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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(12)~沖ノ島祭祀のストーリー

前回、古代ムナカタ古代史の不連続性の話をしました。
矢田氏はその要因について、さまざまな角度から検討してます。
たとえば、
・海水準変動によるムナカタの地位の変化
・鉄の道と玉
・宇陀の朱
・鉄の対価となる新しい資源(南東産イモガイ、辰砂)
・宗像市域の2千基の古墳
・大爆発の謎を解く牧神社
・半島への騎馬軍団派遣
・軍馬渡海基地ムナカタと 沖ノ島 祭祀
・百基の須恵窯
・造船業を示す 14 本の鋸
・田熊石畑の倉庫群と「 胷 形 の箭」
・「宗像型」石室から見るムナカタ勢力の広がり
・軍港以降のムナカタと関連地域

などです。

これらを実に詳細に検討しており、とても興味深いものなのですが、それらをすべて紹介することは膨大なものになり、かえってポイントがぼやけてしまうので、割愛します。
論文ではこれらをもとに、ひとつのストーリーとして描いてますので、それをみてみましょう。

”『日本書紀』のウケイ神話は当時の政治的事情が加わって複雑になっているが、本来は 沖ノ島 祭祀開始時の誓約と祭祀を表したものと考えられる。誓約に参加したのは、主催者であるヤマト勢力の代表とこれに従った出雲勢力の代表、そして海上輸送に携わった宗像海人族およびこれに接続する内陸水運などに関わる氏族の代表であった。
誓約の目的は、
鉄器時代に入っても鉄の輸入ルート圏外に置かれていたヤマトに、 沖ノ島 経由
で山陰へ流入していたを、瀬戸内海経由でヤマトに引き込むこと
であったと思われる。

「海北道中」は、「鉄の道」だった。ヤマトでは新開発の宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を巡り古代有力氏族によりヤマト勢力が形成され、3 世紀末頃までに朱と三角縁神獣鏡
などで瀬戸内海周辺の諸豪族を懐柔し傘下に収めていた。

最近の研究の進展により、 沖ノ島 祭祀の開始は3世紀末から4世紀初頭に遡る可能性が強い。朝鮮半島南部の鉄資源は、弥生時代後期以来主として壱岐経由で糸島半島から博多湾に流入し、博多の鉄器加工基地から主に邪馬台国連合に当たる地域に流通していた。
この博多湾中心の鉄貿易は、 沖ノ島祭祀開始後4世紀半ばに衰退する。出雲の玉など鉄の対価を揃えたヤマト勢力側に、朝鮮半島の権益と交易路の覇権を奪われたのである。
これ以降鉄貿易に必ずしも 沖ノ島を経由する必要がなくなり、祭祀も一時怠りがちになる。

5世紀後半から7世紀にかけて、津屋崎地区の大型古墳系列と並行して、釣川流域に約 2,000 基の群集墳が築かれる。古墳出土物やその他遺跡などから、これらの墓に葬られた人々の生業として、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などが想定され、中心の田熊石畑遺跡に 25 棟の倉庫群が立ち並ぶ。この繁栄は、 沖ノ島岩上祭祀期の豊富な奉献品と対応し、歴史的には、この時期の頻繁な朝鮮半島出兵の記録と対応している。長い海退期のあと海進でまた 良港となったムナカタが、 沖ノ島経由の騎馬軍団渡海基地となったと見られる。

いくつかの小さい牧に祭られた牧神社が、いまでもムナカタの海岸沿いに残る。「海北道中」が復活し「騎馬の道」になったのである。沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。

528年の筑紫君磐井敗死後は騎馬軍団が古賀市域からも壱岐経由で渡海したが、 663 年白村江の敗戦で出兵は終わる。沖ノ島祭祀もローカルなものとなり、
ムナカタ海人族の活動低下とともに顕著な祭祀は終焉を迎える。”

【解説】
矢田氏の論文が通説と大きく異なるところは、沖ノ島祭祀の目的についてです。
通説では、沖ノ島祭祀は遣隋使・遣唐使の航海の安全を祈願したもの、とされてますが、矢田氏はそれを正面から否定してます。このあたり、論文の出所である「むなかた電子博物館」ではどのように考えているのか、興味のあるところです。

それはさておき、ではなぜ矢田氏が独自の解釈をしたのかといえば、そのように解釈しないと祭祀遺跡とのつじつまが合わないからです。
どういうことかというと、祭祀遺跡は8世紀以降9世紀末までは露天祭祀になりますが、人形や馬形の石製品など、それまでの祭祀と比較して明らかに簡素化します。それを矢田氏は「ローカルな祭祀」と呼んでます。一方それに対して、遣唐使は最盛期を迎えるわけです。(たとえば阿部仲麻呂(717年)、空海・最澄(804年)など)
その矛盾を解決するために、矢田氏なりのストーリーを描いた、ということでしょう。

沖ノ島遺跡と出来事2

では個別にみてみましょう。

沖ノ島祭祀開始年代を3世紀末から4世紀初頭としたうえで、それまで鉄の確保ができなかったヤマト勢力が、出雲や宗像海人族の協力を得て、瀬戸内海ルートを開拓したことに結びつけてます。それが古事記・日本書紀の「誓約神話」だというまことにユニークな説です。

なぜヤマト勢力がそれだけの力を得たのかを、宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を源泉として、朱と三角縁神獣鏡で瀬戸内海勢力を懐柔した、と推測してます。
そしてそれまで朝鮮半島との交易を担っていた邪馬台国連合による博多湾貿易は、4世紀半ばに衰退し、それ以降鉄貿易に沖ノ島を経由する必要がなくなった、そのため祭祀が一時衰退した、としてます。

ところが5世紀後半から7世紀にかけて、祭祀は活発化します。それは津屋崎地区とともに釣川流域の群集墳と関連しており、その墳墓群は、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などを生業としていた人々のもの、と述べてます。
これは岩上(岩陰の間違い?)遺跡の時期であり、朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地となったため、と推測してます。”沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。”と述べてます。
倭の五王の時代との関係は?

いかがでしょうか?
一見、筋が通っているように思えます。しかしながら、詳細にみると多くの矛盾があります。

たとえば、博多湾貿易が衰退した4世紀半ば以降といえば、まさに岩上祭祀が本格的に始まった時期であり、”祭祀が一時衰退した”とは逆の現象です。

次に祭祀が盛んになった5世紀後半から7世紀は、岩陰遺跡の時期です。これを朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地として栄えたこととしてますが、朝鮮半島との関係でいえば、倭の五王がもっとも有名でしょう。しかしながら倭の五王は、5世紀初頭から6世紀初頭の時代であり、時期に大きなずれがあります。


さらに白村江の戦い(663年)の敗戦を機に、沖ノ島祭祀がローカルなものになった、と述べてますが、豪華な祭祀遺跡である半岩陰・半露天祭祀7世紀後半から8世紀にかけてであり、逆に白村江の戦いの敗戦以降で、時期に大きなずれがあります。

このように多くの矛盾があるのですが、このあたりを次回さらにみていきます。

 ↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!





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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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