱といえば、まずはイザナミがみそぎをしたときに生まれた
・住吉三神=底筒男命・中筒男命・表筒男命
・綿津見神(=安曇神)=底津少童命・中津少童命・表津少童命
がいるからです。
また宗像神の場合は、応神紀41年および次の雄略天皇9年とも明確に、「宗像(大)神」となっているわけで、なぜここだけ「筑紫の三神」となっているのかも不明だからです。
とはいえその検証も簡単にはいかないので、ここではとりあえず通説どおり、
・筑紫の三神=宗像三神
としておきます。
”そのあとまたしばらく時間を置いて、 5 世紀末ころの人物と考えられている雄略天皇の 9 年 2 月に、変な記事が載る。天皇が、 凡(おおし)河内(こうちの)直(あたい)香賜(かたぶ)と 采女(うねめ)(宮中で仕える女官を派遣して胸方神を祭らせたが、香賜は神域で祭りの前にその采女を犯した。天皇が これを聞いて香賜を殺させた、というものである。そしてこの記事に続く同年 3 月に、天皇が新羅に親征しようとして、神に「な 征(い)ましそ」と止められたと いう記述がある。
この神も、前後の文脈から宗像神ではないかと考えられている。その後代わりに重臣を派遣したところ、彼らが皆戦死等で亡くなったという。朝鮮半島との関わりのなかで、宗像神がまた重要視されるようになったことを示す。このムナカタの復権は、上述の 5 世紀後半以降の 古墳の急増と対応している。その蔭には何らかの要因があったと思われる。”
【解説】
変な記事と述べているおり、現代人の感覚からみると、とんでもない行為のように思えます。ところがこうした行為は、古代の祭祀における「神婚行為」として、通有のものであったようです(「交流史からみた沖ノ島祭祀」(森公章)より)。
ここでは明白に「胸方神」が登場します。ちょうど、倭の五王の時代であり、これ以降の宗像地域の古墳の急増に対応している点は注目です。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村

