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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(15)~津屋崎古墳群

前回は、沖ノ島祭祀には多くの謎があるが、九州王朝説に立てばきれいに説明できる、という話をしました。
今回から、その具体的論拠をお話ししていきます。

まずは考古学的見地からです。

沖ノ島祭祀遺跡と近傍の古墳群との間には密接な係わりがあることがわかってます。なかでももっとも関係性が近いと考えらえるのは、津屋崎古墳群です。ここからみていきましょう。

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から、勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原/奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳からなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と集中度は九州北部における代表的な古墳群といえる。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると、北から南への変遷を窺える。”(「国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画」に関する再検討」(2016年3月 福津市教育委員会)より)

津屋崎古墳群



ご覧のとおり沖ノ島を北西海上に臨み、宗像の西方に位置します。このうち新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群は、2017年に、「「神宿る島」 宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されたことは、記憶に新しいところです。

位置的にいっても、このあたり一帯の古墳群が、沖ノ島祭祀を執り行った人々と深い関係があったであろうことは、想像に難くありません。特に注目は、北方にある勝浦峯ノ畑古墳です。小田富士夫氏(福岡大学名誉教授)が、
”勝浦峯ノ畑古墳と(沖ノ島の)21号遺跡の同型鏡から、同古墳被葬者が21号祭祀に関与したことを推定”してます(「沖ノ島祭祀遺跡の再検討2」(小田富士夫)より)。

21号祭祀遺跡は岩上祭祀段階の下限を示す時期であり、一方勝浦峯ノ畑古墳は5世紀中頃の築造とされ、「胸形の君」の墳墓に比定されてます。そして小田氏は、ヤマト王権による「委託祭祀方式」を想定したなかで、被葬者はその委託された首長ではなかったか、と想像してます。このあたりは疑問があるところですが、少なくともこの勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀に関与した、という指摘は重要です。
勝浦峯ノ畑古墳

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テーマ : 歴史
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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