古事記・日本書紀のなかの史実 (1)~記紀は創作?
前回までのシリーズで、日本神話がいつごろ、どこから伝わったのかについて、推測しました。
また神話は、単なる言葉として伝わったのではなく、儀式をともなって伝わったこと、そして伝承されるなかで、ときの支配者たちの事績が取り込まれていき現在の形になったことなどをお話しました。
ここでの大事なポイントは、神話のなかには支配者たちの事績が残されている、ということです。
私はこれを「神話のリアリティ」と表現しました。
さてこうしたことを念頭に置きながら、今回からいよいよ古事記・日本書紀についてみていきます。
古事記・日本書紀についての研究は、これまで千年以上にわたって数え切れほどのない研究者が研究してます。ただし特に近代になってからは、歴史研究という視点よりむしろ、文学としての研究に重点が置かれてきたようです。
江戸時代には、本居宣長らにより古事記・日本書紀は史実ととらえ研究されました。戦前までその流れは変わらず、皇国史観とされ、軍国主義教育の支えとなりました。
敗戦により皇国史観は否定され、その結果、津田左右吉氏に代表されるように、「古事記・日本書紀は8世紀の史官による造作である」という説が主流となり、今にいたっています。
ところが何事においても振り子の原理のように、片方に振れれば元に戻ろうとする「より戻し」の作用が働くもので、最近では、古事記・日本書紀には、史実が含まれているのではないか、という主張も盛んにされるようになりました。
それは文献研究からだけではなく、考古学をはじめとしたさまざまな科学的な観点からの研究も踏まえた主張です。
私もその一人であるわけですが、まずは津田左右吉氏の主張をみてみましょう。
実は津田氏の著書を読むまでは、津田氏の歴史観は、
”邪馬台国は畿内にあり、それが発展して古墳時代には日本を統一して大和王権になり、天皇家として現在に至っている。”
という主張だと思ってました。
現在の通説派の考えに近いですね。
ところがです。驚いたことに、そうではなかったのです。
以下、著書からです。
”三世紀になると、文化上の関係がさらに深くなるとともに、その交通にいくらかの政治的意義が伴うこととなり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位における君主を威圧しようとするものが生じた。ヤマト(邪馬台国、今の筑後か山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマト(邪馬台)の君主はほぼ九州の北半分の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。
九州地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、瀬戸内海の航路によって、早くからのちのいわゆる近畿地方に伝えられ、一、二世紀の頃にはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。”(「古事記及び日本書紀の研究ー建国の事情と万世一系の思想」(津田左右吉)P15)
まず邪馬台国について、明確に北部九州(福岡県の筑後・山門あたり)といってます。そして並立して、畿内には皇室の祖先(後のヤマト王権)が勢力を伸ばしていた、としてます。私の主張とほぼ同じです。
”三世紀においては、出雲の勢力を帰服させることはできたようであるけれども、九州地方にはまだ進出することができなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統制している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。”
北部九州の邪馬台国は大きな力をもっており、畿内のヤマト王権も九州に進出できなかったとしてます。これも私の主張と同じです。
"けれども、四世紀に入るとまもなく、アジア大陸の東北部における遊牧民の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じて九州の地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀前半のことである。”(同書P17)
”普通に考えられているような日本国の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったものではないことは、おのずと知られよう。”
”日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、あたっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。”(同書P18)
4世紀の前半、その北部九州の邪馬台国を、畿内のヤマト王権が屈服させた、としてます。よくいわれる「邪馬台国東遷説」を否定してます。これも私の主張と同じです。
ただし私は屈服というよりも、「併合した」とみており、その時期を7世紀後半とみてます。なお「併合した」とすれば、津田氏のいう”とくに建国というべきときはない”という指摘と重なります。
いずれにしろ津田氏は、日本建国を神武天皇の奈良の樫原で宮の即位から、とする古事記・日本書紀の記載は否定してます。津田氏は、神武天皇自体の実在を否定してますから、当然です。
私は、神武天皇の実在を必ずしも否定してませんが、仮に神武天皇即位という事績があったとしても、その時点では国家統一とは程遠いという認識で、その点では同様な主張です。
さらに次のように述べてます。
