隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?

2015年08月12日08:29  隋書倭(俀)国伝 写真あり

いよいよ隋書倭(原文は俀(たい))国伝のハイライトです。

【現代訳】
隋の煬帝(ようだい)の大業(たいぎょう)三年(607年)、俀国の王の多利思北孤(たりしほこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
「大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それゆえに使者を派遣して天子に礼拝をさせ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせたいと思ったのです。」
そして倭国の国書には、こう書いてあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりはないか・・・」
煬帝は、この国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
「蛮夷からの手紙のくせに、礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。」
【解説]
知らない日本人がいないほどの、有名なくだりです。歴史の授業でも習いましたよね。国書を出したのは、聖徳太子だと習ったと思いますが。ただ、私としては、なんとなく腑に落ちない感覚を持っていました。
「徳のあるはずの聖徳太子が、どうして相手を怒らせるような礼を失した表現を使ったのだろう?」と。
「当時の日本は、文化が成熟しておらず、中国の風習も知らなったからだ。」などという説明があった記憶がありますが、そんなことがあるのでしょうか。中国との関係は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代まで、恭順の意を示すなど、非常に気を使っていたわけで、その歴史を知っていれば、こんな国書を出すはずがありません。何か理由があるとしか思えません。
前回までで、国書を出した倭(原文は俀(たい))国王の多利思北孤(たりしほこ)は、推古天皇ではなく、聖徳太子でもない。九州王朝の王だという話をしました。となると、多利思北孤とは、礼儀もわきまえない傲慢な人だったのでしょうか。

煬帝(569~618年)絵図
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この点に関し、古田武彦氏が、とても鋭い指摘をしています。これには、中国王朝の系統の話が関係している、と。

中国王朝の系統といっても、自分のなかでは、北方遊牧民のチンギス・ハーンが建国した元(1266~1367)が異民族支配した話が有名で、あとは同じ中国人のなかで王朝交代がなされたのか、程度の認識でした。日本で言えば、平家がいて、それを鎌倉幕府が倒して以後、政権が代わりましたが、戦国時代を織田信長が統一し、豊臣秀吉を経て徳川家康の江戸幕府ができるわけです。いってみれば同じ大和民族内での話です。ところが、中国はまったく異なります。
ここで、中国王朝の系統を整理します。

一度、時代をさかのぼります。
邪馬台国の卑弥呼が交流したのは、三国志時代のでした。その魏から禅譲されてできた国が西晋で、魏志倭人伝を書いた陳寿も西晋の役人でした。西晋が滅ぼされたのち建国された国が、東晋(317年~420年)です。そののち、宋、斉、梁、陳と続きます。邪馬台国ののち、倭の五王の時代などを通じ交流したのは、すべてこの系統の国々です。この系統の王朝を、南朝と呼びます。

一方、西晋が滅ぼされたのち、北部については、五胡十六国の、戦乱の時代に突入します。五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五つの北方民族を指します。これらを北魏が統一し(439年)、南北朝時代となります。
北魏が534年に滅亡し、東魏と西魏に分裂します。その後、東魏が北斎に、西魏が北周に代わります。この系統を、北朝といいます。

そして南朝と北朝を統一したのが、北周の流れをくむ隋の楊堅(のちの隋の文帝、煬帝の父)です。
つまり、隋は北朝系ということになります。

南北朝時代(北魏時代)の中国勢力図(Wikipediaより)

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おおまかな流れは、以上のとおりです。
ようするに、邪馬台国以来、倭国が恭順の意を示してきた南朝が倒され、北方民族系の北朝にとって代わられた、ということです。

さてここで、考えてみてください。俀国王の多利思北孤は、どう考えたでしょうか?。
「長いものには巻かれろ」の例えどおり、変わり身早く、新たな北朝の皇帝におべっかを使ったでしょうか。

皆さんおわかりのとおり、多利思北孤は、滅ぼされた南朝への義を立てました。それが、「日出ずる処の天子・・」の表現だったのです。
天子とは本来中国皇帝のことであり、唯一絶対の存在です。その天子を、俀国王が名乗ったわけですから、煬帝が不機嫌になったのも、当然かもしれません。
逆に言えば、それほどまでに、俀国王の多利思北孤には、南朝に対する忠義心と、「自分は正統な南朝から認められた王だ。」という自負心があったのでしょう。まさに、武士の美学とでもいうべきものを(時代は異なりますが)、感じませんでしょうか?。

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