古事記・日本書紀のなかの史実 (11)~イザナギ・イザナミが惚れ合う
オノロゴ島に降り立ったイザナギ・イザナミは、次々にクニを産みます。
続きの口語訳です。Wikipediaからですが、一部に生々しい表現がありますので、気になる方は軽くお読みください。
”[イザナギ・イザナミは]その島(※オノロゴ島)に天降って、天の御柱(あめのみはしら、天を支える柱)と八尋殿(やひろどの、※いく尋(ひろもある広い殿舎)を、しっかり見定めてお建てになった。
ここで[イザナギが]女神・イザナミに「あなたの身体はどのようにできているか」とお尋ねになると、イザナミは「私の身体にはどんどん出来上がって[それでも]足りない処(※成長し切っていながら隙間が合わさって塞がることのない処。女陰のこと)が1箇所ある」とお答えになった。
そこで、イザナギは「私の身体にはどんどん出来上がって余っている処(※成長し切って余分にできている処。男根のこと)が1箇所ある。そこで、この私の成長して余った処であなたの成長して足りない処を刺して塞いで国土を生みたいと思う。生むのはどうか。」と仰せになった。
イザナミは「それは善いことでしょう」とお答えになった。そこで、イザナギは「それならば、私とあなたとで、この天の御柱の周りを巡って出逢い、みとのまぐわい(※御陰(みと)の目合(まぐわい)、陰部の交わり)をしよう。」とお答えになった。
このようにして、二神は男女として交わることになる。イザナギは左回りにイザナミは右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、イザナミが先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」とイザナギを褒め、次にイザナギが「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」とイザナミを褒めてから、二神は目合った(性交した)。”
【解説】
天の御柱の周りを、イザナギが左回りに、イザナミが右回りに回り、結ばれるというところです。前のシリーズで、これが中国南西部の少数民族で歌われる儀礼そのものである、という話をしました。
”柱の周りをそれぞれが右回りと左回りに回って出会い、惚れ合うのは、中国南西部の少数民族で行われる歌垣の儀礼そのものである。”(「世界神話学入門」(後藤明、P4)
詳しくは
日本神話の源流(36)~神話と祭祀儀式はセット
を参照ください。
「世界神話説」の提唱者であるマイケル・ヴィツル氏は、
神話は単に言葉として伝わったのではなく、儀礼を伴った、と述べてます。
この説どおりとすれば、神話の原型が日本列島に伝わったさい、儀礼とともに伝わった、ということになります。
具体的に考えると、以下のようになります。
1.神話が伝わった当初の主人公は、AとBだった。
2.日本でも儀礼を毎年行うようになりますが、やがて主人公が、イザナギ・イザナミに変わっていった(実際に、イザナギ・イザナミという人物がいたかどうかは別として)。
3.その後の儀礼では主役の男女(土地の支配階級の人々)が、イザナギ・イザナミに扮して演じた。
4.やがて神話として、イザナギ・イザナミが柱の周囲を回って惚れ合った、という話ができあがった。
以上のように、神話とは単なる物語ではなく、実際にそれを行った人がいた、ということでになります。私はそこに、「神話のリアリティ」をみる、という話をしました。
この儀礼は歌垣として行われるようになりましが、その後さらに発展していくことからもわかります。
"歌垣はその後の歌合、連歌に影響を及ぼしたとされている。現代にも歌垣の残存は見られ、奄美群島のシマ唄の唄遊びや八月踊り、沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣の遺風が見られる。
外国では、中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。”(Wikipediaより)
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
続きの口語訳です。Wikipediaからですが、一部に生々しい表現がありますので、気になる方は軽くお読みください。
”[イザナギ・イザナミは]その島(※オノロゴ島)に天降って、天の御柱(あめのみはしら、天を支える柱)と八尋殿(やひろどの、※いく尋(ひろもある広い殿舎)を、しっかり見定めてお建てになった。
ここで[イザナギが]女神・イザナミに「あなたの身体はどのようにできているか」とお尋ねになると、イザナミは「私の身体にはどんどん出来上がって[それでも]足りない処(※成長し切っていながら隙間が合わさって塞がることのない処。女陰のこと)が1箇所ある」とお答えになった。
そこで、イザナギは「私の身体にはどんどん出来上がって余っている処(※成長し切って余分にできている処。男根のこと)が1箇所ある。そこで、この私の成長して余った処であなたの成長して足りない処を刺して塞いで国土を生みたいと思う。生むのはどうか。」と仰せになった。
イザナミは「それは善いことでしょう」とお答えになった。そこで、イザナギは「それならば、私とあなたとで、この天の御柱の周りを巡って出逢い、みとのまぐわい(※御陰(みと)の目合(まぐわい)、陰部の交わり)をしよう。」とお答えになった。
このようにして、二神は男女として交わることになる。イザナギは左回りにイザナミは右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、イザナミが先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」とイザナギを褒め、次にイザナギが「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」とイザナミを褒めてから、二神は目合った(性交した)。”
【解説】
天の御柱の周りを、イザナギが左回りに、イザナミが右回りに回り、結ばれるというところです。前のシリーズで、これが中国南西部の少数民族で歌われる儀礼そのものである、という話をしました。
”柱の周りをそれぞれが右回りと左回りに回って出会い、惚れ合うのは、中国南西部の少数民族で行われる歌垣の儀礼そのものである。”(「世界神話学入門」(後藤明、P4)
詳しくは
日本神話の源流(36)~神話と祭祀儀式はセット
を参照ください。
「世界神話説」の提唱者であるマイケル・ヴィツル氏は、
神話は単に言葉として伝わったのではなく、儀礼を伴った、と述べてます。
この説どおりとすれば、神話の原型が日本列島に伝わったさい、儀礼とともに伝わった、ということになります。
具体的に考えると、以下のようになります。
1.神話が伝わった当初の主人公は、AとBだった。
2.日本でも儀礼を毎年行うようになりますが、やがて主人公が、イザナギ・イザナミに変わっていった(実際に、イザナギ・イザナミという人物がいたかどうかは別として)。
3.その後の儀礼では主役の男女(土地の支配階級の人々)が、イザナギ・イザナミに扮して演じた。
4.やがて神話として、イザナギ・イザナミが柱の周囲を回って惚れ合った、という話ができあがった。
以上のように、神話とは単なる物語ではなく、実際にそれを行った人がいた、ということでになります。私はそこに、「神話のリアリティ」をみる、という話をしました。
この儀礼は歌垣として行われるようになりましが、その後さらに発展していくことからもわかります。
"歌垣はその後の歌合、連歌に影響を及ぼしたとされている。現代にも歌垣の残存は見られ、奄美群島のシマ唄の唄遊びや八月踊り、沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣の遺風が見られる。
外国では、中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。”(Wikipediaより)

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