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隋書倭国伝を読む その2 ~ 倭国が邪馬台国から続く九州王朝である根拠とは?

今回から、本文にはいります。

【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国は、百済・新羅の東南方、海路・陸路で三千里のところにある。大海の中の山の多い島に住んでいる。
三国のの時代に、通訳を伴い中国に入朝した。三十余国あって、それぞれの首長はみな王と名乗っていた。里数を計ることを知らず、距離を計るには、日数で数える。
国の境界は、東西は五か月行程、南北は三か月行程で、それぞれ海に至る。地形は、東の方は高地で西が低い。邪靡堆(やまたい)に都を置いている。これが「魏志」に書かれているところの邪馬臺(やまだい)である。
昔から「楽浪郡の境界や帯方郡治から一万二千里離れていて、会稽郡の東方にあたり、儋耳(たんじ)に近い。」と言われている。
【解説】
冒頭、俀国の位置が記載されています。
国の境界の記載から、国全体の範囲がわかります。東西五か月、南北三か月行程とありますが、宋書倭国伝に出てきた海北と衆夷の国々とほぼ同じと考えてよいでしょう。
俀国領域図
俀国領域



そして都として、邪靡堆(やまたい)の名前が出てきます。これが、「魏志倭人伝の邪馬臺(やまだい)と同じである。」と。
これをもって、魏志倭人伝にはもともと邪馬臺国と記載されており、それを書写したときに邪馬壹国と書き誤ったとする説(誤写説)の根拠とする方もいます。
しかしながら、あくまで隋書の読者は当時すなわち隋の時代の人々であり、当時は邪馬臺国と表記するのが一般的であったことを考えると、そうとは言えないのではないでしょうか?。このテーマは、いずれ詳しくお話しします。

【現代訳】
後漢の光武帝の時に、使者を派遣して中国に入朝し(57年)、使者は大夫と自称していた。安帝の時にも使者を派遣して朝貢し、「俀奴国」といった(107年)。恒帝(在位146~167年)・霊帝(在位167~189年)の頃には、この国に戦乱がおこり、次々と攻め合って、何年もの間、国全体の王が定まらなかった。
一人の女子がいて、名を卑弥呼といい、神霊に通じた巫女(みこ)で、人々を心服させていた。そこで人々は、みなで卑弥呼を王として立てた。卑弥呼には弟がいて、卑弥呼を補佐して国を治めていた。卑弥呼には侍女が千人もいたが、卑弥呼の顔を見たことのある者はまれであった。ただ男が二人だけ、卑弥呼に食事を運び、外からの言葉を伝える役を務めていた。
卑弥呼の居処には、宮殿、物見台、城囲いがあって、武器をもった兵士が警護にあたり、取り締まりは厳重である。三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。
【解説】
後漢書と同じ内容です。後漢書では「倭奴国(いどこく)」でしたが、ここでは倭→俀へ変わり、「俀奴国(たいどこく)」となっています。
その後、魏志倭人伝とほぼ同じ内容が続きますが、最後に注目です。
「三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。」
とあります。この記載は、邪馬台国の卑弥呼の時代から、倭の五王の倭国、さらに現在の隋の時代にいたるまで、代々交流があったこと、さらにそれらの王朝は、一貫して同じ系統であることを、示していると言えます。
つまり、邪馬台国が北九州にあれば、倭の五王の倭国、さらに隋と交流した王朝も、北九州にあった、すなわち九州王朝であった、ということになります。


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No title

とんでも説おもしろく拝見させて頂きましたw
ちなみに倭の五王の5人目の頃って西暦500年ころですよ。
そのころの日本の状況知ってますか?大型古墳の分布状況を年代別で見た事ありますか?
倭の五王と邪馬台国を切り離さないと邪馬台国九州説は成立しないという事ではないでしょうか。

Re: No title

> ちなみに倭の五王の5人目の頃って西暦500年ころですよ。
> そのころの日本の状況知ってますか?大型古墳の分布状況を年代別で見た事ありますか?

「6世紀頃の大型古墳は畿内に集中しているからそこに王権があり、倭の五王も畿内王権だった」という主張でしょうか?。

その説が成立しないことは、ブログで解析済みです。

「古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?」
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-187.html
から一連で解説してますから、お読みください。
(現在も連載中です)






邪靡堆はどこに?

通りすがりの者ですが少々お尋ねしたいことがありましてコメント差し上げます。4年前のご投稿で、このコメントにお気づきになるかどうか分かりませんが、もしお気づきになりましたらご回答のほどよろしくお願い致します。

さて、『隋書』にはイ妥国の都として、ご案内の通り「邪靡堆」と明記してあり、【則魏志所謂邪馬臺者也】ともあります。この『隋書』の文に依拠する限り、当時流布していた『魏志』に「邪馬臺」とあったことは疑いなく、それは他の典籍からも裏付けられます。「邪馬壹」という表記は『魏志』の南宋刊本に初めて見えるもので、おそらくは宋代に入ってからの発生した誤だろうと解釈するのが至当かと思います。

また、都である「邪靡堆」ですが、御説の「隋書倭国伝を読む その8」では「倭国の中心が筑紫であることは、動かし難いと言えます」と書かれていますが、それは邪靡堆が筑紫にあったということなのでしょうか?

それでは裴清の道行き文中の「竹斯国」部分の記述と相容れないと思いますが、どのようにお考えでしょうか?

『隋書』裴清の道行き文中で「竹斯国」は「又」でつながった単なる通過国としてしか描かれておりません。また、「竹斯国の東の国々は、すべて倭にくっついて従属している」というのは、裴清が辿った竹斯国以降の十余国が倭に附庸していたという意味ですから、筑紫国に「倭国の中心が筑紫であること」にはならないと思います。

裴清が達したという「海岸」をどのように理解されるのかもあわせてご案内いただきましたら幸です。

Re: 邪靡堆はどこに?

hyena_no_papa さんへ
コメントありがとうございます。

> さて、『隋書』にはイ妥国の都として、ご案内の通り「邪靡堆」と明記してあり、【則魏志所謂邪馬臺者也】ともあります。この『隋書』の文に依拠する限り、当時流布していた『魏志』に「邪馬臺」とあったことは疑いなく、それは他の典籍からも裏付けられます。「邪馬壹」という表記は『魏志』の南宋刊本に初めて見えるもので、おそらくは宋代に入ってからの発生した誤だろうと解釈するのが至当かと思います。

議論噴出のところですね。
概略解説します。

まず唐代において、邪馬臺国なのか邪馬壹国なのか、混乱があったことは間違いありません。
後漢書倭伝において、
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」
とあり、そこで
「邪馬臺国は、邪摩惟(やまゐ)音の訛りである」
といってます。
これは李賢注によるものですが、李賢は唐代の人です。読みに混乱がなければ、わざわざ注をつける必要がありません。
つまり唐代において混乱があり、”もともと「邪摩惟(やまゐ)」だったがそれが訛って「邪馬臺国」になった”、と結論づけてるわけです。
ようは、「邪摩惟(やまゐ)国」→「邪馬台国」になったということです。

【則魏志所謂邪馬臺者也】とありますが、以上の経緯で、唐代では通説となっていた「邪馬臺国」という表記にしたということでしょう。あるいは上記の字の変化を知らずに、「邪馬壹国」は間違いであり「邪馬臺国」が正しいと思い込んだのかもしれません。

過去の原典を引用する際、必ずしも原典どおりに記載するとは限りません。「邪馬台国」」にしても、原典には「邪馬臺国」あるいは「邪馬壹国」とありますが、日常私たちが使用する際「邪馬台国」と書く場合が多いです。私も「邪馬台国」と書きます。今の時代の慣習に合わせたほうが、読む人にとってわかりやすいからです。ところが「邪馬台国」などという表記がどこにも存在してないことは、ご存じのとおりの事実です。

