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古事記・日本書紀のなかの史実 (4)~「ヤマトタケルの法則」

 さて、前回までの話から、古事記・日本書紀の成立経緯がわかり、さらには史実解明の糸口がみえてきます。

古事記・日本書紀は、「帝紀」「旧辞」はじめ、多くの資料(典拠資料)をもとに書かれたわけです。
その典拠資料も、もともとは何らかの史実があり、それが多くの人に伝えられていくうちに、次第に変化していったことでしょう。日本書紀には、「一書にいわく」という注記がたびたび出てきて、同じ話についても多くの異伝が合わせて記載されていることが、これを示しています。

つまり古事記・日本書紀と史実は、次の図のような関係になるのではないかと、考えられます。

古事記・日本書紀成立経緯
1.まず、史実Aがあったとします。

2.これを現場にいた人が、何らかの記録に残したとします。直接見た人ですから、その内容はほぼ史実に同じでしょう。これを伝承Aaとします。

3.この伝承Aaが人々に広まりますが、尾ひれ背びれがつき、さらに伝える人により変化していったでしょう。これらを伝承Aa-1,Aa-2,Aa-3・・とします。

4.「帝紀」「旧辞」は、このうち伝承Aa-1,Aa-2をもとに作られたとします。そうなると古事記には、伝承Aa-1,Aa-2が伝わり編纂されたことになります。一方、伝承Aa-3は伝わらなかったことになります。

5、日本書紀は、古事記に伝わった伝承Aa-2のほかに、古事記に伝わらなかった伝承Aa-3も伝わったでしょう。また帝紀・旧辞、すでに編纂されていた古事記のほか、外国史書も参照して編纂されました。一方、古事記に伝わった伝承Aa-1は、伝わったにしても「帝紀」「旧辞」を介してなので、薄まったと推測されます。

以上のように考えると、古事記・日本書紀の記載に大きな違いがある理由が説明できます。典拠となる伝承に違いがあるうえに、日本書紀の場合は、さらに外国史書も参考にしているわけで、違っていて当然です。大人数で数百年にわたる伝言ゲームをやっているようなものですね。

ここでもうひとつ、「天皇記」「国記」の存在があります。

”620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。
645年(皇極5年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。”(Wikipediaより)


「天皇記」「国記」の内容は定かではありませんが、名称からいって、天皇家の系統や国の成り立ちが記録されていたと推測されます。そして注目は、それらを蘇我蝦夷が所有していたことです。

問題は、なぜ天皇家ではなく、蘇我家が所有していたのかです。
蘇我家が文書管理を担当していたからだ、という説明がされましょうが、はたしてそうでしょうか?。天皇家の系図や国の成り立ちは、天皇家の正当性を証明するのにもっとも大切なものです。それを失ってしまっては、正当性が失われるからです。ふつうなら、自ら保管するのではないでしょうか。

となると、ここで疑問が浮かびます。
「当時の最高権力者は(名称を天皇と呼んだかは別として)、蘇我家だったのではないのか?」
という、素朴な疑問です。
この問題は、いずれ取り上げます。

話を元に戻します。
古事記・日本書紀の成り立ちが、以上のようなものであったのであれば、古事記・日本書紀のなかの史実解明のヒントがみえてきます。

古事記・日本書紀の記載に違いがあるなら、どちらかがより史実に近いはずです。
そしてそれを見分けるポイントがあります。

まず、天皇家にとって都合のいい記載と悪い記載があった場合、都合の悪い記載が史実により近いのではないか、と推測できます。なぜなら、古事記・日本書紀は、天皇家の正当性を示すためというのが目的のひとつであるならば、天皇家にとって都合の悪い記載は削除、あるいは改竄して都合のいい記載にするのが、普通だからです。

そんなことを本当に行ったのか、という疑問をもたれた方もいるかもしれません。しかしながら昨今、国会でも話題になっている公文書改竄問題をみてもわかるとおり、権力者にとっては都合の悪い文書は残したくものです。これだけ官僚機構がしっかりできていて、また規程類も完備されている現代においても、起こりうるのです。ましてそのようなものが何もなく、チェック機能もない古代であれば、むしろ改竄などがおこなわれないほうが、不自然でしょう。

具体的にみてみましょう。
前回触れたヤマトタケルの説話です。
日本書紀では、日本統一に貢献した英雄として描かれてますが、古事記では、兄を殺した気性の荒い弟で、そのために父の景行天皇から恐れられ西征を命じられるという設定です。

上のポイントからみれば、古事記の残酷なヤマトタケルという記載のほうが史実に近い、と推測できます。なぜなら、もし日本書紀に描かれるな英雄としてのヤマトタケルが史実に近いのであれば、わざわざ古事記編纂時に、残酷なヤマトタケルという記載にする動機はないからです。

そんな記載をして天皇に奏上すれば、「私たちの先祖の英雄をそのように描くとは、とんでもないやつだ」といって、首をはねられるかもしれません。史実だと太安万侶が判断したから、そのまま記載したのでしょう。

一方日本書紀では、古事記のような残酷なヤマトタケルのイメージは、天皇家の正史として記載するのはよろしくないと考え、古事記の伝承ではなく「英雄」としての伝承を採用したのか、もしくは改変した可能性が高いと考えます。

このように、”同じ人物についてよい記載と悪い記載がある場合は、悪い記載が史実に近い可能性が高い”、という推論を、「ヤマトタケルの法則」と呼ぶことにします。

第25代の
武烈天皇についても、みてみましょう。古事記ではさらりと系統などを記載している程度ですが、日本書紀では暴虐の限りを尽くした極悪人として描かれてます。

問題は、先祖である武烈天皇を、なぜそこまで貶める必要があったのかです。たとえ史実だったとしても、カットすればいいだけの話です。

ここから、次の天皇である継体天皇の正当性に、疑いをもたれていたからではないか、という推測ができます。

実際武烈天皇には子供がなかったので、し烈な後継争いがあったことでしょう。そんなおり、突如越前にいた男大迹(おおどの名前が挙がります。応神天皇5世孫といわれてますが、実態は不明です。彼が継体天皇として即位しますが、大和に入るのに20年もかかるなど、不審な点が指摘されてます。

このような経緯から、当時、継体天皇の正当性に大きな疑問をもたれていたことは、容易に想像がつきます。

そこで「先代の武烈天皇は、どうしようもない人だったのだ。その世を改めるために遠い越前の国から継体天皇を呼び寄せることにより、よい時代になったのだ。」というイメージを作り上げるために、武烈天皇が貶められたのだ、と考えられるわけです。

このように、”前の権力者が貶められているときは、次の権力者の正当性に疑念がある可能性がある”という推論を、「武烈天皇の法則」と呼ぶことにします。

他にも法則がいくつか挙げられますが、それはいずれということにします。

以上のように、古事記・日本書紀に描かれている説話をひとつずつみていくと、史実がおぼろげながらみえてくると思われます。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!




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史書の中に隠された史実

いつも勉強させていただいています。
今回も興味あるテーマですので、助かります。
史書には事実だけが書かれていない、時にはウソが書かれているという認識が必要なのですが、何が本当で何がウソかを見極める技術が必要かと思います。
このコメントを書いているうちに長くなりすぎたので、ブログにしました。お時間がございましたらまたどうぞお越しください(*^▽^*)
どうもありがとうございました。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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