日本神話の源流(30)~ローラシア神話
前回は、ゴンドワナ神話とローラシア神話についてでした。
ローラシア神話の特徴として、
1.宇宙と世界の起源
2.神々の系譜
3.半神的英雄の時代
4.人類の出現
5.王の系譜の起源
6.世界の終末(と場合によってはそこからの復活)という一連の連続性がある、
とされてます。
つまり、”神話は本来的に体系をなしていた。”というのです。
さらに、
”神話が単独で存在すると考えるよりも、儀礼を伴って存在したと想定するほうが合理的・合目的的だろう。”
と述べてます。
これはたいへん興味深い指摘であり、のちほど取り上げます。
さて、上の1から6までの一連の流れの冒頭、すなわち「1.宇宙と世界の起源」について、さらに詳しく整理してます。
このなかには
a..混沌・暗黒
b..原初の水
c.潜水神話と漂える台地
d.生命の誕生の契機としての宇宙卵
e.世界を構成する要素を提供する世界巨人
f.世界を構成する要素を提供する世界雄牛
というテーマがあり、ここには論理的展開が認められる、というのです。
つまり、”aからe,fの順序で展開して世界が成立し、そして世界が成立した後には天と大地が出現し、神々や英雄の時代となり、文化の出現が語られる。”
としてます。
なお他書によれば、順序については、必ずしもこの通りというわけではないようです(「世界神話学入門」(後藤明)による)。
そして、この6つのすべてがインドに見られることに、注目してます。
これは、ローラシア神話をもつ人々の祖先は、すべてアラビア半島からインドにかけての地域にいたわけで、その神話(出アフリカ神話)が今でもインドに残っている、ということになります。
なお、アフリカを出る前にもともとあった神話、すなわちパン・ガイア神話にについては、
”世界巨人、洪水神話などのテーマはすでにあり、出アフリカ神話にも、潜水神話のテーマがあったが、それらはローラシア神話の段階になって一連の物語に組み込まれたのであろう。”
と推測してます。
そして、
”今から4万年前のインドにおいて、それまでに神話テーマを取り込みつつローラシア神話の基礎となる神話連続が作られ、神話の体系化がなされた。
当時そこにいた現生人類に受容され、彼らが各地に移動していった結果、広がって、地域ごとにさらに独特の様式を持つようになったのだろう。
ゴンドワナ神話の担い手の集団はすでにインドの地を離れていたので、このローラシア神話の誕生を知らなかった。”
と推測してます。
aからfまでの神話が、どの地域に分布しているのか、整理したのが下の表です。
ヴィツル氏が、世界のすべての神話を網羅的に収集できたわけでもないでしょうし、かつては存在したが、失われた神話も数多くあったことでしょう。ですからこの表だけで推測するのは、不充分ではあります。
とはいえ、ローラシア神話の「1.宇宙と世界の起源」の6つのテーマについて、すべてをもっているのはインドだけで、他の地域はいくつかをもっていないことがわかります。また地域別にみても、その分布に特徴的はみられません。
これはヴィツル氏によれば、もともと彼らの祖先がインドにいたときは6つのテーマをもっていたが、世界各地に拡散するにしたがい次第に消滅していったため、という解釈で説明できます。
日本神話については、「c.潜水神話と漂える台地」のみです。
古事記は前回お話したとおり、簡潔な表現ですが、日本書紀では、次のように詳細に描かれてます。
”昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そしてその後から、その中に神がお生まれになった。
それで次のようにいわれる。天地が開けた始めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦のようであったが、間もなくそれが神となった。国常立尊(くにたちのみこと)と申し上げる。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)と、全部で三柱の神がおいでになる。この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じられた。だから純粋な男性神であった、と。(「日本書紀」(宇治谷孟)より)
このように、順番はさておき、
a.混沌・暗黒
b.原初の水
c.潜水神話と漂える台地
d.生命の誕生の契機としての宇宙卵
eの世界巨人の概念が含まれてませんが、ヴィツル氏は、
”イザナミが火の神を産む話とは対比可能かもしれない”
としてます(「世界神話学入門」(後藤明)P151より)。
また日本各地に「ダイダラボッチ」などの巨人伝説が残りますが、これも世界巨人の類といっていいかもしれません。
