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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(18)~装飾古墳と沖ノ島祭祀

沖ノ島祭祀との関連で、津屋崎古墳群をみてきました。

まず北部の勝浦峯ノ畑古墳の被葬者と沖ノ島祭祀の深いつながりがある、という話でした。
次いで、南部の宮地嶽古墳の被葬者は、筑紫の君磐井と関連があるのではないか、ということをお話ししました。
前回は、中間の須多田古墳群と大石古墳群の間にある椎ケ元観音などが、筑紫の君磐井とかかわりがあるという伝承がある、という話でした。

さてこの時代の古墳を代表するものとして、「装飾古墳」があります。今回は、その装飾古墳と沖ノ島祭祀との関係について、みていきましょう。

装飾古墳とは、
”日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。”(Wikipediaより)
です。
築造時期は4~7世紀ころです。

内部の装飾性もさることながら、特徴的なのはその分布です。
”装飾古墳は、日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。”(Wikipediaより)

とあるように、なぜか遠く離れた関東地方に分布してます。これが海人族と関係があるのではないか、という話をしました。
詳しくは
古墳は語る(26)~装飾古墳分布の不思議詳細は
を参照ください。

さて装飾古墳と沖ノ島祭祀の関係ですが、矢田氏も論文中で言及してます。
”またそれらの内容を見ると、様々な様式のものが混在している。原田が指摘しているように、杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳( 6 世紀後半)出土のものとそっくりで、この古墳の被葬者が生前 沖ノ島 に渡ったのではないか、という推理まで記している。”(宗像神の研究(5)、P35)

王塚古墳説明


そしてこの装飾古墳ですが、筑紫の君磐井と深い関連があるとされてます。それに関する興味深い論文があるので、紹介します。

「北部九州の装飾古墳」(平井 正則、月光天文台・福岡教育大学)です。


”考古学者原田大六著「磐井の叛乱」に、北部九州装飾古墳列の推移に関する興味ある議論がある。451年雄略天皇の親政には有明湾沿岸の水沼(みぬま)君などの諸豪族主体の中央海軍が多大な成果をあげた。ところが507年頃継体天皇時代には大伴金村による近視眼的南鮮政策の失敗が起こり、新羅の侵犯を許し、任那滅亡の危機に瀕した。日本政府は新羅出兵を決意、雄略天皇時代以来功績のあった日本海軍たる磐井軍と継体天皇中央陸軍物部麁鹿火等と激突、527年磐井の乱となった。


”原田は雄略天皇時代からの大陸の高い外来文化の影響を受け続けた有明湾岸諸豪族には石人石馬類の岩戸山古墳など石の文化を取り入れ装飾古墳が始まった。
磐井の乱で有明湾沿岸から筑紫君、火君など九州豪族軍は大伴金村軍を追撃、その戦線に沿って、日ノ岡古墳、珍敷古墳、五郎丸古墳、王塚装飾古墳、竹原古墳と一連の装飾古墳が見つかる。こうして装飾古墳の展開は有明湾沿岸から嘉穂街道、飯塚、遠賀川河口岡垣町へ向かい、磐井の乱に深く関係していると指摘する。古墳時代中期雄略天皇時代からの韓半島侵略に貢献した諸豪族は、敵対する韓半島三国の高い文化に接し、特に、高句麗古墳文化に畏敬の念をさえもったと原田は主張する。”


磐井の乱情勢



【解説】
ここがもっとも興味深いところです。装飾古墳は有明海に沿岸にはじまり、時代とともに筑後から筑紫方面へと広がりを見せます。それが磐井の乱における磐井側の戦線に沿っている、というのです。
磐井の乱は、朝鮮半島南部の南加羅・喙己呑を回復するため任那へ向かったヤマト軍に対して、新羅が磐井に妨害するよう要請し、527年6月に磐井が挙兵したことで、始まりました。528年11月に磐井側が破れ、磐井自身斬られ、同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉(みやけ)をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた、 と日本書紀に記載されてます。

ここでいくつか疑問が浮かびます。

ひとつは、敗れたのは磐井の処遇についてです。磐井は斬られ、息子の葛子が糟屋の屯倉を献上したことで死罪を免れた、とありますが、その程度のことで許されるものだろうか、というものです。通常であれば、息子も死罪、家もとりつぶしではないでしょうか。戦国時代の戦いであれば当然そのようにしたでしょう。

もうひとつは、磐井側が破れたのにもかかわらず、その後の装飾古墳の発展をみればわかるとおり、むしろ磐井一派は繁栄していることです。これも大いなる疑問です。

また屯倉についても、疑義があります。屯倉とは
ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。 屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。”(Wikipediaより)
とあるとおり、ヤマト王権の財産のはずです。
ところが”葛子が屯倉を献上した”ということは、献上前は、葛子の財産だったということです。となると、葛子は王室だったのか、という話になります。

このように考えると、磐井の乱について、はたして本当に磐井の反乱だったのか?、という疑問が沸くわけです。実際は、磐井が王で、継体天皇側がクーデターを起こしたのではないか、という見方です。
この問題はいずれということにします。


”実際、宗像三女神に連なる装飾古墳の直列配置(平井 2016)を示し、原田説の地理的根拠を実証するとともに、6世紀東アジア天”文学の韓半島特有の天測技術を議論した。
原田は議論では古墳時代前期珍重された方格神獣鏡には中国神仙思想に基づくシンボルとして天(円)、地(方格)が描かれ、方位に伴う四獣があり、これが装飾古墳の円文、や四象の原点にあると論ずる。
韓半島の高い古墳文化に接した北部九州の豪族軍は石人石馬類の装飾古墳を建造、第18図左の石刻棺(岩戸山古墳)、左の鏡を模した大きな中心円文や不明の双極輪状文の日の岡古墳、第19図の左下の船、日、月、星、人の五郎山古墳、日、月、人、蟾蜍(せんじょ)による葬送の姿の珍敷古墳、右上の前室の四象、玄室の騎馬、人、船の竹原古墳へと発展する。”

7世紀後半築造の竹原古墳には、入口の四象、奥室中央の“さしば”、船、波浪、龍などが描かれ外洋を往来する海人と思われる描写がある。
高句麗古墳に見ない装飾古墳の葬送の様式にある騎馬や(外洋)船の装飾は日本特有のものであり、平井、古屋(2005)は日本特有の大陸と隔てられた海の環境について、大陸から日本への6世紀を中心とする北部九州の文化の源流は、騎馬民族に代表される黄河文化と、南側遼東半島やもっと南から農耕を中心とする定住生活で暦の有効な長江文化とに整理され、北部九州の背振山系を境として北と南に分かれると議論した。
この見方だと王塚装飾古墳は武具、騎馬、人物、円文は黄河文化に依存する形象であり、黄河文化による主に占術の重きを置く騎馬民族に近い、高句麗文化の影響をもつと考えられる。しかし、地下玄室を創り、内部壁黄多彩な色の描画はインドネシアなど南アジアに似たような民族儀式があるという研究者もいる。”


【解説】
筆者は天文の研究者であり、この箇所もその観点からのものです。原古墳は海人系の描写、王塚古墳は、黄河文化、騎馬民族・高句麗文化系、さらには南方系すなわち海人系の描写もあるのではないか、という述べてます。
これは磐井のもっていた文化にも関連する話で、注目です。

王塚古墳文様 
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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