しかしながら論文でも述べているように、
”これだけでは先に見た膨大な量の祭祀遺物、 特に 5 世紀後半から7 世紀代の豪華な品々は 、 説明できそうもない。”
のであり、ここから
”それには他の歴史的イベントがあるはずである。”
と推測して、さらに究明していきます。
このあたり、真実を極めるためにこれでもかと追究していく姿勢は、いかにも理工系の学者らしい気がしますが、ともかく賞賛に値すると思います。
では論文をみていきましょう。
”ムナカタの古代遺跡には顕著な不連続性がある。
弥生時代前期前半に田久松ヶ浦遺跡等に国内最先端の先進文化が現れてから、しばらく間をおいて中期前半に1区画墓では全国一の 15 本の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡が出現する。しかしここには、古墳時代後期になって 25 棟の堀立柱建物群が作られるまで、ほとんど遺物が見られない。
ムナカタ全体で見ても、弥生時代中期後半以降古墳時代に到るまで顕著な遺跡はほとんど見られない。4世紀には中・小型の前方後円墳数基が釣川中流 域に築かれるが、 5 世紀に入ると 100 m 級の前方後円墳 2 基を含む 80 基以上(現存 60 基)の古墳群が津屋崎地区に連続して築かれる。この中に、世界遺産に登録された新原奴山古墳群が含まれる。
この流れは 7 世紀古墳時代終末期まで続き、巨大石室を持つ宮地嶽古墳に繋がる。巨石で築かれた横穴式石室の長さ 23.1 m は、橿原市の五条野丸山(見瀬丸山)古墳の石室の28.4 mに次ぐ大王級の長さである。
【解説】
ムナカタというと、古代から連綿と発展してきたように考えがちですが、そうではないようです。
・弥生時代前期前半(新編年で紀元前9世紀ころ)・・田久松ケ浦遺跡
ーーーーーーーーーー
・弥生時代中期前半(新編年で紀元前4世紀ころ)・・田熊石畑遺跡
ーーーーーーーーーー
・古墳時代前期(4世紀)・・中・小型前方後円墳築造開始
・古墳時代中期(5世紀)・・津屋崎地区古墳群
・古墳時代後期(7世紀)・・宮地嶽古墳
以上のとおり、継続的な発展を遂げるのは、古墳時代に入ってからであり、弥生時代は発展、衰退、発展、衰退、を繰り返していたというのです。
”以上のような不連続性は、古代史料中のムナカタの記述にも見ることができる。
ウケイでの三女神出生神話以降しばらく宗像神の活躍場面は見られないが、突然応神紀の 41 年に
「阿知使主らが 4 人の 工女(ぬいめ)をつれて筑紫についたところ、胸形大神が工女を所望したのでそのうちの 兄媛(えひめ)を大神に奉ってあとの 3 人をつれて帰った。ところが応神天皇は直前に亡くなっていた」
という記事が出る。
これは 5 世紀はじめ頃のことと考えられ、この頃まで宗像神は朝廷に対して強い発言力を有していたようである。
ところが応神の2 代後の履中天皇の 5 年には、筑紫の三神(宗像神と される)が宮中に現れて
「なぜ我が民を奪うのか。後悔することがあるであろう。」と脅かしたが、宮廷では祈っただけで祭りを行わなかった(「 禱(いの)りて 祠(まつ)らず」)。
古語辞典によると、イノリは神の名を呼んで幸福を求めることで、マツリは物を差し上げることが原義という。
沖ノ島 祭祀は、まさにマツリの原点である。このようなマツリを、天皇が当然継続的に 行わなければならない、とそれまで観念されていたことが分かる。それを天皇が怠ったことは、応神朝と履中朝との間に宗像神の立場の変化があり、王権にとって沖ノ島祭祀の重要度が低下していたことを示している。”
【解説】
履中天皇5年の「筑紫の三神」が果たして宗像神なのか、必ずしも明白とはいえません。筑紫の三柱といえば、まずはイザナミがみそぎをしたときに生まれた
・住吉三神=底筒男命・中筒男命・表筒男命
・綿津見神(=安曇神)=底津少童命・中津少童命・表津少童命
がいるからです。
また宗像神の場合は、応神紀41年および次の雄略天皇9年とも明確に、「宗像(大)神」となっているわけで、なぜここだけ「筑紫の三神」となっているのかも不明だからです。
とはいえその検証も簡単にはいかないので、ここではとりあえず通説どおり、
・筑紫の三神=宗像三神
としておきます。
”そのあとまたしばらく時間を置いて、 5 世紀末ころの人物と考えられている雄略天皇の 9 年 2 月に、変な記事が載る。天皇が、 凡(おおし)河内(こうちの)直(あたい)香賜(かたぶ)と 采女(うねめ)(宮中で仕える女官を派遣して胸方神を祭らせたが、香賜は神域で祭りの前にその采女を犯した。天皇が これを聞いて香賜を殺させた、というものである。そしてこの記事に続く同年 3 月に、天皇が新羅に親征しようとして、神に「な 征(い)ましそ」と止められたと いう記述がある。
この神も、前後の文脈から宗像神ではないかと考えられている。その後代わりに重臣を派遣したところ、彼らが皆戦死等で亡くなったという。朝鮮半島との関わりのなかで、宗像神がまた重要視されるようになったことを示す。このムナカタの復権は、上述の 5 世紀後半以降の 古墳の急増と対応している。その蔭には何らかの要因があったと思われる。”
【解説】
変な記事と述べているおり、現代人の感覚からみると、とんでもない行為のように思えます。ところがこうした行為は、古代の祭祀における「神婚行為」として、通有のものであったようです(「交流史からみた沖ノ島祭祀」(森公章)より)。
ここでは明白に「胸方神」が登場します。ちょうど、倭の五王の時代であり、これ以降の宗像地域の古墳の急増に対応している点は注目です。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。


にほんブログ村

スポンサーサイト