日本神話の源流(26)~三種の機能 朝鮮および考察
三種の機能の、最終回です。
ここまでの話をまとめると、
”中央アジアステップ地帯の、イラン系遊牧民の神話が、アルタイ系民族によって受け入れられ、朝鮮半島を経て、日本列島に持ち込まれた。”(同書P220)
となります。
では最終通過地点である朝鮮半島には、三種の機能を表す神話があるのでしょうか?。
吉田氏は、檀君神話を挙げ、
”天より降臨し古朝鮮初代の王檀君(だんくん)の父となったとされる、天帝の庶子桓雄(かんゆう)を主人公とする伝説の中に、明瞭に看取される。”(同書P221)
と述べてます。
檀君とは、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王です。
”『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。 ”(Wikipediaより)
大林太良氏によると、桓雄は主権者、虎は軍事的機能、熊は豊穣の機能にあたるとしてます。
これだけですと、きれいに対応しているのですが、ひとつ問題があります。
”13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『古記』は現在伝わっていない。
檀君神話の元になった伝承があったことは夫余の建国神話、及びツングース系の諸民族に伝わる獣祖神話から察知できる。だが、物語の冒頭の構造は夫余神話からの借り物であって、それにツングース系の獣祖神話を繋ぎ合わせ、物語の結末に檀君王倹という名を嵌め込んだもので、相互に関連のなかった三系統の話を素材にした創作である。これらの傍証からも、檀君神話は朝鮮の古来からの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。”(Wikipediaより)
三国遺事は成立が新しいため、この話も後世に創作されたのではないか、と考えられてます。つまり時代が合わないのではないか、という問題です。
もっとも、元となる話は、夫余やツングースの神話にあったことにはなります。
さて吉田氏はさらに
”高句麗王朝の最初の三人の王たちに関係する伝承の中に、三機能体系の反映がみられる。”(同書P223)
としてます。
三人の王とは、朱蒙、子の瑠璃明王類利(るりめいおうるいり)、さらにその子の大武神王です。ちなみに三国遺事では、朱蒙を檀君の子であると記してます。
伝承のなかで、
初代朱蒙は、鼓角(こかく、太鼓と角笛)
第二代の瑠璃明王類利(るりめいおうるいり)は、 剣
第三代の大武神王 無恤(ぶじゅつ)は、 鼎(かなえ)、金璽(きんじ)と兵物
が対応してる、としてます。
以上を、スキュタイ、日本神話とともに整理したのが、次の表です。
吉田氏は、新羅の伝承や、古代匈奴の祭祀やモンゴルのパンテオンの構造などの中に、痕跡が見出される、としたうえで、
”古代朝鮮がインド・ヨーロッパ語族の三機能を受容しそれを日本に伝えた”という自説を補強してます。
さてここまで読んで、皆さんはどのように思ったでしょうか。
たいへんきれいにまとめられており、筋は通っているようにみえます。
ところがです。よくよく考えてみると、必ずしもそうとはいえないのではないか、という疑問も湧きます
どういうことかというと、ある社会において、支配者がいて支配される人々(生産者)がいれば、そこに支配者を守る戦士という人々が必ずいるはずです。つまり三機能というものは、どこの社会においても必然的に存在するものであり、三機能があったからといって、それが伝播したとはいえないのではないか、ということです。
三機能に対応する宝物についても、同じことがいえます。
古代においては、祭祀が日常的に行われたのであり、そうであれば、支配者、戦士、生産者それぞれが、祭祀に関連するなにがしかの物をもったはずです。
ですから、三機能の宝物があったからといって、それでただちに伝播したとはいえないでしょう。
もちろんそこに、偶然とは思えない関連性があるのであれば、伝播したとはいえますが、断定するにはよくよく慎重に検証すべきと考えます。
さて以上で、吉田氏の著書は、終わりです。
次回以降、まとめをしたうえで、その妥当性についてあらためてみていきます。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
ここまでの話をまとめると、
”中央アジアステップ地帯の、イラン系遊牧民の神話が、アルタイ系民族によって受け入れられ、朝鮮半島を経て、日本列島に持ち込まれた。”(同書P220)
となります。
では最終通過地点である朝鮮半島には、三種の機能を表す神話があるのでしょうか?。
吉田氏は、檀君神話を挙げ、
”天より降臨し古朝鮮初代の王檀君(だんくん)の父となったとされる、天帝の庶子桓雄(かんゆう)を主人公とする伝説の中に、明瞭に看取される。”(同書P221)
と述べてます。
檀君とは、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王です。
”『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。 ”(Wikipediaより)

大林太良氏によると、桓雄は主権者、虎は軍事的機能、熊は豊穣の機能にあたるとしてます。
これだけですと、きれいに対応しているのですが、ひとつ問題があります。
”13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『古記』は現在伝わっていない。
檀君神話の元になった伝承があったことは夫余の建国神話、及びツングース系の諸民族に伝わる獣祖神話から察知できる。だが、物語の冒頭の構造は夫余神話からの借り物であって、それにツングース系の獣祖神話を繋ぎ合わせ、物語の結末に檀君王倹という名を嵌め込んだもので、相互に関連のなかった三系統の話を素材にした創作である。これらの傍証からも、檀君神話は朝鮮の古来からの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。”(Wikipediaより)
三国遺事は成立が新しいため、この話も後世に創作されたのではないか、と考えられてます。つまり時代が合わないのではないか、という問題です。
もっとも、元となる話は、夫余やツングースの神話にあったことにはなります。
さて吉田氏はさらに
”高句麗王朝の最初の三人の王たちに関係する伝承の中に、三機能体系の反映がみられる。”(同書P223)
としてます。
三人の王とは、朱蒙、子の瑠璃明王類利(るりめいおうるいり)、さらにその子の大武神王です。ちなみに三国遺事では、朱蒙を檀君の子であると記してます。
伝承のなかで、
初代朱蒙は、鼓角(こかく、太鼓と角笛)
第二代の瑠璃明王類利(るりめいおうるいり)は、 剣
第三代の大武神王 無恤(ぶじゅつ)は、 鼎(かなえ)、金璽(きんじ)と兵物
が対応してる、としてます。
以上を、スキュタイ、日本神話とともに整理したのが、次の表です。

吉田氏は、新羅の伝承や、古代匈奴の祭祀やモンゴルのパンテオンの構造などの中に、痕跡が見出される、としたうえで、
”古代朝鮮がインド・ヨーロッパ語族の三機能を受容しそれを日本に伝えた”という自説を補強してます。
さてここまで読んで、皆さんはどのように思ったでしょうか。
たいへんきれいにまとめられており、筋は通っているようにみえます。
ところがです。よくよく考えてみると、必ずしもそうとはいえないのではないか、という疑問も湧きます
どういうことかというと、ある社会において、支配者がいて支配される人々(生産者)がいれば、そこに支配者を守る戦士という人々が必ずいるはずです。つまり三機能というものは、どこの社会においても必然的に存在するものであり、三機能があったからといって、それが伝播したとはいえないのではないか、ということです。
三機能に対応する宝物についても、同じことがいえます。
古代においては、祭祀が日常的に行われたのであり、そうであれば、支配者、戦士、生産者それぞれが、祭祀に関連するなにがしかの物をもったはずです。
ですから、三機能の宝物があったからといって、それでただちに伝播したとはいえないでしょう。
もちろんそこに、偶然とは思えない関連性があるのであれば、伝播したとはいえますが、断定するにはよくよく慎重に検証すべきと考えます。
さて以上で、吉田氏の著書は、終わりです。
次回以降、まとめをしたうえで、その妥当性についてあらためてみていきます。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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