古事記・日本書紀のなかの史実 (15)~「六嶋」はどこか?
前回・前々回と、「大八州」についてみてきました。
古事記には、イザナギ・イザナミが「大八州」を生み終えてからオノゴロ島に戻るときに、「六嶋」を生んだ、と記載されています。
今回は、「六嶋」はどこかについてみていきましょう。
まず吉備児嶋ですが、通説では児島半島とされていますが、日本書紀には「吉備子州」とあるように「州」であり、「州=クニ」であることから、吉備のクニとなります。ただし「子」とあるので、そのうちの一領域かもしれません。
次に、小豆嶋ですが、これは瀬戸内海の小豆島としていいでしょう。
大嶋以下が、問題です。
まず大嶋です。
通説では、周防大島とされています。古田氏は、日本書紀の「大州」として、「オオクニ」すなわち出雲のクニとしています。たしかにそのようにもとれますが、他の「嶋」に比べて「大嶋」の規模が突出して大きくなり、バランスに欠けます。また日本書紀の「大八州」のうち、「越州」すなわちコシノクニだけ該当がないことになります。
他にも候補はあり、どことも言い難いといったところです。
女嶋ですが、通説では大分県の姫島とされています。
姫島には黒曜石が産出し、石器の貴重な材料として、遅くとも縄文時代から利用されました。東九州を中心に、中国地方や四国地方をはじめ、鹿児島県種子島から大阪府に至る広域で使用が確認されています。
このように歴史ある島ですから、古事記に記載されてもおかしくありません。
古田氏も当初は大分の姫島としていましたが、その後、糸島の姫島、後年には北九州の白島の姫島ではないか、と変遷しています。
亦の名が「天一根」であり、これを「天(海人)族」の古い支配領域ということなら、北部九州の日本海にある島が可能性が高いということになります。
いずれにしろ、そもそも「女嶋」を「ひめじま」と読んでいいのか、という問題もあり、断定し難いところです。
知訶嶋(ちかのしま)・両児嶋(ふたごのしま)もよくわかりません。通説では、前者が値賀島(ちかのしま)、後者が男女諸島(いずれも五島列島)とされています。
しかしながら、古事記・日本書紀で全く舞台となっていない五島列島に、なぜ二つも該当する島があるのか、という疑問が湧きます。
またイザナギ・イザナミが大八嶋を生み、戻ってくるときに六嶋を生むわけですから、最後に生む島は、オノゴロ島に近いところとするのが自然です。この条件にも合っていません。
ではどこと考えるのが妥当でしょうか。
まず両児嶋ですが、古田氏は北部九州「沖ノ島」「小屋島」としています。先般世界遺産登録された島で、多くの祭祀遺跡があることから神々の宿る島とも呼ばれるなど、ふさわしいともいえます。
しかしながら、オノゴロ島のある博多湾岸からはやや外れています。また祭祀が始まったのは4世紀後半からとみなされており、神話の時代とはいえません。
ここで興味深い説をネットで見つけたので、紹介します。棟上寅七という方の私的論考「道草」の「国生み私論」からです。
棟上氏は、”大八嶋や六嶋に、由緒ある志賀海神社がありかつ金印出土した北部九州の歴史の島「志賀島(しかのしま)」が入っていないのは、不自然である。”という視点から入ります。
すぐに思いつくのは、「知訶嶋(ちかしま)=志賀島(しかしま)」ですが、古代そのように読まれたという論拠もないことから、別の仮説を提示しています。
それは、海の中道を挟んで「志賀島」と「大岳(西戸埼)」があり、それが両児嶋(ふたごのしま)と呼ばれたのではないか、というものです。両児嶋の亦の名「天両屋(あめのふたつや)」とは、”二つの家の形をした”という意味であり、遠くから見た「志賀島」と「大岳(西戸埼)」は、そのように見える、と述べています。
では「知訶嶋(ちかのしま)」はどうなるのでしょう。棟上氏は、それは「近つ島」と呼ばれ、”オノゴロ島からみて近い島”の意ではないか、としてます。具体的には福岡市の西隣にある糸島市「志摩半島」ではないか、と推測しています。志摩半島も、多くの古代遺跡があることで知られてますから、条件としては申し分ありません。
以上、通説はじめいくつかの説を紹介しました。断定できないものもありますが、限られた資料しかないなか、致し方ないところです。まずは、全体感をつかんでいただければと思います。
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