最後の「世界雄牛」については、そもそも牛が日本にもたらされたのは古墳時代以降でしょうから、存在しなかった、としていいでしょう。
こうしてみると、日本神話は、ローラシア神話のほとんどの要素をもっている、といえます。
では、日本神話はすべてローラシア神話なのか、というとそうともいえません。
ヴィツル氏が述べているとおり、現生人類がアフリカにいたときもっていた「パンガイア神話」にすでに世界巨人・洪水神話があり、インドに到達したときもっていた「出アフリカ神話」にも、潜水神話があったとしてます。
そうなると、アフリカにあった世界巨人・潜水神話が南洋のゴンドワナ神話に伝わり、それが日本列島に伝わった可能性もあります。
それを検証するには、ゴンドワナ神話をさらに詳しくみる必要があります。
もうひとつ日本神話に特徴的なこととして、ヴィツル氏は、6.世界の終末(と場合によってはそこからの復活)がない、ことを挙げてます(「「古事記」天石屋戸神話における天宇受売命ー発話と露出と笑いー」(井上さやか)P16より、原出典は「神話の「出アフリカ」-比較神話学が探る神話のはじまり」(マイケル・ヴィツル))。
世界の終末といえば、旧約聖書の終末論(最後の審判)を想起します。
”世界の歴史は終末に向って進んでおり,この終末において人類の諸民族に究極的な神の審判が下り,試練によって清められたイスラエルの民には救済がもたらされるとともに,人類史が完成に到達するものと考えられた。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
たしかに日本神話には、このような内容がないですね。
これはよくよく考えてみると、不思議な話です。
ローラシア神話とはひとつの壮大なストーリーであり、そのクライマックスが、終末論であるわけです。いうなれば、この終末論を伝えるために、宇宙の起源から始まって、神々の時代から王の系譜へと、物語を展開するともいえます。
そのもっとも大切な終末論が日本神話にないのは、なぜなのか。
「神話が伝播するうちに、途中で消えてしまったのだ」というのは、終末論の大切さを考えると、考えにくいですね。
「日本人は未来に対して楽観的で能天気だから、時代を経るにしたがって忘れてしまったのだ。」という解釈もありうますが、しっくりこないですね。
皆さんは、どのように考えるでしょうか?。
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ローラシア神話の特徴として、
1.宇宙と世界の起源
2.神々の系譜
3.半神的英雄の時代
4.人類の出現
5.王の系譜の起源
6.世界の終末(と場合によってはそこからの復活)という一連の連続性がある、
とされてます。
つまり、”神話は本来的に体系をなしていた。”というのです。
さらに、
”神話が単独で存在すると考えるよりも、儀礼を伴って存在したと想定するほうが合理的・合目的的だろう。”
と述べてます。
これはたいへん興味深い指摘であり、のちほど取り上げます。
さて、上の1から6までの一連の流れの冒頭、すなわち「1.宇宙と世界の起源」について、さらに詳しく整理してます。
このなかには
a..混沌・暗黒
b..原初の水
c.潜水神話と漂える台地
d.生命の誕生の契機としての宇宙卵
e.世界を構成する要素を提供する世界巨人
f.世界を構成する要素を提供する世界雄牛
というテーマがあり、ここには論理的展開が認められる、というのです。
つまり、”aからe,fの順序で展開して世界が成立し、そして世界が成立した後には天と大地が出現し、神々や英雄の時代となり、文化の出現が語られる。”
としてます。
なお他書によれば、順序については、必ずしもこの通りというわけではないようです(「世界神話学入門」(後藤明)による)。
そして、この6つのすべてがインドに見られることに、注目してます。
これは、ローラシア神話をもつ人々の祖先は、すべてアラビア半島からインドにかけての地域にいたわけで、その神話(出アフリカ神話)が今でもインドに残っている、ということになります。
なお、アフリカを出る前にもともとあった神話、すなわちパン・ガイア神話にについては、
”世界巨人、洪水神話などのテーマはすでにあり、出アフリカ神話にも、潜水神話のテーマがあったが、それらはローラシア神話の段階になって一連の物語に組み込まれたのであろう。”
と推測してます。
そして、
”今から4万年前のインドにおいて、それまでに神話テーマを取り込みつつローラシア神話の基礎となる神話連続が作られ、神話の体系化がなされた。
当時そこにいた現生人類に受容され、彼らが各地に移動していった結果、広がって、地域ごとにさらに独特の様式を持つようになったのだろう。
ゴンドワナ神話の担い手の集団はすでにインドの地を離れていたので、このローラシア神話の誕生を知らなかった。”