他にもありますが、あとは過去ブログや拙著を読んでいただければ思います。

> また、都である「邪靡堆」ですが、御説の「隋書倭国伝を読む その8」では「倭国の中心が筑紫であることは、動かし難いと言えます」と書かれていますが、それは邪靡堆が筑紫にあったということなのでしょうか?
> それでは裴清の道行き文中の「竹斯国」部分の記述と相容れないと思いますが、どのようにお考えでしょうか?
> 『隋書』裴清の道行き文中で「竹斯国」は「又」でつながった単なる通過国としてしか描かれておりません。また、「竹斯国の東の国々は、すべて倭にくっついて従属している」というのは、裴清が辿った竹斯国以降の十余国が倭に附庸していたという意味ですから、筑紫国に「倭国の中心が筑紫であること」にはならないと思います。

これも結論が出しにくいところです。
語句をひとつひとつ検討しても、いかようにでも解釈しうるからです。
その前に大きな視点で捉える必要があります。

まずは
魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里
とあり、魏志倭人伝記載との継続性があります。つまり、魏志倭人伝の倭国と隋書の俀国は、同じ国を指してることは明らかです。

そして
有弓矢刀矟弩讚斧
とあり、矛圏の国であることをうかがわせます。

有阿蘇山其石無故火起接天者
とあり、阿蘇を信仰の対象としていたことがわかり、都が阿蘇近辺にあったことがうかがわれます。

自竹斯國以東皆附庸於俀
とあります。竹斯國の位置が北部九州であることは異論がないところで、そこから東の国はすべて俀国に付属していたということから、都が竹斯國より東にはないことは確実です。

以上を鑑みるに、邪靡堆が九州北部にあったことは間違いないでしょう。

ではその都がどこにあったのか、です。
投稿時ははっきり書かなかったのですが、邪馬臺国の範囲は時代とともに広がり、北部九州一帯を支配していたと考えてます。
都の位置は、時代とともに移動して、卑弥呼の時代は福岡平野、その後筑後方面などに移動したと考えてます。それらと「竹斯国」の関係は、今のところはっきりしません。

> 裴清が達したという「海岸」をどのように理解されるのかもあわせてご案内いただきましたら幸です。

秦王国の位置についてはさまざまな意見があります。豊前には秦氏が多くいたという記録があることから、候補の一つです。そうなると「海岸」とは九州の東岸の可能性があります。
また筑後川沿いに下ってきたと想定すれば、有明海の可能性もあります。
文字資料がごく限られたなかで、これ以上の推測は、今のところできないと考えてます。

Re: 邪靡堆はどこに?

青松光晴さん、丁重なるご返信ありがとうございますm(_ _)m

>まず唐代において、邪馬臺国なのか邪馬壹国なのか、混乱があったことは間違いありません。
後漢書倭伝において、
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」
とあり、そこで
「邪馬臺国は、邪摩惟(やまゐ)音の訛りである」
といってます。
これは李賢注によるものですが、李賢は唐代の人です。読みに混乱がなければ、わざわざ注をつける必要がありません。

李賢注の「邪摩惟」のソースはどこからかご存知ですか?636年成立の『隋書』ですね。『後漢書』に注を入れた李賢は、西暦684年、31歳で不慮の死を遂げています。唐の高宗と則天武后の次男です。李賢は成立して数十年しか経ていない『隋書』を見て『後漢書』に【案今名邪摩惟音之訛也】と付注しているわけです。ですから李賢注の当初の姿は「邪摩堆」であったことが推測されます。李賢生存中に成立した『北史』では邪摩堆ですし、『通典』も『後漢書』の「邪馬臺」を襲っており、【或云邪摩堆】と付注します。これらの諸事実から、現行刊本『後漢書』に見える李賢注の「邪馬惟」は後代の転訛と見るべきかと思います。

また「混乱があったことは間違いありません」とのことですが、ならば何故宋代までの間に「邪馬壹」なる表記が一切登場しないのか?お考えになったことはおありでしょうか?つまり「混乱」など無いのです。

>自竹斯國以東皆附庸於俀
とあります。竹斯國の位置が北部九州であることは異論がないところで、そこから東の国はすべて俀国に付属していたということから、都が竹斯國より東にはないことは確実です

それは古田氏の所説を鵜呑みにしているからでしょう。原文はご存知ですよね。【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】です。「竹斯国」の部分には何の説明もありません。例えば『魏志』「倭人伝」なら、【邪馬壹国女王之所都】と明記してあります。でも「竹斯国」には何にも書いてありません。

それと、何故竹斯国以東海岸に達する十余国をわざわざ書く必要があったのでしょうか?竹斯国以北は?以南は?以西は?どうして書かなかったのでしょうか?

【明年】に始まる裴清の道行き文は、裴清が煬帝の命を受けて倭王に会いにゆく道筋を書いているわけですよね。ならば、「十余国」も裴清が辿ったルートではないのですか?

>「海岸」とは九州の東岸の可能性があります

とのことですが、上述の以北、以南、以西についての疑問が解決できませんし、裴清のたどったコースだと考えると裴清は九州の東岸へ何しに行ったのでしょう?という疑問が生じます。

何より、『書紀』には裴清が畿内を訪れた明確な記録がありますし、「丈六光背」という物証もあります。一方、九州にはどんな記録があるんでしょうか?全くありませんよね?

それから、裴清訪倭の翌年、百済僧の葦北津に来泊したことを大宰府が畿内朝廷に奏上しています。

いや、それよりずっと以前、磐井の乱後宣化朝(536)には那ノ津の官家が造られ諸国の屯倉の穀物を運び込んで非常に備えています。

このような史料に立って考えれば、裴清の訪倭した607年から608年にかけて、九州北部に倭を代表する王朝があったなどと考えるのは全く根拠のないことです。

「海岸」とは「推古紀」に見える「難波津」であり、裴清一行は途中各地に寄港しつつも難波津まで海路を辿ったということになります。

長々と書いてきましたが、どうやら古田説に沿って古代史を構築されているように見ましたので、敢えて一言述べさせていただきました。古田説は完全な謬説です。古田説に批判的な書物も読み、基本史料にも当たって当否を再度吟味したほうがよろしいのではないかと考えます。

Re: Re: 邪靡堆はどこに?

hyena_no_papaさんへ

ネットで検索したところ、ずいぶんと多くのブログ等にコメントされているようですね。また自身ブログもやっているのですね。
また邪馬台国=畿内説ということもわかりました。

コメントについて多くの論点がありますが、細部に入ってしまうので、全体的な流れを確認するのが先かと思います。

まず
倭国→俀国
であり、倭国の都は邪馬台国です。
したがって邪馬台国がどこにあるかがわかれば、諸々の話も概ね決着すると思います。

魏志倭人伝の行程記事は議論が分かれるので言及しませんが、考古学的成果等は北部九州のものと一致してます。。一方、畿内については多くの点で合致してません。

hyena_no_papaさんは、邪馬台国はどこにあったと考えますか。具体的な地名や遺跡名を挙げてください。そして考古学的成果等が魏志倭人伝の記載と一致しており、北部九州に比べて優位にあることを説明してもらえませんか?

私の考えはブログで詳細に論証してますので、お読みください。

なお、私があたかも古田氏の所説を鵜呑みにしているような書き方は控えてください。私は、古田氏の考え方を参考にしてはいますが、すべて自分なりに理解咀嚼したうえで書いてます。古田氏の考えと大きく異なる点も、多々あります。第三者に誤解を招くような表現をすることは、マナー違反です。











Re: Re: Re: 邪靡堆はどこに?