”ここにいったような方法によって研究せられた人種や民族に関する学術的知識が、もし、わが国の上代に種々の異人種、異民族がいて、それらの地理的分布がどんな状態であったか、またそれらがどういう径路、どういう形勢で移動したかということを確実に証明した上において、記紀の記載をそれらの異人種、異民族の行動の記録として見、それらがすべての点において互いに符合し、無理のない比定ができることを認め得た場合、それによって記紀の物語の全部が遺漏なく説明し得られる場合、そしてまたその人種上、民族上の差別や移動が記紀にあらわれ得る如き近い世において存在し、また行われたことの明らかに知られた場合には、記紀の記載はあるいはそういう風に解釈してもよいかもしれぬ(事実上それができないことは明らかであるが)。
人種や民族に関する学術的知識とは、比較解剖学・比較言語学・民族学などを指してますが、それらにより解明されたことが記紀の内容と一致していれば、記紀を史実と解釈してもよい、と述べてます。ただしそれは事実上できないことは明らか、とも述べてます。
つまり津田氏は、記紀の内容が史実かどうかは科学的には解明しえないのだ、だから史実とは断定しえないのだ、といっています。
逆にいえば、科学的に説明できれば、史実と認めていいよ、となります。
確かに津田氏の時代においては、科学が現在ほど発達してませんでしたから、このような考えも致し方ないところです。
ところが近年の科学の発達はめざましいものがあります。考古学に関するものでは、多くの遺跡や遺物の発掘が相次いでます。また炭素同位体測定等による年代測定、鉛の成分分析による青銅器素材地推定、地質調査による古代地形推定、さらに遺伝子学の進歩による人類移動の時期とルートなど、実に多くのことがわかってきました。
これらを元に史実を組み立てたものによれば、記紀はじめ中国等外国史書の記載について説明できることは、拙ブログや拙著でもお話してきたとおりです。
さらに津田氏は続けます。
”そうしてまた、そういう解釈をする場合には、民族や人種の行動が何故にそのまま伝えられずして記紀のような形をとったか、ということについて、充分の説明をしなければならぬ(これもまたできないであろう)(同書P62-63)
わかりにくい表現ですが、おそらく津田氏の疑問は、記紀の記載には矛盾や不自然なところが多いが、なぜそうなったのか、というところにあったのだと思われます。
たとえば九州北部にあったとした「邪馬台国」は、具体的国名としては一切登場しません。それはなぜか、ということでしょう。
これについても、ここまでお話しているように、倭国は北部九州に中心勢力があり、その都が邪馬台国だったとすれば、説明できます。なぜ記紀に記載されなかったのかといえば、畿内勢力(ヤマト王権)にしてみれば、都合の悪い史実はカットしたと考えれば、自然です。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
また神話は、単なる言葉として伝わったのではなく、儀式をともなって伝わったこと、そして伝承されるなかで、ときの支配者たちの事績が取り込まれていき現在の形になったことなどをお話しました。
ここでの大事なポイントは、神話のなかには支配者たちの事績が残されている、ということです。
私はこれを「神話のリアリティ」と表現しました。
さてこうしたことを念頭に置きながら、今回からいよいよ古事記・日本書紀についてみていきます。
古事記・日本書紀についての研究は、これまで千年以上にわたって数え切れほどのない研究者が研究してます。ただし特に近代になってからは、歴史研究という視点よりむしろ、文学としての研究に重点が置かれてきたようです。
江戸時代には、本居宣長らにより古事記・日本書紀は史実ととらえ研究されました。戦前までその流れは変わらず、皇国史観とされ、軍国主義教育の支えとなりました。
敗戦により皇国史観は否定され、その結果、津田左右吉氏に代表されるように、「古事記・日本書紀は8世紀の史官による造作である」という説が主流となり、今にいたっています。
ところが何事においても振り子の原理のように、片方に振れれば元に戻ろうとする「より戻し」の作用が働くもので、最近では、古事記・日本書紀には、史実が含まれているのではないか、という主張も盛んにされるようになりました。
それは文献研究からだけではなく、考古学をはじめとしたさまざまな科学的な観点からの研究も踏まえた主張です。
私もその一人であるわけですが、まずは津田左右吉氏の主張をみてみましょう。
実は津田氏の著書を読むまでは、津田氏の歴史観は、
”邪馬台国は畿内にあり、それが発展して古墳時代には日本を統一して大和王権になり、天皇家として現在に至っている。”
という主張だと思ってました。
現在の通説派の考えに近いですね。
ところがです。驚いたことに、そうではなかったのです。
以下、著書からです。
”三世紀になると、文化上の関係がさらに深くなるとともに、その交通にいくらかの政治的意義が伴うこととなり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位における君主を威圧しようとするものが生じた。ヤマト(邪馬台国、今の筑後か山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマト(邪馬台)の君主はほぼ九州の北半分の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。
