古事記・日本書紀のなかの史実 (17)~神生み② ハヤアキツヒメ
十神の最後に生まれたのが、速秋津比古神(ハヤアキツヒコ)・速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)の二神です。男女一対の神で、水戸神とあることから、河口を掌る神ともされてます。
”「大祓詞」では、川上にいる瀬織津比売(セオリツヒメ)神によって海に流された罪・穢を、「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神」が呑み込んでしまうと記されている。”
神社で唱えられる「大祓詞」に、瀬織津比売(セオリツヒメ)とともに登場します。
「大祓詞」とは、
”元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞である。”
セオリツヒメは、古事記・日本書紀には登場せず、謎の神です。
”水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。”
人の穢れを水で浄める神ですが、これだけにとどまりません。
”『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。
なお、荒祭宮は、かつては正宮に位置していたと推定される。伊勢神宮公式の由緒書きに、「その御魂をこのように二宮に並べてお祭りするのは、皇大神宮に天照大神を、同別宮に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。」と記されている。
このとおりであれば、正宮は、式年遷宮のたびに位置を替えるのではなく、常に東に位置する正宮は天照大神、西に位置する正宮は瀬織津姫を祀っていたこととなる。” (以上Wikipediaより)
セオリツヒメは、伊勢神宮においては、天照(アマテラス)大神と並ぶ存在であることがわかります。
では、なぜこれほどまでの神が、古事記・日本書紀に出てこないのか、謎とされてます。
以前、セオリツは、宗像三女神の一人タギツヒメではないか、という説を紹介しました。
説の提唱者である矢田氏は、多くの神社で祀られているものの謎の神とされている比咩(ヒミ)神との関連について、
ヒミ(比咩)⇒ヒメ⇒(セオリツ)ヒメ
と変化したのではないか、としてます。
そして、セオリツとは「ソウル」のことであり、セオリツヒメは、「ソウルのヒメ」という意味ではないか、としてます。
詳細は、
宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼?
宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(9)~タギツはセオリツ?
を参照ください。
真実はどうなのか、なんともいえないところです。いずれにしろ、セオリツヒメの実態がよくわかっていないことだけは確かです。
ハヤアキツヒメは、そのセオリツヒメとセットなわけですから、セオリツヒメ同様に、よくわからない神となるもの、いたしかたないところです。
そもそも「大祓詞」に出てくるのは、「ハヤアキツヒメ」であり、「ハヤアキツヒコ」は出てきません。それもなぜなのか、よくわかってません。
ところで、「速秋津日売(ハヤアキツヒメ)」という表記にある「秋津」といえば、国生みの「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」の「秋津」があります。
国生みの話のなかでは、通説では
「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」=本州
ですが、
秋津=大分県別府湾
であり、
「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」=豊の国
との説を紹介しました。
もし同じ「秋津」であるなら、ハヤアキヅヒメも、豊の国(大分県)の神となります。大祓詞に出てくる川は、安岐川の可能性が出てきます。
このように実態のよくわからない、ハヤアキツヒメコ、ハヤアキツヒメですが、『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記してます。
沫那藝(アワナギ)・沫那美(アワナミ)
頬那藝(ツラナギ)・頬那美(ツラナミ)
天之水分(アメノミクマリ)・国之水分(クニノミクマリ)
天之久比奢母智(アメノキヒザモチ)・国之久比奢母智(クニノクヒザモチ)
いずれも水に関係のある神です。
注目は、アワナギです。
前にお話した神代七代のなかで、日本書紀の異伝である一書の第二において、アワナギがイザナギ
を生んだ、となっています。
古事記では、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは、イザナギ・イザナミの子供ですから、アワナギは、イザナギの孫に当たります。
このように、逆転現象が起こってます。
日本書紀の一書(第二)は、中国において後年編纂された「宋史倭国伝」の系譜と同じです。その系譜は、雍熈元年(984年)に宋に渡った東大寺の僧「奝然(ちょうねん)」が持って行った年代記に記されていた、と書かれてます。
つまり、神系統というのも、いくつかの伝承があったということになります。