拝復

>hyena_no_papaさんは、邪馬台国はどこにあったと考えますか

もちろん畿内ヤマトです。纒向ですね。箸墓こそ卑弥呼の墓だと考えています。最近の考古学的知見から時代的には齟齬はないと言えるでしょう。

建中校尉梯儁や塞曹掾史張政は倭王つまり卑彌呼に会ったと見られますので、卑彌呼の墓として径百余歩の箸墓(円部)はサイズ的にほぼ合います。

>考古学的成果等は北部九州のものと一致してます

伊都国は【郡使往来常所駐】とありますから、そこでの知見が述べられていると考えて矛盾はありません。

>北部九州に比べて優位にあることを説明してもらえませんか?

上述の通りです。

>魏志倭人伝の行程記事は議論が分かれる

というのは理解しますが、それでも博多湾岸では有りえません。九州中南部というのなら否定は出来ませんが・・・。

>なお、私があたかも古田氏の所説を鵜呑みにしているような書き方は控えてください

ご気分を損ねたのなら謝ります。未だ掲示板時代の癖が抜けきれないものですから・・・。

しかし、「邪馬壹国」博多湾周辺説というのは古田氏のオリジナルですよね。私は「古田説に沿って」と書きました。枝葉では違っていても骨格では「古田説に沿って」いるのではありませんか?

それと、話をもとに戻しますが、裴清の道行き文で【既至彼都】をどのように理解するのか?「倭国の中心が筑紫であることは、動かし難いと言えます」と仰るのなら、【既至彼都】はどのように解釈するのでしょうか?あの道行き文のどの部分で裴清は都に至ったと解釈するのでしょうか?

裴清の訪れたイ妥王の都が畿内ヤマトであることは動かないと思いますがいかがですか?九州であったという根拠はないと思いますがいかがですか?

「臺」と「壹」の「混乱」もありません。宋代までに出てくるのは全て「臺」です。

※掲示板(Yahoo!Textream)時代は古田説支持者の方と長い年月の間、激論を交わしました。そのYahoo!Textreamも既に閉鎖されてしまい、議論しようと思えば5ch(旧2ch)くらいしかありませんね。不愉快な思いもしますが、掲示板で議論することは大いなる進歩をもたらすこともあると信じています。

Re: Re: Re: Re: 邪靡堆はどこに?

hyena_no_papa さんへ

> もちろん畿内ヤマトです。纒向ですね。箸墓こそ卑弥呼の墓だと考えています。最近の考古学的知見から時代的には齟齬はないと言えるでしょう。
> 建中校尉梯儁や塞曹掾史張政は倭王つまり卑彌呼に会ったと見られますので、卑彌呼の墓として径百余歩の箸墓(円部)はサイズ的にほぼ合います。

纏向遺跡が邪馬台国ではなく、箸墓古墳が卑弥呼の墓でないことは、ブログに書いてます。

> >考古学的成果等は北部九州のものと一致してます
> 伊都国は【郡使往来常所駐】とありますから、そこでの知見が述べられていると考えて矛盾はありません。

それはいくらなんでも、拡大解釈が過ぎるというものです。それを言うなら、日本国中どこでも邪馬台国になりえます。国の文化風習を描くのであれば、まずは都のことを中心に書くでしょう。そうでなければ読者に誤解を与えてしまいます。現代においても、日本を視察に来た外国人が、沖縄を経由して東京に来たとして、本国のレポートに沖縄のことばかり書いていたら、バカかといわれるのと同じです。
それでも、いやそういう可能性があるのだ、というのであれば、これ以上の議論は無駄ですね。

魏志倭人伝には、
「名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
とあります。
纏向遺跡に、はっきりと城柵と呼びうるものは出土しておらず、防御機能をもっていたとは考えにくいとされてます。宮室樓觀でさえ、疑義が呈されてます。
前段には
「兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃」
とありますから、卑弥呼を守る兵は、矛や鉄の武器をもっていました。
ところが纏向遺跡からは、兵器らしきものはほとんど出土しておらず、日常品や農具と思われるものばかりです。
畿内が銅矛圏でない、すなわち矛が出土してないことは、周知の事実です。
また鉄も全く出土してません。奈良盆地に鉄が入ってくるのは、早くても3世紀後半から4世紀です。
絹も博多湾岸からは出土してますが、畿内は皆無です。
魏志倭人伝の記載する様子と、全く合致してません。

このようにどう逆立ちしても、当時の畿内が北部九州と比べて文化的後進地域にあったことは、考古学的事実です。このような地域に邪馬台国があったと考えることは、そもそも無理があります。

最後の砦ともいえる三角縁神獣鏡も、出土は早く見積もっても3世紀後半からですし、成分分析から国産説が有力となってます。卑弥呼がもらった鏡になりえません。

何せ当時の遺跡発掘担当者が、邪馬台国ではありえない、といってるわけで、それが実態なのでしょう。

もちろん畿内派の学者さんたちはいろいろ理屈をつけてますが、一般人からすると苦し紛れの言い訳にしか聞こえないのではないでしょうか。

詳細はブログを参照ください。

> >魏志倭人伝の行程記事は議論が分かれる
> というのは理解しますが、それでも博多湾岸では有りえません。九州中南部というのなら否定は出来ませんが・・・。

魏志倭人伝の解釈は、非常に難しいところです。だからこそ考古学等と両輪で考えるべきです。
なお北部九州説を唱えてるのは、古田氏だけではありません。やや場所は異なりますが、安本美典氏も北部九州説です。

hyena_no_papa さんのように、ひとつひとつの字句を、ああでもない、こうでもないと考えるのは自由ですが、所詮現代の日本人が考えても、限界があります。
何の先入観も無い人が素直に読めば、邪馬台国は伊都国の近くにあると読むでしょう。それが自然です。これは中国他文献からも明らかです。

先般、テレビで魏志倭人伝を中国人学者にそのまま読んで解説してもらう番組がありました。
「BSTBS 諸説あり 邪馬台国SP 九州説VS畿内説 中国取材で衝撃発見」(2019/5/14)
内容は、https://lunabura.exblog.jp/30274921/ を参照ください。

4人の中国人学者はすべて邪馬台国九州説でした。うち2人は北部九州だったと記憶してます。論拠も私の考えに近いものでした。なんの先入観もなければ、こういう解釈になるでしょう。謝銘仁氏の「中国人の読む 魏志倭人伝」も邪馬台国九州説です。そのような方々に論戦を挑まれてはいかがですか。

> ※掲示板(Yahoo!Textream)時代は古田説支持者の方と長い年月の間、激論を交わしました。そのYahoo!Textreamも既に閉鎖されてしまい、議論しようと思えば5ch(旧2ch)くらいしかありませんね。不愉快な思いもしますが、掲示板で議論することは大いなる進歩をもたらすこともあると信じています。

繰り返しになりますが、私は古田説を参考にはしてますが、鵜呑みにしてるわけではありません。すべて自分が理解納得したうえで構築してます。異なった言説にも目を通してますし、それらを受け入れて修正している部分も多々あります。なお原典を確認するのは当然のことです。

ところでなぜ古田説を、そこまで目の敵にするのでしょうか?。安本美典氏も北部九州説です。他にも北部九州説の方は多くいますが・・・。

私はすべての方に対して、門戸を開いてます。したがって議論は歓迎しますが、あくまで社会人としての基本マナーを守ることが前提です。非礼なコメントをするようなら、削除あるいはブロックします。念のため。

Re:Re: Re: Re: 邪靡堆はどこに?

青松光晴さん、お時間を取らせてしまっているようで心苦しく思っています。こういう場合は掲示板があると手軽に意見交換できるんですが・・・。

纒向が邪馬台国ではアリエナイ理由については、これまでも散々聞かされてきました。お説ごもっともです。しかし、では卑弥呼の墓はどうなるのでしょうか?九州のどこにあるんでしょうか?

