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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(14)~九州王朝説に立てばすべての謎は解決する!

 前回、沖ノ島祭祀に関する7つの謎について、矢田氏の説では納得しうる説明ができない、という話をしました。
7つの謎とは、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?

です。

ではどのように考えれば、この謎が解明できるのでしょうか?。

皆さんのなかには、「4世紀から9世紀のことなど詳細な記録が残っているわけでもないし、わからなくて当然だ。この程度の説明で充分ではないか。」と思われる方も多いかもしれません。

もちろんそういう考え方もあるかもしれませんが、それでは話が終わってしまいます。考えうる限りの可能性を想定して、少しでも真実に近づく努力をするのが、歴史研究者の定めだと思います。

では考えていきましょう。

矢田氏は莫大なデータを収集分析して、自説を構築してます。その姿勢は、大いに尊敬したいと思います。
3世紀ころの邪馬台国については、九州北部に邪馬台国連合というものを想定してます。邪馬台国の位置については大分県の宇佐市あたりと推定しており、私の推測する博多湾岸とは異なりますが、九州北部ということでは共通です。

一方で、畿内にヤマト王権を想定してます。北部九州の邪馬台国と畿内のヤマト王権との関係については触れられてないので、よくわかりませんが、3世紀には両地方において、強大な勢力があったと推測してるようです。そして、その前提のもとに、ヤマト王権が沖ノ島祭祀を執り行った、と解釈してます。

私はその前提に無理があったのではないか、と考えます。

もっと明確にいえば、畿内のヤマト王権が、そこまで沖ノ島祭祀に関与していたのだろうか?、という問題提起です。

ではどのように考えれば、すっきり解釈できるのでしょうか。

私のブログや著書をお読みの方なら、ここでピンとくるでしょう。
私は当時の倭国の中心は九州北部にあった、とする九州王朝の立場です。倭国の中心が北部九州にあったのであれば、豪華絢爛な沖ノ島祭祀も九州王朝が執り行っていた、と考えるのが自然です。

ではこの視点で、7つの謎が解けるか、みてみましょう。

1・2の「なぜ、何のために沖ノ島で行われたのか?」
九州王朝の繁栄を願い執り行われた、ということになります。もちろんそのなかには、朝鮮半島出兵の必勝祈願もあったでしょうし、日常の航海の安全を祈願したこともあったかもしれません。いずれにしろ、九州王朝における信仰のもとで行われたのであり、位置的にいっても九州王朝中枢近くにある沖の島が、信仰の対象になっても何ら不思議なことはありません。

3.「なぜ史書等に記載がないのか?」
九州王朝が執り行った、ということであれば、古事記や日本書記に記載されてなくて当然です。それら史書は畿内ヤマト王権の歴史書ですから。むしろ歴史から抹殺したかった九州王朝の信仰など知らなかった、あるいはたとえ知っていたとしても記載したくなかった、ということでしょう。 

4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
祭祀回数からいって20年に一回程度祭祀が行われた、それは天皇の在位数と一致する、という論文の推測ですが、それについて疑義を挟むつもりはありません。ただしもしそうであれば、どの王朝あるいは豪族でも、20年に1回程度で代替わりとなるわけで、必ずしもヤマト王権と結びつける必然性はなく、九州王朝でも同じことがいえます。

5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
論文では、朝鮮半島出兵の兵士たちが奉献した、としてますので、この点に関しては、九州王朝説でも同じ解釈ができます。

6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
沖ノ島の出土品ではたとえば鏡などは品質がまちまちで粗悪品がみられるなど、畿内の古墳にはみられない特徴があります。また豪華絢爛な金銅製品などは、畿内の出土物を上回っています。当時の北部九州の古墳等からは、それらに匹敵する豪華な金銅製品が出土している考えことを考えれば、九州王朝が執り行っていたと考えることに不自然さはありません。

7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
遣唐使派遣の祈願という通説では説明がつかないため、矢田氏は朝鮮半島出兵にかかわる祈願をメインにしてますが、それでもなぜ白村江の戦い(663年)の敗戦以降も続いたのか、説明がつきません。一方、九州王朝は8世紀初頭にはその座を、畿内ヤマト王権に譲り渡したわけで、その時期は祭祀がローカルになった時期とぴたりと重なります。

以上のように、通説や矢田氏説では説明しきれなかった謎が、九州王朝説に立てば、きれいに説明できます。
当然といえば当然ですが、皆さんのなかには、「そんなのは九州王朝というものを仮想したうえでの解釈にすぎない。具体的な証拠があるのか?。」という思いをもたれた方も多いでしょう。
次回そのあたりをお話ししていきます。


★沖ノ島祭祀を執り行ったのは九州王朝か?

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ジャンル : 学問・文化・芸術

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九州王朝は8世紀初頭にはその座を畿内ヤマト王権に譲り渡した

>一方、九州王朝は8世紀初頭にはその座を、畿内ヤマト王権に譲り渡したわけで、その時期は祭祀がローカルになった時期とぴたりと重なります。

〇たいへん説得力がありますね。
 そして、九州王朝は畿内ヤマト王権に滅ぼされ、徹底的に抹殺されたというのが真相と思われます。
 草々

Re: 九州王朝は8世紀初頭にはその座を畿内ヤマト王権に譲り渡した

レインボーさんへ
コメントありがとうございます。

> 〇たいへん説得力がありますね。
>  そして、九州王朝は畿内ヤマト王権に滅ぼされ、徹底的に抹殺されたというのが真相と思われます。

通説である遣唐使の航海の安全祈願という説は、時期的にまったく合いません。また論文にある朝鮮半島出兵の祈願というのも、詳細にみていくとつじつまが合わないことが出てきます。
もちろん九州王朝説にもあいまいなところもありますが、通説などはそれをはるかに上回るあいまいさです。あくまで比較優位性という点からみれば、九州王朝説のほうが筋が通っているといえるでしょう。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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