奝然(ちょうねん)は、自ら藤原氏と名乗ってますので、古事記編纂との関連において、興味深いところではあります。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
”「大祓詞」では、川上にいる瀬織津比売(セオリツヒメ)神によって海に流された罪・穢を、「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神」が呑み込んでしまうと記されている。”
神社で唱えられる「大祓詞」に、瀬織津比売(セオリツヒメ)とともに登場します。
「大祓詞」とは、
”元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞である。”
セオリツヒメは、古事記・日本書紀には登場せず、謎の神です。
”水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。”
人の穢れを水で浄める神ですが、これだけにとどまりません。
”『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。
なお、荒祭宮は、かつては正宮に位置していたと推定される。伊勢神宮公式の由緒書きに、「その御魂をこのように二宮に並べてお祭りするのは、皇大神宮に天照大神を、同別宮に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。」と記されている。
このとおりであれば、正宮は、式年遷宮のたびに位置を替えるのではなく、常に東に位置する正宮は天照大神、西に位置する正宮は瀬織津姫を祀っていたこととなる。” (以上Wikipediaより)
セオリツヒメは、伊勢神宮においては、天照(アマテラス)大神と並ぶ存在であることがわかります。
では、なぜこれほどまでの神が、古事記・日本書紀に出てこないのか、謎とされてます。
以前、セオリツは、宗像三女神の一人タギツヒメではないか、という説を紹介しました。
説の提唱者である矢田氏は、多くの神社で祀られているものの謎の神とされている比咩(ヒミ)神との関連について、
ヒミ(比咩)⇒ヒメ⇒(セオリツ)ヒメ
と変化したのではないか、としてます。
そして、セオリツとは「ソウル」のことであり、セオリツヒメは、「ソウルのヒメ」という意味ではないか、としてます。
詳細は、
宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼?
宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(9)~タギツはセオリツ?
を参照ください。
真実はどうなのか、なんともいえないところです。いずれにしろ、セオリツヒメの実態がよくわかっていないことだけは確かです。
ハヤアキツヒメは、そのセオリツヒメとセットなわけですから、セオリツヒメ同様に、よくわからない神となるもの、いたしかたないところです。
そもそも「大祓詞」に出てくるのは、「ハヤアキツヒメ」であり、「ハヤアキツヒコ」は出てきません。それもなぜなのか、よくわかってません。
ところで、「速秋津日売(ハヤアキツヒメ)」という表記にある「秋津」といえば、国生みの「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」の「秋津」があります。
国生みの話のなかでは、通説では
「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」=本州
ですが、
秋津=大分県別府湾
であり、
「大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)」=豊の国
との説を紹介しました。
もし同じ「秋津」であるなら、ハヤアキヅヒメも、豊の国(大分県)の神となります。大祓詞に出てくる川は、安岐川の可能性が出てきます。
このように実態のよくわからない、ハヤアキツヒメコ、ハヤアキツヒメですが、『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記してます。
沫那藝(アワナギ)・沫那美(アワナミ)
頬那藝(ツラナギ)・頬那美(ツラナミ)
天之水分(アメノミクマリ)・国之水分(クニノミクマリ)
天之久比奢母智(アメノキヒザモチ)・国之久比奢母智(クニノクヒザモチ)
いずれも水に関係のある神です。
注目は、アワナギです。
前にお話した神代七代のなかで、日本書紀の異伝である一書の第二において、アワナギがイザナギ
を生んだ、となっています。
古事記では、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは、イザナギ・イザナミの子供ですから、アワナギは、イザナギの孫に当たります。
このように、逆転現象が起こってます。
日本書紀の一書(第二)は、中国において後年編纂された「宋史倭国伝」の系譜と同じです。その系譜は、雍熈元年(984年)に宋に渡った東大寺の僧「奝然(ちょうねん)」が持って行った年代記に記されていた、と書かれてます。
つまり、神系統というのも、いくつかの伝承があったということになります。
奝然(ちょうねん)は、自ら藤原氏と名乗ってますので、古事記編纂との関連において、興味深いところではあります。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村
スポンサーサイト