>何せ当時の遺跡発掘担当者が、邪馬台国ではありえない、といってるわけで、それが実態なのでしょう

いいえ、最早纒向説が大勢だと思いますよ。

>hyena_no_papa さんのように、ひとつひとつの字句を、ああでもない、こうでもないと考えるのは自由ですが

それは古田氏へ向けられるべき言葉ではないでしょうか?通説の「臺」を否定し「壹」だとするのがスタート地点ですから・・・。

>ところでなぜ古田説を、そこまで目の敵にするのでしょうか?。安本美典氏も北部九州説です。他にも北部九州説の方は多くいますが・・・

私の邪馬台国探訪は安本説から入りました。安本先生にはお目にかかったこともありますし、お電話やおハガキを頂いたこともあります。安本先生は私にとって日本古代史論争のスターです。

今でも安本説の構造自体には賛成です。それに比べて古田氏の説は誤謬が多い。それは安本氏を始め古田説に対して批判的な方々の所論を読めばよく理解できると思います。

>あくまで社会人としての基本マナーを守ることが前提です。非礼なコメントをするようなら、削除あるいはブロックします。念のため

勿論それは承知しております。でも、何を以て「基本マナー」と仰るんでしょうか?何を以て「非礼」と捉えるんでしょうか?

昨日も申しましたが、私は掲示板で古田説を含めた九州説の人々と議論をしてきました。議論が昂じて罵詈雑言を並べ立てるのは決まって九州説の方でした。ウンザリするほどです。

裏を返せば九州説は議論に行き詰まって反論の余地が亡くなってしまう、、、という仕儀に陥るのです。私は古田氏の主な著作はほとんど読んでいます。第1書や第2書はぼろぼろになっています。大量の付箋紙も貼ってあります。それくらい読み込んでいます。その上で、古田説は謬説だと断言しています。

青松光晴さんは古田氏の本をどれくらいお読みになったでしょうか?そして反古田説の本をどれほどお読みになったでしょうか?

長くなりますので最後に一つだけ申し添えておきます。青松光晴さんは先に李賢注の「邪馬惟」を取り上げましたね。この「邪馬惟」は諸書諸本によって違いがあるのをご存知ですか?

「邪摩堆」については前述しました。同じ『後漢書』でも相違があります。啓明書局版四史本では「推」とあります。これは唐代漢音(洛陽長安で使われた)で「タイ」という音になります。現行刊本は南宋紹興本ですが、それより古い北宋淳化刊本を南宋代に重刊した仁寿本二十六史『後漢書』では「推」のように見えますが潰れてよく読めません。或いは『後漢書集解』では「推」「堆」として付注してあります。

いかがですか?現行刊本に見える「邪馬惟」を以て唐代に「臺」と「壹」の「混乱」があったなどと言えると思いますか?

ここまで書いてしまえば、おそらくは「ブロック」されてしまうんでしょう。耳の痛い意見に耳を塞ぐのはもちろん皆さんの自由です。

長々とお付き合いいただきありがとうございましたm(_ _)m

p.s.私のHPのurlをご案内しておきます。お暇に折にでもご覧頂きましたら幸です。
http://hyenanopapa.obunko.com/index.html

最後っ屁です

「邪馬台国の真の姿を解明するための6つの切り口」に掲げてある「紹煕本」とキャプションの付いた書影は「紹煕本」ではありません。「百衲本」です。

「百衲本」は張元済が渡日して帝室図書寮に蔵されていた「紹煕本」を撮影していき、それをもとに影印版として「百衲本」を刊行しました。

撮影したのなら文面は同じだ!と思いますよね。ところが違うのです。たったあれだけの書影の中に、両者の違いがあるんです。

重ね重ね大変失礼いたしましたm(_ _)m

Re: Re:Re: Re: Re: 邪靡堆はどこに?

hyena_no_papaさんへ

申し訳ありませんが、よくわからないコメントです。議論がかみ合わないので、そろそろやめにしたいと思ってますが、いくつか確認させてください。

> 纒向が邪馬台国ではアリエナイ理由については、これまでも散々聞かされてきました。お説ごもっともです。

1.ということは、纏向遺跡が邪馬台国でないことを認めるということでしょうか?
認める、認めないにかかわらず、具体的根拠をもって説明ください。

>では卑弥呼の墓はどうなるのでしょうか?九州のどこにあるんでしょうか?

2.箸墓古墳の年代繰り上げについては、学者からも大きな疑義が呈されてます。その規模、構造についても、同様です。あとはブログに詳しく書いてます。

> 私の邪馬台国探訪は安本説から入りました。安本先生にはお目にかかったこともありますし、お電話やおハガキを頂いたこともあります。安本先生は私にとって日本古代史論争のスターです。
> 今でも安本説の構造自体には賛成です。それに比べて古田氏の説は誤謬が多い。それは安本氏を始め古田説に対して批判的な方々の所論を読めばよく理解できると思います。

3.安本説の構造に賛成ということですが、安本説は、邪馬台国=北部九州(朝倉)説です。貴殿の畿内説とはまったく異なります。その矛盾を自身で、どのように理解しているのでしょうか?。またなぜ安本説に異議を唱えないのでしょうか?

4.史書の解釈が確定しない状況では、何よりも考古学からのアプローチが重要です。前回コメントしたとおり、纏向遺跡は魏志倭人伝の記載、とくに都の風景に限ってみても、まったく異なります。それに対しての見解がありませんが、どのようにお考えでしょうか?

5.史書の解釈について、中国人学者の見解を示しました。5人とも九州説であり、詳細は諸々異なるものの方向性は私と同じであり、その論拠も納得しうるものです。それについてどのような見解を持ちますか?







そろそろ幕引きかな?

>ということは、纏向遺跡が邪馬台国でないことを認めるということでしょうか?
認める、認めないにかかわらず、具体的根拠をもって説明ください<

いいえ、認めません。そもそも『魏志』「倭人伝」の細かな記述をいくらほじくっても邪馬台国の位置決定にはたいして役立たないと思っています。纒向比定のキモは箸墓です。

>箸墓古墳の年代繰り上げについては、学者からも大きな疑義が呈されてます。その規模、構造についても、同様です。あとはブログに詳しく書いてます<

その「学者」の意見ですね。箸墓を3世紀中葉にあてる「学者」もいますよね。

>安本説の構造に賛成ということですが、安本説は、邪馬台国=北部九州(朝倉)説です。貴殿の畿内説とはまったく異なります。その矛盾を自身で、どのように理解しているのでしょうか?。またなぜ安本説に異議を唱えないのでしょうか?<

「異議」は既に掲示板で唱えています。水行陸行の解釈で行き詰まっているとワタシ的には捉えていますので、結論部分は賛同しておりません。しかし、卑彌呼を天照に比定したり、邪馬台国を甘木に比定したりという理路は無理のないものだと思っています。一時、安本先生が所謂「重ね写真説」に傾いたことがありました。その線で行くのかな?と思ってましたら、後に取り下げたようです。

>史書の解釈が確定しない状況では、何よりも考古学からのアプローチが重要です。前回コメントしたとおり、纏向遺跡は魏志倭人伝の記載、とくに都の風景に限ってみても、まったく異なります。それに対しての見解がありませんが、どのようにお考えでしょうか?<

「都の風景」って【宮室楼観】とかいう部分ですか?宮室は既に見つかっていますよね。楼観はまだのようですが、翻って九州にそんなものがありましたっけ?3世紀ころの、、、

