沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(19)~沖ノ島祭祀と筑紫の君磐井の深い関係
さてここまで、沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれかについて、みてきました。
一般的には、ヤマト王権が主体となり、直接であれ地方豪族への委託方式であれ執り行った、とされてます。
ではなぜこのような疑問が生まれるかというと、古事記・日本書紀には
”筑紫の胸肩君等が祭る神”
という記載のほかに、
”筑紫の水沼君らが祭る神”
という記載があるからです。
さらに宇佐の三女神社由緒には、
豪族筑紫君等がこれを祀る。”
とあります。
一方、ヤマト王権が直接祭ったとする明確な記載はなく、遺跡の状況からみても疑問があることをお話ししました。
具体的には、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
という謎があるという話でした。
そして考古学や伝承をみてきました。
まず津屋崎古墳群と関連があることを、お話してきました。
具体的には、
1.勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀を執り行ったのではないか?。
2.宮地嶽古墳は筑紫の君磐井との関連がある。
3.須多田古墳群と大石古墳群の中間には、椎ケ元観音や龍光山恵華寺の伝承のなかに、筑紫の君磐井との関連がうかがわれる。
という内容でした。
また、宗像にもある装飾古墳は、筑紫の君磐井系の古墳である。
という話をしてきました。
筑紫の君磐井は、通説においても、北部九州一帯を支配したとされます。
この図では、装飾古墳の分布と屯倉(みやけ)の分布から、勢力範囲を推測してます。
磐井は、527年の乱(磐井の乱)で敗れ、斬られます。息子の葛子が糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れます。糟屋の屯倉の位置は不明です。上図には、候補地の一つ、鹿部田淵遺跡の位置を、表記しました。
筑紫の君磐井の勢力範囲が、宗像地方を含んでいたのかはっきりしないところですが、北部九州一帯を支配していた様子がうかがえる上に、宗像には装飾古墳があることから、宗像にも及んでいたと考えるのが自然でしょう。
なおこの時代から1世紀ほどのちの時代になりますが、山城が築かれます。九州での範囲が、上の図の範囲とほぼ重なってくることに注目です。
筑紫の君磐井の後続の王たちが、防衛のために築いたと考えられます。当時の都は、大宰府にあったと推定されます。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?
を参照ください。
このようにみてくると、一つの仮説が生まれます。それは
”沖ノ島祭祀は、筑紫の君磐井系が執り行ったのではないか?。”
というものです。
もちろん沖ノ島祭祀は長期間にわたって行われましたから、筑紫の君磐井個人ということではなく、「筑紫の君」系の人々が執り行った、ということです。「筑紫の君」は九州王朝の王ですから、沖ノ島祭祀は九州王朝が執り行った、ということになります。
この仮説であれば、上記の
筑紫の胸肩君等が祭る神”
筑紫の水沼君らが祭る神”
豪族筑紫君等がこれを祀る。”
という記載も解釈できます。
まず胸肩の君が、筑紫君の配下であれば、胸肩の君が祭るという記載は自然です。
また水沼の君は、筑後地方の豪族ですが、九州王朝の王家に近いとされてますから、これも自然に解釈できます。
そして最後の、”豪族筑紫君等がこれを祀る”は、まさに筑紫の君磐井系が祀るということです。
そして沖ノ島祭祀の多くの謎も、このように考えればすっきり説明できるのは、すでにお話ししたとおりです。
一方畿内勢力との関係ですが、九州王朝は少なくとも西日本は支配していたと推定されます。つまり畿内勢力は九州王朝の傘下にあり、立場としては宗像君や水沼公人同様の立場だったのでしょう。そのように解釈すれば、沖ノ島祭祀が畿内の祭祀と似ている理由もわかります。
なお以上の関係性、すなわち筑紫の君がTOPにいて、配下の胸肩の君・水沼君・畿内勢力らが祭るという図式は、一定程度の期間継続しましたが、やがて変化していったと推測されます。
”宗像徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、大和朝廷中枢と親密な関係にあったと見られる。”(Wikipediaより)
とあるとおり、天武天皇の時代、宗像氏は絶大な権力をもちました。一方の九州王朝は、朝鮮半島での戦争に明け暮れ、白村江ので敗れ(663年)、衰退の一途をたどります。
この時代には、九州王朝が主催したのは変わらないとしても、宗像氏が中心となって執り行った可能性は充分考えられます。
↓ 新著です!!