九州地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、瀬戸内海の航路によって、早くからのちのいわゆる近畿地方に伝えられ、一、二世紀の頃にはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。”(「古事記及び日本書紀の研究ー建国の事情と万世一系の思想」(津田左右吉)P15)
まず邪馬台国について、明確に北部九州(福岡県の筑後・山門あたり)といってます。そして並立して、畿内には皇室の祖先(後のヤマト王権)が勢力を伸ばしていた、としてます。私の主張とほぼ同じです。
”三世紀においては、出雲の勢力を帰服させることはできたようであるけれども、九州地方にはまだ進出することができなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統制している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。”
北部九州の邪馬台国は大きな力をもっており、畿内のヤマト王権も九州に進出できなかったとしてます。これも私の主張と同じです。
"けれども、四世紀に入るとまもなく、アジア大陸の東北部における遊牧民の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じて九州の地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀前半のことである。”(同書P17)
”普通に考えられているような日本国の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったものではないことは、おのずと知られよう。”
”日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、あたっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。”(同書P18)
4世紀の前半、その北部九州の邪馬台国を、畿内のヤマト王権が屈服させた、としてます。よくいわれる「邪馬台国東遷説」を否定してます。これも私の主張と同じです。
ただし私は屈服というよりも、「併合した」とみており、その時期を7世紀後半とみてます。なお「併合した」とすれば、津田氏のいう”とくに建国というべきときはない”という指摘と重なります。
いずれにしろ津田氏は、日本建国を神武天皇の奈良の樫原で宮の即位から、とする古事記・日本書紀の記載は否定してます。津田氏は、神武天皇自体の実在を否定してますから、当然です。
私は、神武天皇の実在を必ずしも否定してませんが、仮に神武天皇即位という事績があったとしても、その時点では国家統一とは程遠いという認識で、その点では同様な主張です。

さらに次のように述べてます。
”ここにいったような方法によって研究せられた人種や民族に関する学術的知識が、もし、わが国の上代に種々の異人種、異民族がいて、それらの地理的分布がどんな状態であったか、またそれらがどういう径路、どういう形勢で移動したかということを確実に証明した上において、記紀の記載をそれらの異人種、異民族の行動の記録として見、それらがすべての点において互いに符合し、無理のない比定ができることを認め得た場合、それによって記紀の物語の全部が遺漏なく説明し得られる場合、そしてまたその人種上、民族上の差別や移動が記紀にあらわれ得る如き近い世において存在し、また行われたことの明らかに知られた場合には、記紀の記載はあるいはそういう風に解釈してもよいかもしれぬ(事実上それができないことは明らかであるが)。
人種や民族に関する学術的知識とは、比較解剖学・比較言語学・民族学などを指してますが、それらにより解明されたことが記紀の内容と一致していれば、記紀を史実と解釈してもよい、と述べてます。ただしそれは事実上できないことは明らか、とも述べてます。
つまり津田氏は、記紀の内容が史実かどうかは科学的には解明しえないのだ、だから史実とは断定しえないのだ、といっています。
逆にいえば、科学的に説明できれば、史実と認めていいよ、となります。
確かに津田氏の時代においては、科学が現在ほど発達してませんでしたから、このような考えも致し方ないところです。
ところが近年の科学の発達はめざましいものがあります。考古学に関するものでは、多くの遺跡や遺物の発掘が相次いでます。また炭素同位体測定等による年代測定、鉛の成分分析による青銅器素材地推定、地質調査による古代地形推定、さらに遺伝子学の進歩による人類移動の時期とルートなど、実に多くのことがわかってきました。
これらを元に史実を組み立てたものによれば、記紀はじめ中国等外国史書の記載について説明できることは、拙ブログや拙著でもお話してきたとおりです。
さらに津田氏は続けます。
”そうしてまた、そういう解釈をする場合には、民族や人種の行動が何故にそのまま伝えられずして記紀のような形をとったか、ということについて、充分の説明をしなければならぬ(これもまたできないであろう)(同書P62-63)
わかりにくい表現ですが、おそらく津田氏の疑問は、記紀の記載には矛盾や不自然なところが多いが、なぜそうなったのか、というところにあったのだと思われます。
たとえば九州北部にあったとした「邪馬台国」は、具体的国名としては一切登場しません。それはなぜか、ということでしょう。
これについても、ここまでお話しているように、倭国は北部九州に中心勢力があり、その都が邪馬台国だったとすれば、説明できます。なぜ記紀に記載されなかったのかといえば、畿内勢力(ヤマト王権)にしてみれば、都合の悪い史実はカットしたと考えれば、自然です。
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