>史書の解釈について、中国人学者の見解を示しました。5人とも九州説であり、詳細は諸々異なるものの方向性は私と同じであり、その論拠も納得しうるものです。それについてどのような見解を持ちますか?<

その「中国人学者」の具体名を上げていただけますか?手持ちの本の中にあるかもしれませんので、、、

ワタシ的には先にも述べましたが、九州中南部説なら可能性はあると思っています。安本氏も一定の評価をしている謝銘仁氏は「伊都国以後の行程も順次式をとったことに疑いの余地はなく」と書いていますね(『邪馬台国 中国人はこう読む』97ページ)。また古田氏が強く主張する「韓国内陸行説」も「成立する余地がない」と切って捨てています(同書71ページ)。

先日、「熊本説」の本を読みました。なかなか筋が通っていて説得力がありました。こういう「九州説」なら耳を傾けるにやぶさかではありません。

※恐らくそろそろ幕引きかと思いますが、もしいま少し継続しそうなら、レスの付け方をご案内いただきたいと思います。コメントの投稿欄とページ最下部の最新コメントとの距離が離れすぎていて不便です。私がレスの付け方を知らないだけかもしれません。よろしくお願い致します。

「諸説あり」要約みました

いや~、こんなレベルでYahoo!掲示板にのこのこ出てきたら、瞬時にボコボコにされますよ。

取り敢えず「諸説あり」へツッコミ

「BSTBS 諸説あり 邪馬台国SP 九州説VS畿内説 中国取材で衝撃発見」

① 臧 克和(ザン コクワ)教授 上海
「いきなり遠い畿内には飛ぶようなことはない」→水行陸行計2ヶ月をどう解釈するのか?

② 帳 莉(チョウ リ) 准教授 大阪
「「邪馬壹国」(ヤマイ)は縄文の昔からあった古地名で」→論外。「邪馬壹」は12世紀刊本に至るまでどこにも出現しない。

③ 陳 長崎(チン チョウキ)教授 広州
「漢代・三国時代(魏呉蜀)・西晋時代の記述が混在している」→そんなことは当たり前。
「刺史は漢代では監察官の意味で、魏の時代では行政官の意味に変化する。それにもかかわらずこの文章では「監察官」の意味合いで使われている」→だから何?
「魏よりも古い漢代の史実が混在している」→卑彌呼共立は後漢代のこと。何か問題でも?
「一人の人物が書いたものではない」→何を言っているのか不明。ソースは別の人が書いたものという意味か?なら当たり前。でも最終的に「書いた」のは陳寿。
「距離で書かれた文章と時間で書かれた文章が混在している」→「西域伝」を見よ。
「「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある」→この部分は正論。
「邪馬台国の東には海があった」→伊勢湾を想定する人もいる。
「邪馬台国はもともと九州にあり、移動した。同時に地名も移動している」→安本説の二番煎じ。

④ 周 徳望(シュウ トクボウ)教授 台湾 政治学
「『梁書』(636年編纂)に記載された扶桑国(日本)はそのまま読むとメキシコに行きつく」→意味がワカラン。『梁書』を読んだのか?
「記述を読むと、邪馬台国には良い田がなく、皆、海からとったものを食べている」→どこにそんなことが書いてある?「無良田」は対海国(対馬)のこと。
「伊都国が海外との重要な交流の場で、政治を担っていなのなら邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない」→大宰府は都から「遠く離れた場所」場所ですが?
「邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」→水行陸行をどう解釈するんですか?

取り敢えず思いついた点を早書きしてみました。掲示板ならこういうツッコミから話題がどんどん盛り上がってゆくのですが・・・。

※これは視聴者の文字起こしのようですので、その方が正しく記憶していたかどうかは不明です。

そろそろ就寝の時間です。おやすみなさい。

Re: そろそろ幕引きかな?

せっかくなので、もう少し続けましょうか。

話が拡散する傾向があるので、ピンポイントでお聞きします。

前々回と同じ質問です。

魏志倭人伝には、
「名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
とあります。
その前段には
「兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃」
とありますから、卑弥呼を守る兵は、矛や鉄の武器をもっていました。
ところが纏向遺跡からは、兵器らしきものはほとんど出土しておらず、日常品や農具と思われるものばかりです。
畿内が銅矛圏でない、すなわち矛が出土してないことは、周知の事実です。
また鉄も全く出土してません。奈良盆地に鉄が入ってくるのは、早くても3世紀後半から4世紀です。
この不一致をどのように説明しますか。

なお以前
” 伊都国は【郡使往来常所駐】とありますから、そこでの知見が述べられていると考えて矛盾はありません。”
とコメントありましが、今あげた記載は、卑弥呼のいた邪馬台国を描写していることは明らかで、それは説明になってません。


> ※恐らくそろそろ幕引きかと思いますが、もしいま少し継続しそうなら、レスの付け方をご案内いただきたいと思います。コメントの投稿欄とページ最下部の最新コメントとの距離が離れすぎていて不便です。私がレスの付け方を知らないだけかもしれません。よろしくお願い致します。

今まで受けたことのない質問です。
申し訳ありませんが、質問の意味がわかりません。

幕引き延期のようで、、、

>せっかくなので、もう少し続けましょうか

大いに結構ですね(*^_^*)

>また鉄も全く出土してません。奈良盆地に鉄が入ってくるのは、早くても3世紀後半から4世紀です。この不一致をどのように説明しますか

考古学的知見は時代が動きます。古代史に関心を持ち始めて数十年になりますが、昔は箸墓も4世紀を遡らないというのが通説でした。それが今では、、、

池上曽根遺跡のときもそうでしたよね。「早くても3世紀後半から4世紀」などという時代感は話半分に聞いていたほうがいいと思いますよ。

>話が拡散する傾向があるので、ピンポイントでお聞きします

あれ?私は当初「邪靡堆はどこに?」というタイトルでコメントを差し上げました。裴清の道行き文とイ妥都の関係など、主に九州王朝についてでした。

掲示板時代によく経験したのが、論点がずれる、、、ということです。

再度お聞きしたいのですが、それでも尚、裴清の訪れたイ妥都が九州王朝の都だったとお考えなのでしょうか?

十余国や以北、以西、以南についてもご質問を差し上げました。それについてのご意見はありませんでしょうか?海岸に達したのは誰でしょうか?

最初のコメントで邪馬台国について触れた部分としては「臺」か「壹」かという点でしたよね。これについては私の意見を理解されましたでしょうか?

これらの点についてのご見解をお尋ねしたいと思います。

>申し訳ありませんが、質問の意味がわかりません

最新のコメントへレスを付けるのに、ページの上の方へ戻ってコメント欄に入力しなければなりませんよね?エレベータみたいに上がったり下がったりするわけです。掲示板のときには返信対象の投稿に対して直接レスを付けることが出来ましたから、そういう機能はFC2ブログにはないのかな?という質問です。

Re: 幕引き延期のようで、、、

ではひとつづつ整理しましょう。

> >また鉄も全く出土してません。奈良盆地に鉄が入ってくるのは、早くても3世紀後半から4世紀です。この不一致をどのように説明しますか

> 考古学的知見は時代が動きます。古代史に関心を持ち始めて数十年になりますが、昔は箸墓も4世紀を遡らないというのが通説でした。それが今では、、、
>
> 池上曽根遺跡のときもそうでしたよね。「早くても3世紀後半から4世紀」などという時代感は話半分に聞いていたほうがいいと思いますよ。
>

まずは認識共有したいので、あらためて貴殿の見解をまとめます。他の読者の方にもわかるように、補足して書きます。
・魏志倭人伝の邪馬台国の様子のなかに、矛・鉄等の武器が出てくる。
・纏向遺跡に矛・鉄等の武器は出土していないのは認める。
・しかしながらそれは現在の状況であって、将来出てくるはずであり、邪馬台国を纏向遺跡と断定することと矛盾しない。
ということでしょうか?