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一般的には、ヤマト王権が主体となり、直接であれ地方豪族への委託方式であれ執り行った、とされてます。
ではなぜこのような疑問が生まれるかというと、古事記・日本書紀には
”筑紫の胸肩君等が祭る神”
という記載のほかに、
”筑紫の水沼君らが祭る神”
という記載があるからです。
さらに宇佐の三女神社由緒には、
豪族筑紫君等がこれを祀る。”
とあります。
一方、ヤマト王権が直接祭ったとする明確な記載はなく、遺跡の状況からみても疑問があることをお話ししました。
具体的には、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
という謎があるという話でした。
そして考古学や伝承をみてきました。
まず津屋崎古墳群と関連があることを、お話してきました。
具体的には、
1.勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀を執り行ったのではないか?。
2.宮地嶽古墳は筑紫の君磐井との関連がある。
3.須多田古墳群と大石古墳群の中間には、椎ケ元観音や龍光山恵華寺の伝承のなかに、筑紫の君磐井との関連がうかがわれる。
という内容でした。
また、宗像にもある装飾古墳は、筑紫の君磐井系の古墳である。
という話をしてきました。
筑紫の君磐井は、通説においても、北部九州一帯を支配したとされます。

この図では、装飾古墳の分布と屯倉(みやけ)の分布から、勢力範囲を推測してます。
磐井は、527年の乱(磐井の乱)で敗れ、斬られます。息子の葛子が糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れます。糟屋の屯倉の位置は不明です。上図には、候補地の一つ、鹿部田淵遺跡の位置を、表記しました。
筑紫の君磐井の勢力範囲が、宗像地方を含んでいたのかはっきりしないところですが、北部九州一帯を支配していた様子がうかがえる上に、宗像には装飾古墳があることから、宗像にも及んでいたと考えるのが自然でしょう。
なおこの時代から1世紀ほどのちの時代になりますが、山城が築かれます。九州での範囲が、上の図の範囲とほぼ重なってくることに注目です。

筑紫の君磐井の後続の王たちが、防衛のために築いたと考えられます。当時の都は、大宰府にあったと推定されます。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?
を参照ください。
このようにみてくると、一つの仮説が生まれます。それは
”沖ノ島祭祀は、筑紫の君磐井系が執り行ったのではないか?。”
というものです。
もちろん沖ノ島祭祀は長期間にわたって行われましたから、筑紫の君磐井個人ということではなく、「筑紫の君」系の人々が執り行った、ということです。「筑紫の君」は九州王朝の王ですから、沖ノ島祭祀は九州王朝が執り行った、ということになります。
この仮説であれば、上記の
筑紫の胸肩君等が祭る神”
筑紫の水沼君らが祭る神”
豪族筑紫君等がこれを祀る。”
という記載も解釈できます。
まず胸肩の君が、筑紫君の配下であれば、胸肩の君が祭るという記載は自然です。
また水沼の君は、筑後地方の豪族ですが、九州王朝の王家に近いとされてますから、これも自然に解釈できます。
そして最後の、”豪族筑紫君等がこれを祀る”は、まさに筑紫の君磐井系が祀るということです。
そして沖ノ島祭祀の多くの謎も、このように考えればすっきり説明できるのは、すでにお話ししたとおりです。
一方畿内勢力との関係ですが、九州王朝は少なくとも西日本は支配していたと推定されます。つまり畿内勢力は九州王朝の傘下にあり、立場としては宗像君や水沼公人同様の立場だったのでしょう。そのように解釈すれば、沖ノ島祭祀が畿内の祭祀と似ている理由もわかります。
なお以上の関係性、すなわち筑紫の君がTOPにいて、配下の胸肩の君・水沼君・畿内勢力らが祭るという図式は、一定程度の期間継続しましたが、やがて変化していったと推測されます。
”宗像徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、大和朝廷中枢と親密な関係にあったと見られる。”(Wikipediaより)
とあるとおり、天武天皇の時代、宗像氏は絶大な権力をもちました。一方の九州王朝は、朝鮮半島での戦争に明け暮れ、白村江ので敗れ(663年)、衰退の一途をたどります。
この時代には、九州王朝が主催したのは変わらないとしても、宗像氏が中心となって執り行った可能性は充分考えられます。
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