と推測してます。
aからfまでの神話が、どの地域に分布しているのか、整理したのが下の表です。

ヴィツル氏が、世界のすべての神話を網羅的に収集できたわけでもないでしょうし、かつては存在したが、失われた神話も数多くあったことでしょう。ですからこの表だけで推測するのは、不充分ではあります。
とはいえ、ローラシア神話の「1.宇宙と世界の起源」の6つのテーマについて、すべてをもっているのはインドだけで、他の地域はいくつかをもっていないことがわかります。また地域別にみても、その分布に特徴的はみられません。
これはヴィツル氏によれば、もともと彼らの祖先がインドにいたときは6つのテーマをもっていたが、世界各地に拡散するにしたがい次第に消滅していったため、という解釈で説明できます。
日本神話については、「c.潜水神話と漂える台地」のみです。
古事記は前回お話したとおり、簡潔な表現ですが、日本書紀では、次のように詳細に描かれてます。
”昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そしてその後から、その中に神がお生まれになった。
それで次のようにいわれる。天地が開けた始めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦のようであったが、間もなくそれが神となった。国常立尊(くにたちのみこと)と申し上げる。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)と、全部で三柱の神がおいでになる。この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じられた。だから純粋な男性神であった、と。(「日本書紀」(宇治谷孟)より)
このように、順番はさておき、
a.混沌・暗黒
b.原初の水
c.潜水神話と漂える台地
d.生命の誕生の契機としての宇宙卵
の概念が含まれていることがわかります。
eの世界巨人の概念が含まれてませんが、ヴィツル氏は、
”イザナミが火の神を産む話とは対比可能かもしれない”
としてます(「世界神話学入門」(後藤明)P151より)。
また日本各地に「ダイダラボッチ」などの巨人伝説が残りますが、これも世界巨人の類といっていいかもしれません。
最後の「世界雄牛」については、そもそも牛が日本にもたらされたのは古墳時代以降でしょうから、存在しなかった、としていいでしょう。
こうしてみると、日本神話は、ローラシア神話のほとんどの要素をもっている、といえます。
では、日本神話はすべてローラシア神話なのか、というとそうともいえません。
ヴィツル氏が述べているとおり、現生人類がアフリカにいたときもっていた「パンガイア神話」にすでに世界巨人・洪水神話があり、インドに到達したときもっていた「出アフリカ神話」にも、潜水神話があったとしてます。
そうなると、アフリカにあった世界巨人・潜水神話が南洋のゴンドワナ神話に伝わり、それが日本列島に伝わった可能性もあります。
それを検証するには、ゴンドワナ神話をさらに詳しくみる必要があります。
もうひとつ日本神話に特徴的なこととして、ヴィツル氏は、6.世界の終末(と場合によってはそこからの復活)がない、ことを挙げてます(「「古事記」天石屋戸神話における天宇受売命ー発話と露出と笑いー」(井上さやか)P16より、原出典は「神話の「出アフリカ」-比較神話学が探る神話のはじまり」(マイケル・ヴィツル))。
世界の終末といえば、旧約聖書の終末論(最後の審判)を想起します。
”世界の歴史は終末に向って進んでおり,この終末において人類の諸民族に究極的な神の審判が下り,試練によって清められたイスラエルの民には救済がもたらされるとともに,人類史が完成に到達するものと考えられた。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
たしかに日本神話には、このような内容がないですね。
これはよくよく考えてみると、不思議な話です。
ローラシア神話とはひとつの壮大なストーリーであり、そのクライマックスが、終末論であるわけです。いうなれば、この終末論を伝えるために、宇宙の起源から始まって、神々の時代から王の系譜へと、物語を展開するともいえます。
そのもっとも大切な終末論が日本神話にないのは、なぜなのか。
「神話が伝播するうちに、途中で消えてしまったのだ」というのは、終末論の大切さを考えると、考えにくいですね。
「日本人は未来に対して楽観的で能天気だから、時代を経るにしたがって忘れてしまったのだ。」という解釈もありうますが、しっくりこないですね。
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