> 最新のコメントへレスを付けるのに、ページの上の方へ戻ってコメント欄に入力しなければなりませんよね?エレベータみたいに上がったり下がったりするわけです。掲示板のときには返信対象の投稿に対して直接レスを付けることが出来ましたから、そういう機能はFC2ブログにはないのかな?という質問です。

システムのことはわかりません。FC2ブログへお聞きになってはいかがですか。

Re:Re: 幕引き延期のようで、、、

>ではひとつづつ整理しましょう

あのう、、、私のコメントお読みにならなかったのでしょうか?

最初のコメントが「邪靡堆はどこに?」でした。つまり、イ妥国の都はどこにあるか?それは裴清の道行き文からどのように求められるか?そのような質問でした。

「話が拡散する傾向があるので」と仰ったのは青松光晴さん、あなたですよね?ならば「拡散」しないようにお願いしたいのですが・・・。

Re: Re:Re: 幕引き延期のようで、、、

私がなぜ魏志倭人伝における邪馬台国についての問いをするのかは、すでに説明してます。
理解していただけてないのなら、これ以上はやりとりしても得るものはないですね。








幕引き延期ですか?

>私がなぜ魏志倭人伝における邪馬台国についての問いをするのかは、すでに説明してます。
>理解していただけてないのなら、これ以上はやりとりしても得るものはないですね。

あれれ、裴清の道行き文について、、、ですけど?あの文は極めて簡明な文です。いつ・だれが・だれに命じられて・何のために・どこを経て・どこへ向かったか?が明確に書かれています。

一方で、『書紀』には同年、小野妹子が裴世清を連れて帰朝したと明確に書かれてあります。

この両者が一つの歴史的事実を記録しているものだという通説を拒否されてるんですよね?

『書紀』にしても「丈六光背」にしても裴清が畿内を訪れた明証があります。一方、九州には裴清の訪倭について文献も金石文もありません。

それでどうして裴清の訪れたイ妥都が九州であると言えるのですか?そういう簡単な質問です。

掲示板ですと、こういう追求をすると九州王朝説支持者の方は段々口調が昂じて来て、終いには罵倒に走ります。

青松光晴さんはそういう方ではないと信じておりますので、どうかご回答のほどよろしくお願い致します。

Re: 幕引き延期ですか?

私の言った内容が理解されてないようです。
こうした史書を解釈するには、その部分だけを議論しても意味がありません。文字が少なければ、その分いかようにでも解釈できるからです。

まずは紀元前からの中国史書(少なくとも漢書地理志から唐書あたりまで)を一貫して解釈したうえで、解釈すべきです。
ここではそれらをすべて俎上に挙げられないので、最も重要と思われる邪馬台国の位置について、まずは議論しようと言ったわけです。
邪馬台国の位置が確定すれば、貴殿の問いに対する答えは、おのずと明らかになります。だから質問したわけです。
逆に確定されないなら、いくら議論しても水掛け論です。

私のなかでは、北部九州ということで結論が出てます。都の位置は時代とともに移動しており、博多湾岸だけではなく、筑前から筑後周辺という広い範囲にかけてあったと考えてます。安本氏の説も大いに参考にしてます(甘木説も包含してます)。

もちろん史書だけでは断定できません。考古学的成果等との一致が必須です。

考古学的にみても、畿内は全く当てはまりません。畿内説に対しては、貴殿が尊敬している安本氏が激しく批判してます。箸墓古墳についても、同様であることはご存じのとおりです。私はこの点に関しても、古田説以上に安本説を参考にしてます。

貴殿が邪馬台国纏向遺跡説であるとのことなので、まずは見解を聞いた次第です。
質問した「纏向遺跡に矛・鉄が出土してないことについて」回答がありませんでした。
これは邪馬台国纏向遺跡説の最も痛いところの一つです。畿内説の方に質問しても、納得のいく答えが返ってきたことはありません。

貴殿は邪馬台国纏向遺跡説であり、それであればいくら議論しても、貴殿の問いに対する答えは平行線のままです。出発点が違ってますから。

これは私のスタンスです。もちろん賛同しろというつもりはありません。しかしながら賛同されないなら、これ以上の議論は無意味です。

私の趣旨に賛同されるなら議論を続けますし、賛同されないならもうやめましょう。お互い時間の無駄です。
貴殿は、史書等についてかなり知見のある方とお見受けしますし、参考になる点もありました。ありがとうございます。またそれなりに立派な研究をされていると推察します。
何歳の方かわかりませんが、時間は有限です。お互い時間をもっと生産的に使ったほうがよろしいかと思います。







幕引きのようですね

>私の言った内容が理解されてないようです。

それはこちらのセリフかと思いますが、、、

>こうした史書を解釈するには、その部分だけを議論しても意味がありません。文字が少なければ、その分いかようにでも解釈できるからです。<

「裴清の道行き文」が、どうして「文字が少な」いと言われるのか不明です。具体的で十分な分量があると思います。それを、
>まずは紀元前からの中国史書
などと仰るのは説明に窮しているからではありませんか?裴清の訪倭は実に簡単な話ですよ。「九州王朝説」など持ち出すから「紀元前からの」などという持って回った解釈を必要とするんだろうと思います。

>何歳の方かわかりませんが、時間は有限です。お互い時間をもっと生産的に使ったほうがよろしいかと思います

そうですね。でも、日本古代史の研究において、まぼろしの九州王朝を追いかけることほど無駄なことはないと思いますよ。「時間をもっと生産的に使ったほうがよろしいかと思います」。

>私の趣旨に賛同されるなら議論を続けますし

「賛同」しないから議論になるんじゃないでしょうか?

>賛同されないならもうやめましょう

「賛同」する方と話してて何か切磋琢磨になるんでしょうか?正反対の意見の人と議論してこそ磨かれてゆくんだと思いますが、、、そう思いませんか?

お子さんやお孫さんがいらっしゃるかどうか存じ上げませんが、仮にいらっしゃったとして、そのお子さんやお孫さんに胸を張って「九州王朝説」を日本の正しい歴史として語ってあげることができるのでしょうか?

口幅ったいことを数多く喋ってきました。さぞかし不愉快に思われたでしょう。大量のブログ投稿を拝見して、日本古代史への情熱は確かに感じました。しかし、その情熱は間違った方へ注がれているように思えてなりません。

こういう場合、高知弁で「ほっちょいてくれ!」と一喝するのがふさわしいのかもしれません。恐らく青松光晴さんの心中もそのようなものでしょう。

短い間でしたが、ほんの少し掲示板時代を思い出すことが出来ました。お付き合いいただきまして有難うございますm(_ _)m

あれ?

青松光晴さん、おはようございます。

>まずは紀元前からの中国史書(少なくとも漢書地理志から唐書あたりまで)を一貫して解釈したうえで、解釈すべきです

それが「裴清の道行き文」と、どんな関係があるのでしょうか?

>それは日本書紀の記載が史実であることが前提です

ならば、「史実」ではないことを述べて反論されればよろしいんじゃありませんか?

>しかしながら日本書紀には、大きな矛盾が数多くあります。切り貼りや他史書からの盗用が多くあることは、一般の研究者かも指摘してます

一般論としては、そのような研究があることは聞き及んでいます。ですが、今は「裴清の道行き文」の話です。裴清が訪れた先がどこか?ということです。「推古紀」十五年から十六年にかけての記事中で「大きな矛盾」や「切り貼りや他史書からの盗用」があるのでしょうか?

掲示板時代に身についたことの一つに、根拠をあげて述べることがあります。

ついでですから関連してお尋ねします。高表仁の訪れた先も九州王朝だとお考えでしょうか?

