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古事記・日本書紀のなかの史実 (30)~神生み⑮ アマテラスの淵源

 
イザナギの禊ぎ払いにより、次々と神が生まれましたが、最後に生まれたのが、天照大御神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)、建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)の、三貴神です。

この三貴神についてみていきましょう。

まずはアマテラスです。

ここまで禊ぎ払いの行われた場所について、北部九州の海峡で、ワタツミ神については志賀島、住吉神については博多の住吉神社等を候補地として挙げました。

ではアマテラスはどうでしょうか?

アマテラスというと、伊勢神宮が思い浮かびますが、ことはそう簡単ではありません。
「伊勢神宮」(千田稔)を参照します。

”いつ、どのような契機でなぜ伊勢の地に鎮座したのかについても明確に説いた資料はない。『日本書記』には垂仁天皇の時代にアマテラス大神が伊勢にまつられた事情が語られているが、『日本書記』の編纂という政治的行為によって組みこまれた虚構性を念頭におくと、無批判に信用できるものではないことはいうまでもない”(同書P6)

アマテラス大神の原型となる神の信仰がやがて王権のなかにとりいれられ、王権の祖神となっていくプロセスがあったにちがいない。”(「伊勢神宮」(千田稔)P5)



ここでいう「アマテラスの原型となる神の信仰」がどこにあったのかを探れば、おぼろげながら見えてくるはずです。

その「アマテラスの原型」ともいうべき「アマテル」系神社がどのように分布しているのかを示したのが、下図です。



アマテル神社分布


上の図に挙げた「アマテル」系神社について、次のように述べてます。

”太陽神をまつることは認めてよく、さらにそれらのなかから一つのキーワードを指摘するとすれば「火明命」という神の名前であろう。”

”いま一つ私の興味を引くのは、対馬のアマテル神社だけが「阿麻氐留」と仮名表記をしている点である。”

”もし「アマテル」信仰が畿内あたりから伝搬して対馬に受け入れられたとしたら、対馬のアマテル神社は「天照神社」と漢字で表記されていた可能性も考えられるが、実はそうではなかった。「アマテル」という本来の音だけが今日まで伝えられたということは、「アマテル」系信仰の源流をこのあたりに求めうるという、一つの仮説を導くことができる。


ポイントは、
太陽神信仰であること
「火明命(ホアカリノミコト)」がキーワードとなっていること
・アマテル系信仰の源流が対馬あたりであること

です。

太陽神信仰といえば、対馬には、天道(天童)信仰があります。
私たちは子供のころ、太陽のことを「おてんとうさん」と呼んだりしますが、天道信仰と関係があるのでは、と述べています。

天道信仰については、
1300年ほど昔、海の向こうから来たというひとりの女性が、太陽の光を浴びて子をはらんだといいます。生まれた子が、太陽を父に持つ「天道法師」。人々の病をたちどころに治すという不思議な力を宿していました。天道法師が亡くなったとされる聖地・八丁角(はっちょうかく)にある石積みの塔は、天道法師が自らつくり、中に入って即身成仏したとされています。”(NHK 新日本風土記アーカイブス「対馬の天道さま」より)

このように、1300年ほどの歴史とされています。

ところがもっと昔にまでさかのぼるという説があります。千田氏は、永留久恵氏の著書「古代日本と対馬」から、
「天道と別に天神、天之神、阿麻氐留神社、照日権現、お日照様などと称する天神系祭祀が二十七ケ所あり、これらの天神が、天道と何等かの関係をもった例が多いことから、この両者は同一の信仰体系にあったものと推察される。」
と引用してます(千田同書P26)

つまりもともと天神の信仰ーアマテル信仰などの太陽信仰ーがあり、それに後年、天道信仰が習合していったという説です。これが史実に近いと考えられます。

千田氏は、アマテラス信仰の淵源について、中国の道教、ことに西王母伝説などとの関連も指摘したうえで、中国南部、長江流域ではないか、と推測しています(同書P42)。

ここでは、ホアカリがアマテラスという名の皇祖神へと昇格した、としているのですが、ホアカリについては、次回とりあげます。

ところで、日本書紀には興味深い記載があります。

”顕宗(けんぞう)天皇三年春二月一日、阿閉臣事主(あへのおみことしろ)が、命をうけ任那に使いした。このとき月の神が人に憑いて、「わが祖タカムスヒノミコトは、天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう」といわれた。事代(ことしろ)は京に帰って、詳しく申し上げた。山城国葛野郡の歌荒樔(ウタアラス)田を奉られた。壱岐の県主の先祖の、押見宿禰(おしみのすくね)がそこにお祀りして仕えた。”

”夏四月五日、日の神が人に憑かれて
、阿閉臣事主(あへのおみことことしろ)にいわれ、「倭の磐余(いわれ)の田を、わが祖タカムスヒノミコトに奉れ」と。事代は奏上し、神の求められるままに、田十四町を奉った。対馬の下県直(しもあがたのあたい)が、これをお祠しお仕えした。”
(全現代語訳「日本書記」(宇治谷孟)より)

前段は、月の神を京都のウタアラス田に祭った経緯を記載しています。これは月読神社の本拠地の壱岐島にある月読神社から、京都の月読神社への勧請(分祠)を伝えるものとされています。

後段の
日の神について千田氏は、対馬のアマテル神社の祭神のこととみてよい、としています(同書P22)。

磐余は、大和王権にとって重要な場所です。

”奈良盆地桜井市中部(阿部・池之内)から橿原市南東部(池尻)にかけての古地名。天香具山北東山麓を指す。
神武天皇の和風諡号、「神日本磐余彦天皇」の中にこの地名が含まれる。
古くから皇居が営まれてきたところで、神功皇后の磐余若桜宮(いわれわかさくらのみや)、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)、継体天皇の磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれいけのへなみつきのみや)が置かれてきている。
5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地で、履中天皇の時代には磐余池が築造されている。『万葉集』巻第三には大津皇子の辞世の句が詠まれており、歌枕でもあった。”(Wikipedia「磐余」より)


月の神を祀った場所が、京都の月読神社になっているわけですから、奈良の磐余の地にも同様に祀られた場所があったことになります。それは目原坐高御魂(メハラニマスタカムスヒ)神社といわれており、その論社として、天満神社、耳成山口神社、山之坊山口神社が挙げられています。いずれも奈良県の橿原市にあります(
www.y-tohara.com/nara-mehara.htmlより)

以上の記載から、月神は壱岐に、日神は対馬にそれぞれ源流があるとされていたと、「日本書記」の記事を解釈することができる。”と述べています(同書P24)。

対馬・壱岐にはどこから伝わったのかについてはここではおいておきますが、大きな流れとして、
北部九州(対馬・壱岐)→畿内
という流れがみてとれますね。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!




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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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