もし、気が向かなければ返信はなさらなくても結構です。辞去の挨拶は済ませておりますので、、、

あれあれ?

青松光晴さん、コメント削除されました?

Re: 幕引きのようですね

※なぜか途中で送信になってしまいました。
 改めて送信します。

いくら説明しても、私の言っていること、もっというと真意が理解されていません。
やはりこれ以上やりとりしても無駄ですね。

多くの読者がおり、誤解されるといけないので、もう一度整理します。

史書を解釈するには、その部分だけを議論しても意味がありません。文字が少なければ、その分いかようにでも解釈できるからです。
そこで私の研究スタイルはとおりとしてます。
1.まずは紀元前からの中国史書(少なくとも漢書地理志から唐書あたりまで)を一貫して解釈したうえで、検討する。
2.朝鮮半島史書のほか、古事記・日本書紀、その他金石文も同様に検討する。
3.考古学からのアプローチを行なう。
4.その他、科学的データを用いた検討を行う。
以上すべてにおいて、矛盾なく説明できて、初めて解釈が成立します。

人と議論する場合も同様です。
この方式でやるなら、邪馬台国畿内説など意見の違う人とも、いくらでも議論します。
一方、この方式に納得しない人とは議論しません。水掛け論になるのがオチだからです。同じ土俵に乗って、初めて議論になります。

例を出せば、貴殿は隋書と日本書紀の一致を、大きな論拠としてますが、それは日本書紀の記載が史実であることが前提です。しかしながら、日本書紀には大きな矛盾が数多くあります。切り貼りや他史書からの盗用が多くあることは、一般の研究者も指摘してます。
日本書紀の記載が史実かを、ひとつひとつ吟味しなければなりません。その結果、貴殿の論拠とする箇所が史実でない等の結論になれば、貴殿の論拠は崩れます。

また貴殿は、隋書の該当箇所だけ読めば明らかだ、と主張してますが、それが上に挙げた4つの項目すべてにおいて矛盾がないのか、検証する必要があります。検証すれば、必ず矛盾が出てきます。そうなると、読みが間違っているのではないか、という点に戻らざるをえません。

だからそうした作業が必要だと言ってるわけです。

貴殿の尊敬する安本美典氏も、同じようなアプローチをしてますから、決して間違ったアプローチではないでしょう。
貴殿はこの考え方に不満のようですが、それはそれで結構です。どちらがあるべき姿かは、読者の方に判断してもらえばいいと思います。

これ以上説明しても、また意味がないやりとりになるので、やめにします。

私は、自分の考えと異なる意見をもつ方に対する場合、極力相手の立場を尊重するようにしてます。もちろん人間ですから、完璧とはなりえませんが、そのように努めてます。意見はいいますが、論破するつもりもありません。相手が受け入れるかどうかは、相手次第です。

貴殿のコメントは、内容は別にしても、今までの他の方々のコメント(畿内説含む)に比べて、上から目線であり、人を非常に不愉快にさせるものです。そのように感じている読者の方々も多いことでしょう。掲示板での癖が出た、ということも書いてますが、そのような方とこれ以上議論する気はありません。

というわけで、一連のコメントも削除しようかと思いましたが、邪馬台国畿内説の方の論理としても特徴的で、興味深いものでもあります。
読者の方々にとっても参考になると思われますので、しばらくの間そのままにしておきます。

長々とありがとうございました。返信は結構です。今後の研究活動を期待しております。

(ひとりごと)

裴清や高表仁の訪れた先を考えるのに、「紀元前からの中国史書」から説き起こす必要がどうしてあるのか理解できる人はいないかも、、、

「上から目線であり」って、いつもカミさんの尻に敷かれている反動かも。亭主関白の方には理解できないか?

(ひとりごと その2)

「貴殿の尊敬する安本美典氏も、同じようなアプローチをしてますから、決して間違ったアプローチではないでしょう」って安本先生は「九州王朝説」全否定なんだけどなぁ、、、『虚妄の九州王朝説』(旧版『古代九州王朝はなかった』)って安本先生の本、青松光晴さんはお読みになったことないのかなぁ、、、

(ひとりごと その3)

「また貴殿は、隋書の該当箇所だけ読めば明らかだ、と主張してますが、それが上に挙げた4つの項目すべてにおいて矛盾がないのか」って、裴清や高表仁のことを考えるのに、「考古学からのアプローチ」や「科学的データを用いた検討」がどうして必要なんだろうか?彼らの訪問先をヤマトと認めてしまえば、7世紀前半における「九州王朝」が消滅してしまうからなんだろうなぁ、、そりゃ、危機感持ちますよね、、、、

(ひとりごと その4)

かつてYahoo!掲示板「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」トピに私が書いた「裴清の道行き文」を私のHPにも掲載しているのでご案内しておきましょうかね。

http://hyenanopapa.obunko.com/haisei_no_michiyukibun.html

「考古学からのアプローチ」や「科学的データを用いた検討」なんて不要だと思うんだけどなぁ、、、

(ひとりごと その5)

あれ?ウンザリして削除されちゃうかと思ったら放置か。「読者の方々にとっても参考になると思われますので、しばらくの間そのままにしておきます」は有言実行みたい。じゃ、お言葉に甘えて〝ひとりごと〟というスタイルでもう少しお邪魔させていただきましょうかね、、、

青松光晴さんは頭は良さそうだし、熱意もある。人格的にも実直そうで、おそらくは社会的にも信頼されているのでしょう。でも、こういう方がえてして一部の〝くせもの説〟に絡め取られてしまうんですよね。某カルトだってそうだった。

安本説を引き合いに出したりするけど、安本vs古田の激論をご存じないのかな?お二人は激論8時間を2回やってますからね、、、

いまさら宗旨替えはできないかも知れないけど、畿内説が成り立たないというのなら、フツーの九州説に衣替えしたらいいのかも。論理的には安本説。考古学的には高島忠平氏のセンで、、、

実はこっそりご案内しておきましょう。甘木市あたりに卑弥呼の墓の痕跡らしきものがあるんですよね。現地踏査はしてませんが、九州説は卑弥呼の墓の候補地が乏しいので、希望の星になるかも、、、勿論、オオハズレの可能性も大なんですけど、、、

(ひとりごと その6)

そうそう、「裴清の道行き文」の通説を作図した画像をご案内しておきましょう。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-798.html

ついでにYahoo!掲示板で古田説系の論客だったcyber_ek氏の主張に基づく作図もやってましたね。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-797.html

「考古学からのアプローチ」や「科学的データを用いた検討」なんて関係ないと思うけどなぁ、、、

hy注)青松光晴さんのコメント:
--------------------
また貴殿は、隋書の該当箇所だけ読めば明らかだ、と主張してますが、それが上に挙げた4つの項目すべてにおいて矛盾がないのか、検証する必要があります。
--------------------

「上に挙げた4つの項目」のうち、3番めが「考古学からのアプローチを行なう」、4番めが「その他、科学的データを用いた検討を行う」。

しかし、裴清の訪れたイ妥都が九州王朝の都だとした場合、青松光晴さんはどうやって「考古学からのアプローチ」や「科学的データを用いた検討」を行うんでしょうかねぇ、、、

(ひとりごと その7)

まだ削除されないみたいなので、ひとりごと続行!

青松光晴さんは「「海岸」とは九州の東岸の可能性があります」とおっしゃいました。このような考え方をする人はまま見受けられます。

あの直木孝次郎氏もそのように読んだんですね。もちろん直木氏は九州王朝説などではありません。

んで、九州に住んでいる人なら筑紫から九州東岸へ行くルートはどんな地勢か?よく知ってるんですね。「十余国」があるような地勢ではありません。地図を開いてみれば一目瞭然です。なんでそんな山がちの険しい地帯にある十余国を特筆したのか?疑問は解けません。

青松光晴さんはまた、「また筑後川沿いに下ってきたと想定すれば、有明海の可能性もあります」とも言います。でもこれじゃ、「竹斯国以東」という文言が宙に浮きますよね?

(ひとりごと その8)

青松光晴さんは「考古学からのアプローチを行なう」と仰いました。「貴殿は、隋書の該当箇所だけ読めば明らかだ、と主張してますが、それが上に挙げた4つの項目すべてにおいて矛盾がないのか、検証する必要があります」という文脈の中で言われたのですから、7世紀裴清訪倭の時代についても当てはまる、という主旨なんでしょう。

私は掲示板時代、考古学的な面からの発言をできるだけ避けてきました。理由は簡単です。考古学に詳しい方がおられて、私ごときが発言してもそれは蟷螂の斧でしかなかったからですね。

県立図書館の郷土史料室に行けば考古学発掘調査報告書がずらりと並んでいます。そんなもの素人の私が読み込んだとしても無意味です。考古学者が一般向けに、とあるテーマで書いた考古学の本なら素人でも少しは役に立つでしょう。手元にある本で言えば茂木雅博『古墳時代寿陵の研究』なんかですね。各章の各節ごとに多くの参考文献や調査報告書等が紹介されています。こういう本に書かれていることをこわごわ引用することはあります。

一番怖いのは、ある古代史観を持った人が二次的三次的に編纂された書籍から自分の都合に合う部分のみを借用するケースですね。その引用された情報の源泉は確かに学術的なものであったとしても、引用参照を重ねる内にバイアスがかかってしまう傾向がありますね。特に出典を明記していない場合は情報としての価値はほぼ無いとみていいでしょう。

これは勿論自分自身についても言えることです。ですから掲示板で反対の立場の人と議論してみると、自分のバイアスに気づくこともあるわけです。

相手の方も自身のバイアスに気が付いたりすると、お互いに収穫を手にすることが出来たりします。議論しないとひとりよがり症候群がどんどん進行してゆくことになります。

日本古代史において文献からのアプローチは素人的にも出来ないことではありません。ですから多くの人が在野の古代史家として百家争鳴の賑わいをもたらすことになります。

しかし、考古学はどうでしょうか?研究成果は年々更新されてゆくのでしょうから、アマチュアがその成果をリアルタイムでトレースすることは極めて困難でしょうね。

C14だの、IntCalだの、較正曲線だの、海洋リザーバ効果だのetc.etc.なんてのはとても素人的に付いていけません。

最近の考古学は文系ではなく、完全に理系になっているようですね。

ということで、アマチュア古代史家が考古学を持ち出したら眉に唾をつけておいたほうが良さそうです。

No title

まだ大丈夫のようですので、ひとりごと続けます。

青松光晴さんは「太宰府は、倭国の都だった!?(2) ~ 太宰府遺構が物語ること」の中で、内倉武久氏の『太宰府は日本の首都だった』を紹介されていましたね。かつて掲示板でも言及した人がいたような記憶があります。それで図書館から借りてきて読みました。

全体の書評を書くのは無駄のようなのでポイントだけ。

タイトルからすれば、当然裴清の訪倭した先は九州王朝だということになるんだろうと思ったんですね。それで、『隋書』「裴清の道行き文」についてどのような解釈をされているのか興味津々で頁をめくってみました。

111頁にありました。そしてなんと、肝心な箇所が〈中略〉で省かれているではありませんか!

「百済を度り…中略…竹斯国以東は」です。

この中略の部分はどうなっているのか?原文から引きます。【行至竹島,南望[身冉]羅國,經都斯麻國,迥在大海中.又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也.又經十餘國,達於海岸】ですね。

九州王朝説によれば倭都のあるはずの「竹斯国」前後の記述をずっぽり省略しているんです。なぜでしょうか?竹斯国に倭都らしき記述が全く無いこと。十余国の解釈が困難であること。多分そういう理由でしょう。

しかし、裴清の訪れた先は九州王朝の都であるはずですから、この「裴清の道行き文」もそれに合致する解釈をすべきだったのではありませんか?

それと「目多利思比孤」の解釈には苦笑するしかありません。用明がタリシホコ王朝の長官なんて、、、『新唐書』の記述を引いてるんですよね。しかも古田氏の受け売りでしょ。

この「目多利思比孤」ってのは、11世紀の『新唐書』まで待たなくとも9世紀初頭成立の『通典』に出てきます。『通典』には隋文帝開皇二十年に遣使した倭王の名前として「目多利思比孤」が出てきます。「長官」などではありません。「倭王」です、「目多利思比孤」は・・・。

古田氏にしろ内倉氏にしろ、読者が漢籍史料に直接当たることなど無かろうと踏んでいるんでしょうね。


(ひとりごと その10)

キリが良いので、ひとりごとも10個で一応お休みとしましょう。

最後に「蝦夷国」の話です。ご存知とは思いますが、『日本書紀』「斉明紀」五年(659)に「伊吉連博徳書」が引用されています。そこにこの歳の遣唐使について、かなり詳しく述べられています。この際は蝦夷国からの使いも同行していますが、この件については中国史書にも記述が見えます。

例えば、『通典』辺防東夷一 蝦夷国では【海島中小国也 其使 鬚長四尺 尤善弓矢 插箭於首 令人戴瓠而立 四十歩射之 無不中者 大唐顕慶四年十月 隨倭国使人 入朝】とあります。他にも『唐會要』、『太平御覧』四夷部三東夷三 蝦夷国 所引唐書、『太平寰宇記』四夷三東夷三 蝦夷にもほぼ同文が残っています。

ここでは明らかに「倭国」とありますから、九州王朝説の立場では、当然九州王朝の使いということになるんでしょう。蝦夷国の使いは九州王朝からの遣使に同行したということになります。つまり、『日本書紀』はパクったのだ!という解釈をせざるを得ません。

また、同年の記事には「難波吉士男人書」も引用されており、そこには次のようにあります。【大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触れて覆(くつがへ)りき。副使親しく天子に覲(まみ)えて蝦夷を示(み)せまつりき。ここに蝦夷、白鹿の皮一つ、弓三つ、箭八十を天子に献りき」といへり】。この文中に「箭」と見えますが、この「箭」は『通典』等の蝦夷国の記事中にも見えます。「插箭於首」ですね。

この「難波吉士」は、約半世紀前、裴世清が訪倭し筑紫に至った時、彼を招くためヤマトから送られた難波吉士雄成の関係者でしょうか。いずれにしても畿内の人でしょう。

「伊吉連博徳書」に戻りますが、その中に【閏(のち)の十月一日、越州の底(府の誤)に行き到りき。十月十五日、駅(はやうま)に乗りて京に入りき。二十九日、馳せて東京(洛陽)に到る。天子、東京に在(ま)しき。】との文があります。これを『旧唐書』「高宗紀」と付き合わせてみれば、【顕慶四年 閏十月戊寅,幸東都,皇太子監国。戊戌,至東都。】で、高宗が当時「東都」すなわち洛陽にいたという点で合致します。監国は天子が都を離れたときの皇太子の任務です。

659年といえば当然、いまだ九州王朝は倭を代表して中国と通交していたとするのが九州王朝説でしょう。しかし、上掲諸史料からそのようなことを窺うことが果たしてできるのでしょうか?

大いなる疑問無しとしません。

人様のブログにお邪魔して図々しくも延々と私見を書き連ねてきましたが、このような史料事実の上に立って鑑みるに、果たして「九州王朝説」が成り立ちうるものかどうか?暫し熟考する必要があるのではないかと愚行する次第です。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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